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山田詠美『唇から蝶』その2

2019-12-11 12:26:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 そんな生活を続けている内に、かのじょは 体の調子を崩して床に着いた。ひどい頭痛と口内炎に悩まされている様子だった。ぼくは、彼女の体温を計り、頭を氷で冷やした。
「あなたに看病されると治るものも治らなくなる。だって醜男なんだもん」
 彼女は、そう言って、ぼくを困らせた。青虫は、からからに乾いて苦し気に暴れていた。それらを湿らせるために、何度もキスをしなくてはならなかった。
「そういうことしても無駄みたい」
 彼女は言った。それは本当だった。緑色の青虫は次第に茶色に変色して行ったのだ。嫌な予感がした。ぼくは、これと同じ状態に変わって行った青虫を小学校の時に見たことがある。完全変態という言葉を、ぼくは久し振りに思い出した。
「ねえ、私が、あなたのことを、すごく悪く言ったの怒ってる?」
 彼女は、掠れた声でそう言った。ぼくは、首を横に振った。
「その全部を帳消しにするような言葉を思いついたんだけど」
 彼女は、その言葉を口にする前に昏睡状態に落ちた。唇は、すっかり固くなっていた。ぼくは、彼女の寝床の側に膝を抱えて、顔の上の二体のさなぎを見ていた。(中略)
 いつのまにか、ぼくは眠りこけてしまったらしい。小さな羽音で我に返ると、彼女の顔の上には、二匹の大きな蝶がいた。(中略)羽には、うっすらと金色がかかり、それは、いつか行った川べりで開けたワインを思い出させた。ほら、見てごらん。彼女はそう言った筈だ。どっちにいっぱい太陽が入っているでしょうか。
 ぼくは立ち上がり窓を開けに行った。外の空気が室内に流れ込むと同時に、蝶は、彼女の顔の上を飛び立った。そして、部屋の中を飛びまわり、二匹で遊ぶように、窓から出て行った。(中略)
 彼女は、いつのまにか目覚めていた。ぼくは、慌てて彼女の許に駆け寄った。唇は、もぬけの殻になり干からびていた。
「大丈夫かい?」
 彼女は、ぼくに答えようとしたが、さなぎの脱け殻は、もう言葉を紡がないのだった。彼女は、それでも、必死に口を動かしていた。しかし、自分でも、無駄な抵抗だと悟ったようだった。彼女は、悲し気な瞳を、ぼくに向けた。ぼくは、彼女を抱き締めて、こころの中にしまっておいた名前を呼んだ。
「みみちゃん」
 彼女は、顔を上げて、恨めしげにぼくを見た。そして、寝床の側に置いてあったヴァニティケースを指差した。ぼくは頷いて、それを開け、いつもの口紅を選んだ。慣れない手付きで紅筆を持ち、ぼくは、彼女の唇の皮に紅をのせた。指は震えて、はみ出してしまったけれども、ぼくにしては上出来だった。彼女は、もどかしそうに唇を動かしてぼくに何かを伝えようとしたけれども、ぼくは、そんな彼女を制して、初めて、やわらかくその体をシーツの上に押し倒した。

 何とも官能的な作品でした。

 →サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto