また昨日の続きです。
(中略)
今年で父親は八十歳、母親は七十八歳になったはずだ。(中略)俺は思い切ってチャイムを押した。
「なんとまあ、正吉じゃないか」
俺だとわかってもらえるだろうかという心配は杞憂(きゆう)で、出てきたおふくろはすぐさま俺の名を呼んだ。(中略)
「おお、正吉。なんとまあ、ずいぶん久しぶりじゃないか。いや、すまん、すまん、ここんとこ腰が痛くて思うように動けなくて」(中略)
二十八年ぶりに帰ってきたことを、連絡すら取っていないことを、親父もおふくろも忘れているのだろうか。(中略)
「ほら、いつも美月ちゃんからお前の話聞いてるから、久しぶりの気がしなくて」
と、おふくろが言った。(中略)
美月はここに来ていたのだ。親父やおふくろが自然に名前を口にするくらいだから、それも一度や二度じゃない。いったい何のために、何をしに、いつから?(中略)
美月は智が五歳になったころから月に一度、この家に訪れだした。(中略)今でも二人でここにやってくるらしい。(中略)
「智が中学校で働いてすぐ担任持ったクラスで、生徒さん亡くなっただろう? (中略)智、その後(中略)教師も辞めて家にこもってしまってさ。(中略)どうなるかとみんな心配してたけど、一年くらい前からかな、少しずつバイト始めたみたいだよ」(中略)
「なんだかんだ言ってもさ、智の名前、お前の小説から付けたんだろう? ずいぶん思いをこめたんじゃないか」
親父はそう言った。
「小説から?」
「美月ちゃん、そう言ってたけど」
「小説……」(中略)息子の名前は、タイトルに出てくる漢字を合わせると、できあがる。
「俺、行く所思い出したよ」(中略)
「突然来たと思ったらどうしたんだい?」(中略)
「またすぐに来るから」
そうだ。ここはいつでも来られる場所だ。気づいたら、行かなくては。
明日がもっとすばらしいことをきみはぼくに教えてくれた。今日はきっときみを知る日になる。
(中略)
四月二十八日、日曜日。六時過ぎのゆったりとした夕日が窓から流れ込んでくる。
テーブルに並べたのは、森川さんからもらったあさりの炊き込みご飯と、山浦さんが広島旅行で買ってきてくれた穴子寿司。それに三好(みよし)さんの奥さんが初挑戦したというパエリアだ。智は「米ばかりじゃん」と眉をひそめるだろうが、しかたない。(中略)
時計は六時四十五分。もうすぐだなと玄関に向かう途中でチャイムが鳴った。
「夕飯は何もいらないって、おっさん言ってたから、からあげクンだけ買ってきたよ」
と、智は入ってくいるなり見慣れたレジ袋を俺に押し付け、
「大事なものだからなくさないうちに、先に返しておくね」
と、美月は封筒を丁寧に差し出した。(中略)
小説の感想を言いに来ているはずなのに、二人からは「まあいいんじゃない」「うん、おもしろかった」くらいで、参考になる意見はまだ聞けていない。
あの日、実家を飛び出した俺は美月の所へ向かおうとしてはっとした。二十五年間毎月送られてきた封筒に住所が書いてあったはずなのに、俺は美月の住まいを知らなかった。(中略)今の勢いがないと美月には会えない。そう思った俺は、そのまま智がバイトしている駅前のローソンを訪れた。(中略)
ところが、ローソン駅前店は忙しく、智の姿を見つけたものの、話をできる状況ではなかった。(中略)
その二週間後、智と美月がやってきた。(中略)
二十五年という時間も、俺がしたことも、何もかもを吹き飛ばすような力強い笑顔。一人で智を育てたのだ。わかくして突然母親になったのだ。苦労したはずだし、つらいことややるせないことだってあっただろう。それなのに、そんな推測を寄せ付けない、一切の曇りがない笑顔。俺がこんなふうに笑えるには、どれほどの経験が必要なのだろうか。(中略)
その後、俺の小説が好きであの日の飲み会はうきうきしていたこと。けれども、何度か会ううちに俺の本性にすっかり冷めたこと。それでも、小説だけは変わらず好きで読み続けていたこと。美月からそんな話を聞くうちに、書いたものを一番に二人に見せる、というのが俺たちの新しい取り決めとなり、原稿を送った後の日曜日、二人がこの家を訪れるようになった。
(中略)
智について語りつくすなんて、とうてい無理だ。智にまつわる話も、俺たちの話も、結末はない。明日も明後日も、これからの俺の日々が、きみを知る日だ。
中年男性を主人公にした小説は、瀬尾さんの作品ではこれが最初ではないでしょうか。主人公の職業が小説家というのも、面白かったと思います。
(中略)
今年で父親は八十歳、母親は七十八歳になったはずだ。(中略)俺は思い切ってチャイムを押した。
「なんとまあ、正吉じゃないか」
俺だとわかってもらえるだろうかという心配は杞憂(きゆう)で、出てきたおふくろはすぐさま俺の名を呼んだ。(中略)
「おお、正吉。なんとまあ、ずいぶん久しぶりじゃないか。いや、すまん、すまん、ここんとこ腰が痛くて思うように動けなくて」(中略)
二十八年ぶりに帰ってきたことを、連絡すら取っていないことを、親父もおふくろも忘れているのだろうか。(中略)
「ほら、いつも美月ちゃんからお前の話聞いてるから、久しぶりの気がしなくて」
と、おふくろが言った。(中略)
美月はここに来ていたのだ。親父やおふくろが自然に名前を口にするくらいだから、それも一度や二度じゃない。いったい何のために、何をしに、いつから?(中略)
美月は智が五歳になったころから月に一度、この家に訪れだした。(中略)今でも二人でここにやってくるらしい。(中略)
「智が中学校で働いてすぐ担任持ったクラスで、生徒さん亡くなっただろう? (中略)智、その後(中略)教師も辞めて家にこもってしまってさ。(中略)どうなるかとみんな心配してたけど、一年くらい前からかな、少しずつバイト始めたみたいだよ」(中略)
「なんだかんだ言ってもさ、智の名前、お前の小説から付けたんだろう? ずいぶん思いをこめたんじゃないか」
親父はそう言った。
「小説から?」
「美月ちゃん、そう言ってたけど」
「小説……」(中略)息子の名前は、タイトルに出てくる漢字を合わせると、できあがる。
「俺、行く所思い出したよ」(中略)
「突然来たと思ったらどうしたんだい?」(中略)
「またすぐに来るから」
そうだ。ここはいつでも来られる場所だ。気づいたら、行かなくては。
明日がもっとすばらしいことをきみはぼくに教えてくれた。今日はきっときみを知る日になる。
(中略)
四月二十八日、日曜日。六時過ぎのゆったりとした夕日が窓から流れ込んでくる。
テーブルに並べたのは、森川さんからもらったあさりの炊き込みご飯と、山浦さんが広島旅行で買ってきてくれた穴子寿司。それに三好(みよし)さんの奥さんが初挑戦したというパエリアだ。智は「米ばかりじゃん」と眉をひそめるだろうが、しかたない。(中略)
時計は六時四十五分。もうすぐだなと玄関に向かう途中でチャイムが鳴った。
「夕飯は何もいらないって、おっさん言ってたから、からあげクンだけ買ってきたよ」
と、智は入ってくいるなり見慣れたレジ袋を俺に押し付け、
「大事なものだからなくさないうちに、先に返しておくね」
と、美月は封筒を丁寧に差し出した。(中略)
小説の感想を言いに来ているはずなのに、二人からは「まあいいんじゃない」「うん、おもしろかった」くらいで、参考になる意見はまだ聞けていない。
あの日、実家を飛び出した俺は美月の所へ向かおうとしてはっとした。二十五年間毎月送られてきた封筒に住所が書いてあったはずなのに、俺は美月の住まいを知らなかった。(中略)今の勢いがないと美月には会えない。そう思った俺は、そのまま智がバイトしている駅前のローソンを訪れた。(中略)
ところが、ローソン駅前店は忙しく、智の姿を見つけたものの、話をできる状況ではなかった。(中略)
その二週間後、智と美月がやってきた。(中略)
二十五年という時間も、俺がしたことも、何もかもを吹き飛ばすような力強い笑顔。一人で智を育てたのだ。わかくして突然母親になったのだ。苦労したはずだし、つらいことややるせないことだってあっただろう。それなのに、そんな推測を寄せ付けない、一切の曇りがない笑顔。俺がこんなふうに笑えるには、どれほどの経験が必要なのだろうか。(中略)
その後、俺の小説が好きであの日の飲み会はうきうきしていたこと。けれども、何度か会ううちに俺の本性にすっかり冷めたこと。それでも、小説だけは変わらず好きで読み続けていたこと。美月からそんな話を聞くうちに、書いたものを一番に二人に見せる、というのが俺たちの新しい取り決めとなり、原稿を送った後の日曜日、二人がこの家を訪れるようになった。
(中略)
智について語りつくすなんて、とうてい無理だ。智にまつわる話も、俺たちの話も、結末はない。明日も明後日も、これからの俺の日々が、きみを知る日だ。
中年男性を主人公にした小説は、瀬尾さんの作品ではこれが最初ではないでしょうか。主人公の職業が小説家というのも、面白かったと思います。