gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

瀬尾まいこ『傑作はまだ』その7

2020-04-01 10:57:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 森川さんが帰った後、あまりのおいしさに三杯も飲んだ柚子茶のおかげだろうか。森川さんといくつか言葉を交わしているうちに、頭がさえてきたのだろうか。ようやく新しい空気が俺の中に巡り始め、パソコンを開くと、言葉はあふれるようにつむぎだされた。
 連載九回目。死を決意した亮介は部屋で一人手紙をしたためる。誰あてということはない。ただ死を選択した理由を書き連ねるだけだ。

 文章にしながら過ぎた日を振り返ると、よぎるのは後悔だ。もっと家族と連絡を取っておけばよかった。普段から友人と話をしておけばよかった。そうすれば俺は、まだ生きようとしていただろう。(中略)そんな思いを抑えながら亮介が手紙を書いていると、チャイムが鳴った。(中略)扉を開けると、そこに立っていたのは、よく行くコンビニの店員だった。
「さっき、兄ちゃん、うちの店で買い物して、ほら、忘れただろう」
 初老の店員は、財布を亮介に差し出した。(中略) 店員は「あとこれも」と亮介にビニール袋を押し付けた。
「何ですか?」
 受け取った袋にはポカリスエットが三本入っている。
「ここんとこ兄ちゃん、なんだか顔色悪いからさ。風邪でも引いてるのかと思って、ま、ついでだから」
 店員はそう言うと、「じゃあ」と亮介に背中を向けた。(中略)
 ポカリか。幼い時、体調を崩すとおふくろがよく飲ませてくれた。中学の体育祭で、友達が分けてくれたこともあった。(中略)「大丈夫?」「元気を出して」「がんばれよ」。そして、この飲み物に添えられていた言葉を、俺は覚えている。
 ポカリスエットを飲み干すと同時に、亮介は手紙を破り捨てていた。

 中断することなく一息に書き終えると、俺は思いっきり伸びをした。(中略)
 けれど、こんな話、俺らしくないと、編集者に却下されるだろうか。現実はそんなに甘くないと笑われるだろうか。(中略)
 来月執筆予定の結末はまるで変わってしまうが、まあいい。俺は大きく深呼吸をすると、出版社に原稿をメールで送信した。
(中略)一日目にして最良の作り方をマスターした柚子茶を飲んでくつろいでいると、メールの着信音が聞こえた。原稿を送ってから一時間も経ってない。いつも返信が来るのは翌日なのに、目を通した編集者が慌てて、書きなおすようにと指示を送ってきたのだろう。
 そう思いながらメールを開くと、
【最近パターン化していたので、心配でしたが、すごくいいと思います。ゲラにして来週中には送ります】
 とあった。(中略)
 昨日は一日寝ていたし、今日は柚子茶だけで仕事をした。胃の中は空に等しい。(中略)
「ああ、親父さん、元気かい? こっちは智が新しい店に移ってしまって困ってるよ」
 ローソンの店内に入るや否や、笹野さんがそう声をかけてきた。(中略)
「からあげクンかい?」
「はあ、まあ、そうなんですけど、どうしてわかったんですか?」
「よく、親父さんが好きだって、智が言ってたからさ。よし、一パックおまけだ」(中略)

 誰かと近づけば、傷つくことも傷つけてしまうこともある。(中略)
 一人で過ごしていれば、そういう醜いものすべてを切り捨てられる。ストレスも嫌らしい感情も生まれない心は、きれいで穏やかだ。しかし、こんなふうにうれしい気持ちになることは一人では起こらない。

(中略)
 仕事を終えた充実感と晴れやかな空。それに、朝から飲んだ柚子茶のおかげで、体のどこにも重みはない。せっかくだ、出かけるとしようか。(中略)いや、本当は行きたい場所があるはずだ。どうして今まで一度も行こうという考えに及ばなかったのだろうか。(中略)智と同じく、二十年以上を隔てた今、俺も自分の親に会ってみたかった。

(また明日へ続きます……)