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山田詠美『唇から蝶』その1

2019-12-10 18:39:00 | ノンジャンル
 文芸雑誌『群像』2016年10月号「創刊70周年記念号・群像短篇名作選」に掲載されていた、山田詠美さんの1993年1月の作品『唇から蝶』を読みました。

 ぼくの妻の唇は青虫である。(中略)
 妻の話によると、唇が青虫になる可能性は、幼い頃からあったらしい。大人たち、特に男の大人たちは、いつも、彼女の唇をうっとりと見詰めて、大きくなったら、さぞかし、魅力的な唇になるだろうと呟いたそうだ。(中略)
 いつ頃から、その動きある唇が、青虫に変わったのかは、はっきりとは言えないそうだ。(中略)
 彼女は、外出する時には、いつも念入りに口紅を塗る。ファンデーションを塗り、白粉をはたき込み、その上に、幾重にも紅を重ねるので、他の人々には気付かれることがない。(中略)
 初めて、彼女を見かけたのは、ある冬の朝のことだ。ぼくは、アルバイト先の職場をくびになり、職探しをしている最中だった。(中略)停まったバスから、黒いコートの衿を立てた彼女が降りて来た。(中略)厚い、肉感的な唇だった。ぼくは、仕事の面接のことなど忘れてしまい、彼女の後をつけた。(中略)
 どのくらいの時間が過ぎただろうか。ようやく彼女は立ち止まり振り向いた。
「変質者なの?」(中略)ぼくは、おそるおそる頷いた。(中略)
「その唇のことですが」(中略)
「一回、二万円よ。ちょっと高いかもしれないけど、私の唇は特別なの。お金あるの?」
 金などなかった。いったい、何を、二万円でしてくれるのか見当もつかなかった。仕様がないので、ぼくは、結婚してくれと、その場で申し込んだ。半分冗談のつもりだったが、驚いたことに彼女は、あっさりと承諾した。そうして、ぼくたちは夫婦になった。
(中略)
 赤く塗った唇で、彼女は、時折、ぼくに良いことをしてくれた。これが二万円の内容なのかと、ぼくは彼女の頭を股間に置きながら思った。(中略)ぼくたちは、体を重ねたことがない。何故なら、彼女が、望まないからだ。(中略)
「でも、結婚したんだから」
「結婚すると、愛し合わなきゃいけないってものでもないでしょう? 違う?」
「さあ」
「あなただって、私の唇だけ追いかけて来て求婚したんだから、文句は言えない筈よ」
 そう言われればそうだ。(中略)だいいち、彼女のことは何も知らない。婚姻届けを見たら、青木美代子という平凡な名前があった。結婚して、ぼくの鈴木という姓になった彼女は、ますます平凡な名前を持った訳だ。(中略)
「きみのこと、みみちゃんて呼ぼうかなあ」
「よしてよ。そんなくだらない」
 可愛い呼び名だと思ったが、彼女が露骨に嫌な顔をしたので、ぼくは、心の中で彼女を思う時にだけ、その名を使った。
 彼女は、時折、とても汚ない言葉で、ぼくをののしった。(中略)
「きみ、昔から、そうなの?」
「何が?」
「そういうふうに、人をののしって来たの?」
「そうよ」(中略)
 彼女は、何週間かに一度、まるで発作を起こしたかのように泣きわめくことがあった。そういう時、いつもの口汚ない言葉はなく、うなるような泣き声だけが部屋中に響いた。(中略)
 夏の初めに、ぼくは、彼女をデートに誘った。山の方の川べりにでも行ってみないかと言ったのだ。(中略)
「あなたといると退屈しちゃうかもしれないから、ワインとか、お弁当とか、詩集とかも用意しなきゃ。ああ、忙しい」(中略)
 (中略)彼女は、川の水で冷やした白ワインを注意深く開けて、プラスティックカップに注いだ。
「ほら、見てごらん」
 彼女は、カップを、陽ざしにかざした。ワインには光の粒が沢山溶けているように見えた。
「一杯の川の水と一杯のワインのどちらにいっぱい太陽が入ってるでしょうか」(中略)
「でも、ワインだと思うな。私は、ちゃんと飲めるものが大事だもん。ほうら、太陽を飲んでやるぞ」(中略)
「そんなに急に飲んじゃって大丈夫なの」
「あなたの精液も、こうやって飲んでるんだよ」(中略)
「どうして、いつも、口紅塗ってるの?」
「おいしいから」
 ぼくは、ただ頷いただけだった。彼女が本当のことを言う訳がない。
「口紅は、おいしいよ。ほんとだよ」
 彼女は、そう呟いて、ぼくを見たが、なんだか悲しげだった。(中略)
 その夜、彼女は、眠っていたぼくを起こして、話があると言った。ぼくは、眠い目をこすっていたが、彼女の話を聞く内に、すっかり目が覚めた。彼女の話とは、もちろん、唇の秘密のことだった。(中略)
 ぼくは、彼女をそっと抱き寄せた。(中略)優しく、つぶさないように、泣きたいような気持でキスをした。
 その夜以来、彼女は、ぼくの前であまり口紅を塗らなくなった。(中略)ぼくは、彼女の顔を、まじまじと見詰めたりもした。しかし、やがて、慣れた。(中略)
 (中略)彼女は、相変わらず、ぼくをののしっているし、ぼくに断りもなく、どこかに出掛ける。体を重ねるようなこともない。(中略)

(明日へ続きます……)

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