山の端に日が落ちていく瞬間は驚きに満ちている。日が陰り、辺りは夕日に朱く染まって行くが、カメラを構えるほんの数分間に、夕闇が迫ってくる。その間に、日は赤さを増し、山の端は朱く染められる。この瞬間を詠んだ詩人がいる。晩唐の詩人、李商隠だ。下級官吏の家に生まれた李は、世に出るために有力者の庇護にすがり続けるほかなかった。詩文を書きながら、心に暗い影を抱きながら見たものは、山の端に落ちていく夕陽であった。
楽 遊 李商隠
晩に何んとして意適わず
車を駆りて古原に登る
夕陽 無限に好し
只だ是れ黄昏に近し
意敵わずとは、鬱屈して心にわだかまりを抱える状態である。古原は、楽遊原と呼ばれる人々の集まる、名所である。古代の廟のある高台である。ここで見る夕陽が、李の心の鬱屈を晴らしてくれる。わずか数分、時々刻々と変わる夕陽の姿に、ただ、好し、一言発するだけだ。やがて辺りは闇に包まれて、その残像だけが、心を占める。
盧綸と言ってもあまり知る人はいない。
中唐の詩人である。生年で言えば、李
白よりおよそ50年後に生れ、白居易よ
り20年先に生れた。大暦の十才人と言
われ、その中には銭起、耿湋など日本
で親しまれている詩人が含まれている。
盧綸の生涯に大きな影響を与えたのは、
安史の乱の内乱である。幼いころに乱
を避けて江西省に移住している。大暦
になって長安に出て進士の試験を受け
るが何度も落第の憂き目を見た。盧綸
にとって長安は、花の都という風には
見えなかった。盧綸が詠んだ7言律詩
に「長安春望」というのがある。
東風雨を吹いて青山を過ぐ
却って千門を望めば草色閑かなり
家は夢中にあって何れの日にか至らん
春は江上に来って幾人か帰る
川原繚繞たり浮雲の外
誰か念わん儒となって世難に逢い
独り衰鬢を将って秦関に客たらんとは
詩人は、長安の春を景色を見ながら、
故郷を思い、世難という言葉を使って
困難な時代に遭遇した身の不遇を嘆い
ている。
この詩に出会ったのは、岳風会の連吟
コンクールの課題吟に選ばれたためだ。
詩の感性は、1200年の年数を経過し
てなお瑞々しい。
季節が逆戻りしたような数日であったが、週
末から本格的な秋になるらしい。だが気温が
高いというだけで、足元を見ると秋はとっく
に始まっている。いや、もう深まりをみせて
いる。目をこらして、高い瀧山を見上げれば、
頂上付近は、樹々が色づいているのが分かる。
中国の洞庭湖は風光明媚で知られ、湘江と瀟
水が合わさって洞庭湖に流入するあたりは、
帝舜の死を追って二人の妃が入水して後を追
い、二人の女神となったことで有名。古来詩
人が好んで詩を詠む、格好の題材となった。
李白の詩に
洞庭湖西 秋月輝き
瀟湘江北 早鴻飛ぶ
酔客満船 白苧を歌う
知らず霜露の秋衣に入るを
早鴻は雁のこと。この詩を題材にして、後世
の画家は「瀟湘八景」を描いてきた。そのテ
ーマを記すと「平沙落雁」「遠甫帰帆」「山
市晴嵐」「江天暮雪」「洞庭秋月」「瀟湘夜
雨」「煙寺晩鐘」「漁村夕照」の八景である。
いかにも唐詩好みの組み合わせである。日本
に入ってきたこのテーマは「近江八景」など
日本の湖畔に移されて盛んに詠まれてきた。
遠くから合歓の木に花をつけているのを
見ると、木全体がピンクの衣をまとった
ように見える。合歓と表現するのは、夜
になると葉を閉じて眠るような姿になる
ためである。花が眠るのではない。
合歓は小枝の先に十数個の花柄を持ち、
紅を含んだ絹糸のうように見えるのが、
雄蕊だ。合歓の花は、一日花というより
一夜花だ。夕方に咲いて、一晩中咲き続
け、翌日の午後に萎れる。この花の習性
をとらえて詠んだのが、江馬細香の漢詩
『夏の夜』だ。
雨晴れて庭上竹風多し
新月眉の如く繊影斜めなり
深夜涼を貪って窓を掩わざれば
暗香枕に和す合歓の花
雨は上がっても、夏の夜は蒸し暑い。窓
を開けて寝るのは、昔も今も変わりはな
い。その枕元に漂ってくるのは、合歓の
花の香りだ。読みようによっては、艶め
かしい詩である。
細香は大垣の藩医江馬蘭斎の娘である。
大垣で細香に会った頼山陽は、一目で
気に入り、妻に迎えることを望んだ。
しかし蘭斎はこれを許さず、娘の作る
漢詩の添削を依頼した。こうして子弟
の関係となったが、二人は漢詩を通して
子弟以上の関係を持つようになっていく。
細香の作る漢詩は、いつも師山陽の目を
意識している。自らの寝姿を暗示する
この詩が、艶めいて感じるのは、そう
した事情があるからかも知れない。