常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

初夏の詩

2018年05月09日 | 漢詩


低温注意報が出る。曇り空に時おり降る冷たい雨。上着が欲しくなる。外を見れば、緑は濃くやはり季節は初夏である。本棚から漢詩のアンソロジーを出して、立夏の項を拾い読みをする。明の于謙という詩人の、この季節の詩が目についた。題して「偶題」。

薫風何れの処よりか来たり

我が庭前の樹を吹く

啼鳥繁陰を愛し

飛び来りて飛び去らず

作者の鳥を見る目の確かさに驚かされる。木々の葉が茂るころ、鳥たちにとっては餌を探す絶好の季節でもある。普段は見ることのない鳥たちが、木々を目がけて飛んでくる。付近の草木の伸びたあたりでしきりに餌を探す。詩意を記す。

かぐわしい初夏の風がどこかからやって来て、
我が家の庭先の木々に吹いている。
さえずる鳥たちは茂った木陰が気に入って
飛んだ来たまま飛び去ろうとしない。

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杏花の村

2018年04月07日 | 漢詩


晴明を迎えて、木々は芽吹き、花が咲き乱れる。枯山水の景色から、緑と紅など妖艶な色に彩られる季節の始まりである。カメラを片手の朝の散歩は、シャッターチャンスに満ちている。どんよりとした空で、遠くの山に雨の降っているのが見て取れる。唐の詩人杜牧は、「晴明」と題してこの季節の詩を詠んでいる。

 晴 明 杜牧

晴明の時節 雨紛紛

路上の行人 魂を断たんと欲す

借問す 酒家は何れの処にか有る

牧童遥かに指さす 杏花の村

菜種の花が咲く頃、雨が多くなる。菜種梅雨という言葉もあるほどだ。春の花を訪ねる旅人は、せっかくの旅を雨にたたられ、気が滅入っている。路上であった牧童に、酒屋はどこかねと聞いた。一杯、酒でもひっかけたくなる気分だ。「あっちだよ。」と少年が指さす方向には、杏の花の咲く村がある。

杏花の村は、そこで酒を飲むだけの場所ではない。桃の花の咲く桃源郷と同じ意味を持つ。俗界と交わりを断ち平穏に暮らしている人々の村である。ここでもてなしをうければ、俗界の塵を払うことができる。牧童は旅人を、その別世界へと導く象徴として詠まれている。

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江雪

2018年01月19日 | 漢詩


今年の優秀吟合吟コンクールで選ばれた課題吟は柳宗元の「江雪」である。長安で改革に失敗し、湖南の永洲司馬に左遷され、その地で孤独な生活を詩に詠んだ。

千山鳥飛び絶え

万径人蹤滅す

孤舟蓑笠の翁

独り釣る寒江の雪に

詩を検索すると、この詩を画題にした南画が多数載っている。雪をいただく山中の川には、おりしも雪が降りしきっている。その川に蓑を身につけ笠を被った老人がぽつんと釣り糸を垂れている。周りには人影も、動物も、鳥が飛ぶ姿も見られない。深い孤独感が詩に漂っている。釣をしているのは、詩人とは別の老人であるが、その心象風景ということできる。翁の釣り糸にかかってくる魚はおそらくいまい。その世界は、翁をのぞいて生きるものが姿を見せない、厳しい雪の世界だ。
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止酒

2017年12月11日 | 漢詩


この頃山を登りながら話題になるのは、高齢で山に登れなくなる話である。節制しているつもりでも、体重が減らず、ちょっと急坂になるとすぐに息があがる、とある人が言った。提案だけど、晩酌を止めさえすれば、まだまだ登れますよ。いやあ、酒を止めれば人生の楽しみがなくなってしまうよ。こんな会話が続いた一年でもあった。酒を忘憂のものと称し、こよなく愛した田園詩人の陶淵明に「止酒」という詩がある。

平生酒を止めず、

酒を止めなば情(こころ)に喜びなし。

暮に止むれば安らかに寝ねられず。

晨に止むれば起つ能わず。

日日之を止めんと欲するも、

営衛止まりて理(おさ)まらず

徒だ知る止むることの楽しからざるを、

未だ知らず止むることの己に利あるを。

始めて止むることの善たるを覚り、

今朝真に止めたり。

詩中の営衛とあるのは、漢方の気血経脈のことで、血流も呼吸さえも止まるということである。これほど酒に魅せられた淵明が、止めることの善が何であるかは語っていない。ぷっつりと酒を断ち、扶桑の島(東海の仙島)でいつまでも生きてやろうと、なかばやけくその決意を吐露している。果たして淵明の決意が、その後も継続されたかは詳らかにしない。私も、少量の酒は、百薬の長と信じている側の人種である。
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夕陽

2017年11月05日 | 漢詩


満月のころ夕陽もまたうつくしい。ちょうど日没のころ、遊創の丘に行く機会があった。日没が早く、4時半には写真のような夕焼けの景色が広がっていた。ベンチに腰を掛けて、この風景にじっと見入っている若いカップルの姿もあった。あちこちにカメラを持って、この風景を写真に収めようとする人たちもいた。このやさしい風景に接すると、青春の記憶がよみがえってくる。晩唐の詩人・李商隠の詩「楽遊」が思い出される。落日を詠じた絶唱である。

 楽遊 李商隠

晚に向んとして意適わず

車を駆りて古原に登る

夕陽 無限に好し

只だ是れ黄昏に近し

盛唐の詩人が天下国家を詠ずるのに対して、晩唐の李商隠は唯美主義的な傾向がつよい。恋愛詩が多いのもひとつの特色である。彼は老いを嘆いたり、青春を懐古することもなく、あくまでも現在進行形の恋愛を見つめる詩を作った。

「楽遊」の詩にもどると、夕暮れに近づいて心に鬱積した思いを解き放なとうと楽遊原に向かう。そこで見た落日の風景を、あれこれ説明することもなく、単純に「好し」と表現する。やがて日は地平に没し、間もなく夕やみに閉ざされていくことを知りながら、刻々と変化する夕陽に心を奪われている。
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