また昨日の続きです。
・「映画(『モダンタイムズ』)のインパクトは強かった。工場の門での労働者たちの最初のシーンで、産業時代と大量生産への人間の従属を諷刺し、羊のショットを挿入する。このシーンはドイツとイタリアでは共産党員の“傾向”として焼き取られ、アメリカでは企業家を明らかに憤激させたと、イギリスの映画事典『オックスフォード・フィルム・コンパニオン』は回顧して解説している」
・「これが、荒井貞夫ら陸軍の一派閥、皇道派の青年将校が、『昭和維新』『尊皇討奸』を唱えて国家改造を武力蜂起ではかった二・二六事件である。陸軍上層部はクーデターが天皇・海軍・政財界の指示を得られないと見て、これを鎮圧して皇道派を粛正した。この事件をきっかけに、陸軍の一派、政治・経済・思想の統制による合法的権力確立をめざす統制派は、寺内寿一陸軍大臣を中心に実権を握り、軍指導国家体制、日本のファシズムの体制をととのえていくことになる」
・「チャプリン『葉桜を知っているかって? ぼくは日本が大好きですから、いろいろ知っていますよ』
そう言って、また、
『菊五郎氏が「鏡獅子」を撮って、それが渡米したってね、ぜひ見たいものです。(中略)』
これは驚いた。『鏡獅子』は、六代目菊五郎の名人芸に惚れた小津安二郎が、歌舞伎の海外普及に熱心だった菊五郎の踊りを歌舞伎座で撮影した作品である。1935年に撮影、翌36年完成した。菊五郎が試写会での評判が悪いと聞いて公開を嫌がったため、一般には公開しなかった。小津らしい品のいい記録映画であり、小津のただ一本の記録映画だ。これをチャプリンが知っていたとは驚く」
・「もうひとり、チャプリンが名をあげたドイツの監督アーノルト・ファンク。日本映画の世界への道を打開していた川喜多長政の招きで、二月に来日していた」
・「『モダンタイムス』のようなサウンド映画も、トーキーに遅れた日本映画でさえ、ほとんどトーキーに取って代われれていた。サイレント映画の時代は歴史のかなたへ姿を消しつつあった。それに代わって、フランスの詩的リアリズム映画の全盛時代となり、また日本でもリアリズム映画の勃興する時代を迎えていた」
・チャプリンは(中略)上野美術館で帝展をみた。
『帝展はまったく立派だ。素晴らしい、私どもは日本から種々学ぶものがある』
というのが新聞へのコメント。チャプリンは絵が好きだ」
・「『よほどこの神戸の明るさが気に入っているらしい』
これが米森秘書の感想だった。神戸は石英粗面岩の町である。これが明るさの理由だ」
・「コクトーはチャプリンと同じ1889年生まれである」
・(コクトー)「『乗船した鹿島丸の船室を誰かノックする。あけるとチャプリン君だったので面食らったり、喜んだりしたが、僕は英語がダメ、チャプリン君はフランス語がダメだが、おたがいに芸術家だから手真似で通じ、いろんな話もできて愉快だった。神戸に入港したとき、二本の軍艦が入港していたが、色といい形といい実に立派な堂々たるもので、世界のどこの港に持っていっても日本の軍艦だとわかる特質がある。しかしチャプリン君の同伴者ゴダード嬢はその軍艦を見ないので、なぜ見ないかと聞くと、私はパリの最近の衣装を見た方がいいと言った。女性は軍艦より衣装が大事らしい』」
・「波止場でコクトーは、
『日本には大きな期待をもっているが、滞在日数がわずかなので残念だ。ジュール・ヴェルヌの百周年で、新聞記者と「八十日間世界一周』(原作1873年)が可能かどうか論争になって、賭けをした。3月29日にパリを出発、パリ・ソアール紙が旅費一切をもつこと、敗れれば原稿料なしで世界旅行記を書くこと』
だと、打ち明けている。
ちなみに(中略)イキな企画ではないか。コクトーは所定の6月17日に無事にパリに到着。翌年『僕の初旅(八十日間世界一周)』を刊行した。同じ1937年、堀口大学によって邦訳されている。こののちコクトーは、シナリオライター、俳優としても活躍したが、監督として名をなしたのは、第二次大戦後である。『美女と野獣』『双頭の鷲』『恐るべき親たち』『オルフェ』を監督、独自の神話のようなファンタジーに、フランス映画の一つの系譜を浮かび上がらせた。パリの戦後の廃墟のリアリティをふんだんに使った『オルフェ』は地下世界の悪夢というべきイメージがほとばしり出た傑作だった」
・「『チャプリンは仕事が好きだ。それにポーレットも好きなので、彼はこれも仕事にしている。これ以外はすべて、彼にはうるさい。誰かが仕事の邪魔をするとさっそく彼は疲労し、欠伸をし、機嫌が悪くなり、目のかがやきが消える』」(また明日へ続きます……)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
・「映画(『モダンタイムズ』)のインパクトは強かった。工場の門での労働者たちの最初のシーンで、産業時代と大量生産への人間の従属を諷刺し、羊のショットを挿入する。このシーンはドイツとイタリアでは共産党員の“傾向”として焼き取られ、アメリカでは企業家を明らかに憤激させたと、イギリスの映画事典『オックスフォード・フィルム・コンパニオン』は回顧して解説している」
・「これが、荒井貞夫ら陸軍の一派閥、皇道派の青年将校が、『昭和維新』『尊皇討奸』を唱えて国家改造を武力蜂起ではかった二・二六事件である。陸軍上層部はクーデターが天皇・海軍・政財界の指示を得られないと見て、これを鎮圧して皇道派を粛正した。この事件をきっかけに、陸軍の一派、政治・経済・思想の統制による合法的権力確立をめざす統制派は、寺内寿一陸軍大臣を中心に実権を握り、軍指導国家体制、日本のファシズムの体制をととのえていくことになる」
・「チャプリン『葉桜を知っているかって? ぼくは日本が大好きですから、いろいろ知っていますよ』
そう言って、また、
『菊五郎氏が「鏡獅子」を撮って、それが渡米したってね、ぜひ見たいものです。(中略)』
これは驚いた。『鏡獅子』は、六代目菊五郎の名人芸に惚れた小津安二郎が、歌舞伎の海外普及に熱心だった菊五郎の踊りを歌舞伎座で撮影した作品である。1935年に撮影、翌36年完成した。菊五郎が試写会での評判が悪いと聞いて公開を嫌がったため、一般には公開しなかった。小津らしい品のいい記録映画であり、小津のただ一本の記録映画だ。これをチャプリンが知っていたとは驚く」
・「もうひとり、チャプリンが名をあげたドイツの監督アーノルト・ファンク。日本映画の世界への道を打開していた川喜多長政の招きで、二月に来日していた」
・「『モダンタイムス』のようなサウンド映画も、トーキーに遅れた日本映画でさえ、ほとんどトーキーに取って代われれていた。サイレント映画の時代は歴史のかなたへ姿を消しつつあった。それに代わって、フランスの詩的リアリズム映画の全盛時代となり、また日本でもリアリズム映画の勃興する時代を迎えていた」
・チャプリンは(中略)上野美術館で帝展をみた。
『帝展はまったく立派だ。素晴らしい、私どもは日本から種々学ぶものがある』
というのが新聞へのコメント。チャプリンは絵が好きだ」
・「『よほどこの神戸の明るさが気に入っているらしい』
これが米森秘書の感想だった。神戸は石英粗面岩の町である。これが明るさの理由だ」
・「コクトーはチャプリンと同じ1889年生まれである」
・(コクトー)「『乗船した鹿島丸の船室を誰かノックする。あけるとチャプリン君だったので面食らったり、喜んだりしたが、僕は英語がダメ、チャプリン君はフランス語がダメだが、おたがいに芸術家だから手真似で通じ、いろんな話もできて愉快だった。神戸に入港したとき、二本の軍艦が入港していたが、色といい形といい実に立派な堂々たるもので、世界のどこの港に持っていっても日本の軍艦だとわかる特質がある。しかしチャプリン君の同伴者ゴダード嬢はその軍艦を見ないので、なぜ見ないかと聞くと、私はパリの最近の衣装を見た方がいいと言った。女性は軍艦より衣装が大事らしい』」
・「波止場でコクトーは、
『日本には大きな期待をもっているが、滞在日数がわずかなので残念だ。ジュール・ヴェルヌの百周年で、新聞記者と「八十日間世界一周』(原作1873年)が可能かどうか論争になって、賭けをした。3月29日にパリを出発、パリ・ソアール紙が旅費一切をもつこと、敗れれば原稿料なしで世界旅行記を書くこと』
だと、打ち明けている。
ちなみに(中略)イキな企画ではないか。コクトーは所定の6月17日に無事にパリに到着。翌年『僕の初旅(八十日間世界一周)』を刊行した。同じ1937年、堀口大学によって邦訳されている。こののちコクトーは、シナリオライター、俳優としても活躍したが、監督として名をなしたのは、第二次大戦後である。『美女と野獣』『双頭の鷲』『恐るべき親たち』『オルフェ』を監督、独自の神話のようなファンタジーに、フランス映画の一つの系譜を浮かび上がらせた。パリの戦後の廃墟のリアリティをふんだんに使った『オルフェ』は地下世界の悪夢というべきイメージがほとばしり出た傑作だった」
・「『チャプリンは仕事が好きだ。それにポーレットも好きなので、彼はこれも仕事にしている。これ以外はすべて、彼にはうるさい。誰かが仕事の邪魔をするとさっそく彼は疲労し、欠伸をし、機嫌が悪くなり、目のかがやきが消える』」(また明日へ続きます……)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)