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西加奈子『ふくわらい』

2013-03-19 08:40:00 | ノンジャンル
 石井輝男監督・脚本の'69年作品『異常性欲記録ハレンチ』をスカパーの東映チャンネルで見ました。ねちっこく幼稚で「愛しているんだよ~ん」を連発し、異常に嫉妬心が強い一方、ゲイと一緒になるとマゾで女装癖が出る男が出て来る映画でしたが、目や鼻の穴、そしてのどちんこに至るまでアップの画面が出てくるような不思議な映画でした。

 さて、西加奈子さんの'12年作品『ふくわらい』を読みました。
 4歳になったばかりのマルキ・ド・サドならぬ鳴木戸定(なるきどさだ)は、母が買ってきた雑誌の付録の福笑いで最初に笑い、それまでほとんど感情を表すことのなかった定は、この遊びに没頭することになります。定の父の栄蔵は紀行作家で、その書斎には旅の戦利品とも言うべき、色鮮やかな蝶の標本や、様々な動物のホルマリン漬けや剥製などが溢れるように並んでいて、それらの標本が太陽熱で色あせたり傷んだりするのを防ぐために書斎には窓がありませんでしたが、定は好んでその部屋に入り、暗闇の中で福笑いをするのでした。定の母の多恵は一度だけ、栄蔵の原稿を読んだことがありましたが、それは様々な民族の女性器の形状について書かれたもので、彼は女性器を3種に区分しており、描写はそれぞれの「色」や「深さ」、「内壁の形状」にまでおよび、そのスケッチは、精緻を極めていたので、多恵は二度と栄蔵の著作を読みませんでした。栄蔵の曾祖父は華族の出で、祖父は軍医、父も高名な産婦人科医だったので、彼らが残した遺産は相当なもので、結果栄蔵は食うに困るような生活をしたことがなく、思うさま己の「自由な旅」にかまけていられたのでした。栄蔵が多恵と結婚したのは46歳のときです。その頃まだ生きていた継母にさとされ、しぶしぶといった体でした。多恵とは23歳も年が離れていました。一方の多恵も裕福な家庭に産まれ、父は読書家で、初老の紀行作家などに娘を嫁がせたのも、多分に父の興味のせいでした。多恵が嫁いだのは、1983年のことです。バブル景気前夜の、どこか浮かれ華やいだ気色が町に溢れていましたが、そんな中でも、世田谷区の大きな古い家屋に、手伝いの婆や付きという暮らしは、随分贅沢で、かつ、古めかしいものでした。婆やは50代で、岸田悦子という女性でした。左目を失明していましたが、霊感といおうか、何かにつけ聡い感覚を持っていました。悦子は優しく、よく働く家政婦でしたが、古い家の中、そのような能力のある人間とふたりでいることは、多恵にとって気持ちの良いものではありませんでした。そのくせ何か不安なことがあれば、すぐに悦子に相談しました‥‥。
 とここまでで、全260ページ中の10ページ、まだ物語の端緒でしかありません。この後の物語は定が25歳になり、編集者として様々な作家と言葉のやりとりをし、それが定に及ぼす影響を描写することに費やされていきます。定は幼い頃に父と世界旅行をし、そこである民族の葬儀に参加することで死者の肉を食べ、その結果旅先で死んだ父の肉も食べるという経験をし、また自分の体の存在を実感するために、世界を旅する先々で全身に様々な生き物の入れ墨をします。エッセイを書く、とんでもない顔を持つプロレスラー、目が見えなくなった夫の死後も、夫のふりをして文章を発表し続けた女性、定が呪文で天気を左右することで筆が進む作家らと定は編集者として仕事をし、ラストは偶然新宿で出会って以来、定につきまとう青年と一緒に、定が全裸になって新宿の町を歩くというシーンになっていました。
 『漁港の肉子ちゃん』の“俗=生”の世界とは違い、この小説は間違いなく“聖=死”の世界を描いていることが途中から分かり、それからはあらすじを細かく追うことはせずに一気に最後まで読んでしまいました。『漁港の肉子ちゃん』を支持する私にとっては全く面白くない小説なのですが、後付けを見ると、2ヶ月足らずの間に第4刷まで増刷されていて、その事実が何を意味しているのか、未だによく分からない状態です。私としては、次作でまた“俗=生”の世界に西さんが戻ってくれることを願います。

 →Nature LIfe(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto