gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

シュテファン・ドレスラー『かの素晴らしきオーソン・ウェルズ』その4

2019-03-29 00:14:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
「未完成作品の取り扱い方」
 1995年、オヤ・コダールがウェルズ個人の遺品の中に見つけた映画素材の大半をミュンヘン映画博物館に寄贈した際、復元された作品を特集上映することを条件とした。オーソン・ウェルズが晩年の20年間にどのような作品を作ったのか、世界に知らせてほしいという意図であった。1999年以来、ミュンヘン 映画博物館では、世界各国で開催される「知られざるオーソン・ウェルズ」特集上映を企画し、支援している。断片的に残っている大量の映像や未編集の素材をつなぎ合わせることにより、上映可能な短篇作品や作業プリントが生まれた。どのプロジェクトの場合も、入念に検討した独自のコンセプトで準備しているが、昔も今も批評家たちの中には、ウェルズ以外の誰も彼の作品に手を付けるべきでないという人もいる。だからと言って、代替案を出せる人はいるだろうか? 何度も繰り返しテイク、ラッシュ、アウトテイクを見て、あるいは台詞、音、アフレコなど(どの順番かは別として)を聞いて、作品全体を把握することはできるのだろうか? こういう方法で、オーソン・ウェルズの意図した作品に本当に近づくことが可能なのだろうか? それとも、莫大な量の素材と編集ヴァージョンのせいで作品の輪郭すら失ってしまい、まさしく「消滅」の危機に瀕している状況なのか?

 全ての入手可能な情報を得た上での復元作業は、つねに映画作家が考えていた目論見の一つの解釈となり得る。たとえ、ジェス・フランコが統合したDon Quixote de Orson Welles(オーソン・ウェルズのドン・キホーテ)(1992年)のように間違った解釈であっても、反面教師的な形で、未編集の素材よりずっと多く、ウェルズおよび彼の製作意図についての情報を得る手段となる。幸運な場合は、前の失敗を避けてアイデアや認識、手法、技術などを駆使し、改めて復元作業にとりかかる契機となる。どんな素晴らしい復元も、未完の作を完成に近づけるだけで、けっして 完成そのものに至るものではない━━結論は作家自身にしか出せない、出すことが許されないものである。

 そのような訳で、ウェルズの映画は、彼の死後何年たっても、同世代や同僚の作家に比べ、非常に高い関心を集めている遺産だと言える。オーソン・ウェルズは、芸術家として20世紀のマスメディアを利用し、その可能性を限界まで知りつくしていた。そして、演劇、ラジオ、映画、テレビにおいて評価の基準になった。おそらく彼が現在も生きていたとしたら、製作者に対してもプリント作成にも自由度が高く、革新的な新技術の可能性をもたらした。デジタルメディアを積極的に導入したであろうことは想像に難くない。