常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

合歓の花

2018年07月26日 | 漢詩

遠くから合歓の木に花をつけているのを

見ると、木全体がピンクの衣をまとった

ように見える。合歓と表現するのは、夜

になると葉を閉じて眠るような姿になる

ためである。花が眠るのではない。

合歓は小枝の先に十数個の花柄を持ち、

紅を含んだ絹糸のうように見えるのが、

雄蕊だ。合歓の花は、一日花というより

一夜花だ。夕方に咲いて、一晩中咲き続

け、翌日の午後に萎れる。この花の習性

をとらえて詠んだのが、江馬細香の漢詩

『夏の夜』だ。

雨晴れて庭上竹風多し

新月眉の如く繊影斜めなり

深夜涼を貪って窓を掩わざれば

暗香枕に和す合歓の花


雨は上がっても、夏の夜は蒸し暑い。窓

を開けて寝るのは、昔も今も変わりはな

い。その枕元に漂ってくるのは、合歓の

花の香りだ。読みようによっては、艶め

かしい詩である。

細香は大垣の藩医江馬蘭斎の娘である。

大垣で細香に会った頼山陽は、一目で

気に入り、妻に迎えることを望んだ。

しかし蘭斎はこれを許さず、娘の作る

漢詩の添削を依頼した。こうして子弟

の関係となったが、二人は漢詩を通して

子弟以上の関係を持つようになっていく。

細香の作る漢詩は、いつも師山陽の目を

意識している。自らの寝姿を暗示する

この詩が、艶めいて感じるのは、そう

した事情があるからかも知れない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初夏の詩

2018年05月09日 | 漢詩


低温注意報が出る。曇り空に時おり降る冷たい雨。上着が欲しくなる。外を見れば、緑は濃くやはり季節は初夏である。本棚から漢詩のアンソロジーを出して、立夏の項を拾い読みをする。明の于謙という詩人の、この季節の詩が目についた。題して「偶題」。

薫風何れの処よりか来たり

我が庭前の樹を吹く

啼鳥繁陰を愛し

飛び来りて飛び去らず

作者の鳥を見る目の確かさに驚かされる。木々の葉が茂るころ、鳥たちにとっては餌を探す絶好の季節でもある。普段は見ることのない鳥たちが、木々を目がけて飛んでくる。付近の草木の伸びたあたりでしきりに餌を探す。詩意を記す。

かぐわしい初夏の風がどこかからやって来て、
我が家の庭先の木々に吹いている。
さえずる鳥たちは茂った木陰が気に入って
飛んだ来たまま飛び去ろうとしない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杏花の村

2018年04月07日 | 漢詩


晴明を迎えて、木々は芽吹き、花が咲き乱れる。枯山水の景色から、緑と紅など妖艶な色に彩られる季節の始まりである。カメラを片手の朝の散歩は、シャッターチャンスに満ちている。どんよりとした空で、遠くの山に雨の降っているのが見て取れる。唐の詩人杜牧は、「晴明」と題してこの季節の詩を詠んでいる。

 晴 明 杜牧

晴明の時節 雨紛紛

路上の行人 魂を断たんと欲す

借問す 酒家は何れの処にか有る

牧童遥かに指さす 杏花の村

菜種の花が咲く頃、雨が多くなる。菜種梅雨という言葉もあるほどだ。春の花を訪ねる旅人は、せっかくの旅を雨にたたられ、気が滅入っている。路上であった牧童に、酒屋はどこかねと聞いた。一杯、酒でもひっかけたくなる気分だ。「あっちだよ。」と少年が指さす方向には、杏の花の咲く村がある。

杏花の村は、そこで酒を飲むだけの場所ではない。桃の花の咲く桃源郷と同じ意味を持つ。俗界と交わりを断ち平穏に暮らしている人々の村である。ここでもてなしをうければ、俗界の塵を払うことができる。牧童は旅人を、その別世界へと導く象徴として詠まれている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江雪

2018年01月19日 | 漢詩


今年の優秀吟合吟コンクールで選ばれた課題吟は柳宗元の「江雪」である。長安で改革に失敗し、湖南の永洲司馬に左遷され、その地で孤独な生活を詩に詠んだ。

千山鳥飛び絶え

万径人蹤滅す

孤舟蓑笠の翁

独り釣る寒江の雪に

詩を検索すると、この詩を画題にした南画が多数載っている。雪をいただく山中の川には、おりしも雪が降りしきっている。その川に蓑を身につけ笠を被った老人がぽつんと釣り糸を垂れている。周りには人影も、動物も、鳥が飛ぶ姿も見られない。深い孤独感が詩に漂っている。釣をしているのは、詩人とは別の老人であるが、その心象風景ということできる。翁の釣り糸にかかってくる魚はおそらくいまい。その世界は、翁をのぞいて生きるものが姿を見せない、厳しい雪の世界だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

止酒

2017年12月11日 | 漢詩


この頃山を登りながら話題になるのは、高齢で山に登れなくなる話である。節制しているつもりでも、体重が減らず、ちょっと急坂になるとすぐに息があがる、とある人が言った。提案だけど、晩酌を止めさえすれば、まだまだ登れますよ。いやあ、酒を止めれば人生の楽しみがなくなってしまうよ。こんな会話が続いた一年でもあった。酒を忘憂のものと称し、こよなく愛した田園詩人の陶淵明に「止酒」という詩がある。

平生酒を止めず、

酒を止めなば情(こころ)に喜びなし。

暮に止むれば安らかに寝ねられず。

晨に止むれば起つ能わず。

日日之を止めんと欲するも、

営衛止まりて理(おさ)まらず

徒だ知る止むることの楽しからざるを、

未だ知らず止むることの己に利あるを。

始めて止むることの善たるを覚り、

今朝真に止めたり。

詩中の営衛とあるのは、漢方の気血経脈のことで、血流も呼吸さえも止まるということである。これほど酒に魅せられた淵明が、止めることの善が何であるかは語っていない。ぷっつりと酒を断ち、扶桑の島(東海の仙島)でいつまでも生きてやろうと、なかばやけくその決意を吐露している。果たして淵明の決意が、その後も継続されたかは詳らかにしない。私も、少量の酒は、百薬の長と信じている側の人種である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする