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西加奈子『サラバ!』その2

2017-06-28 02:52:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 姉の家出時間が7時間を記録した翌日、とうとう両親は、新居を見つけてきた。家族4人が初めて住む家として、これ以上理想的な家はなかった。ベランダが、そして自分だけの部屋が嬉しかったのか、姉は矢田のおばちゃんや夏枝おばさんを、それほど恋しがらなかった。姉は早々に自分の城を築き上げることに専念し、一日のほとんどを部屋で過ごすことになった。
 姉は小学校に行くことになった。僕はいつだって良い子にしていた。子供にとって大切なものは、食事から取る栄養だけではない。母や、母に類するものや、やはり大人からの愛情である。
 当時、僕の通う幼稚園では、クレヨンを交換する、ということが流行っていた。ピンク色を一番多く集められている女の子が一番人気で、青色を一番集められてい男の子が一番人気、というわけである。結果一番ピンクを集めていたのは「なかの みずき」という女の子だった。「なかの みずき」はクレヨンのトレードが始まって数ヵ月経っても、彼女のクレヨン箱の中には、まだ青が残っていた。そして「なかの みずき」の他に重大な決定を下していない園児がいた。僕だ。だが僕はすでに渡していたのだ。僕の「心の中のピンク色のクレヨン」を。それは「みやかわ さき」という女の子だった。彼女は大体いつもひとりでいた。僕が「みやかわ さき」に惹かれたのは、まさにそういうところだった。「みやかわ さき」は、「クレヨンを、好きな色と交換する」という、表面上の遊びの方に夢中になったのだ。「みやかわ さき」の好きな色は、緑色だった。僕は「これあげる。」と言って、「みやかわ さき」に緑色のクレヨンを見せると、「みやかわ さき」の大きな黒目が、ぎゅうんと横に伸びた気がした。見下した「みやかわ さき」のクレヨン箱の中には、ピンク色がまだ残っていた。それは「みやかわ さき」が自主的に取っておいたピンク色だった。「ほな、これあげる。」「みやかわ さき」が選んだのは「はだいろ」だった。僕はその場で、立ち尽くしてしまった。
 姉は相変わらず、小学校の問題児だった。幼いときは、ただただ泣き喚く、暴れる、といった態度を取っていた姉だったが、長じるにつれ、何か思う通りにいかないときには、てんかんの発作のようなものが出るようになった。母は僕に優しい言葉をかけてくれたが、それが本心から発されている言葉でないということは、幼い僕でも分かった。母は、こんなことは何でもない、私たちは万事OK、そう自分に言い聞かせるために、優しい母をことさら演じたのだ。その頃の僕にとって、毎日はばら色、とまではいかなかったが、おおむね良い色だった。
 僕は、姉と同じ小学校に入学した。小学校では相変わらずやらかし続けていた姉だったが、姉の周囲にいるクラスメイトの態度には、変化が見られるようになっていた。低学年のときは、皆姉を恐れた。乱暴者、得体の知れない人物として。姉を遠巻きに見ていた。だが中学年になり、高学年になってくると、皆姉の狼藉を疎ましく思うようになった。そして、ある日、姉を徹底的に傷つける言葉が誕生してしまった。「圷さんって、ご神木みたいやない?」その瞬間の皆の、けたたましい笑い声を、姉は忘れなかった。彼らは自分たちの間に格差があることを知り、世の中には傷つけてもいい人がいることを認識した。「おい、ご神木!」姉は皆のその感情を一身に受けた。中学入学後2日目に、姉の同級生が、僕のクラスに顔を出した。「お前の姉ちゃん、ご神木って呼ばれてんねんぞ。知ってるか?」だが、僕がとりたてて突っ込むべき要素がないのを見て取ると、去っていった。姉は夕食にもほとんど手をつけなかった。「アンネ・フランクの人生を思うにつけ、自分はのん気にご飯を食べることなんて出来ない。ご飯を食べないことによって私はアンネの気持ちになろうとしているのだ。」姉の思いは強かった。一方、いとこのまなえは、そんな姉を馬鹿にした。「ほなあんたは、アンネみたいに毒ガスで死ねるん?」姉のマイノリティ願望が「辛い思いを知っている人間になりたい」というものなら、まなえのそれは、「自分はお嬢様でしかも可愛い。選ばれた人間になりたい」というものだった。また僕のいとこの義一と文也は僕にゲイの雑誌を見せて、僕を笑った。5月に入って、僕と姉は誕生日を迎えた。ある日、珍しく早く帰ってきた父が、僕に一緒に風呂に入ろうと言ってきた。そこで父は僕らの家族がエジプトに行くことになったことを告げた。(また明日へ続きます……)

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