宮沢賢治の詩や童話の背景は、賢治が住んだ岩手の山地の植物や花に彩られている。劇、「種山ケ原のの夜」は、山の樹々の霊が、人間と話す劇だ。人と植物が一緒に生きて会話を交わす。そんな夢のような話だ。草刈りをした人間が刈って置き忘れ、雨が降ってくるから濡れるぞ、濡れるぞと囃したてる。ナラ、カバ、カシワなど異なる樹種の樹霊がいる。
まっ青に朝日が溶けて
この山上の野原には
濃艶な紫いろの
アイリスの花がいちめん
靴はもう雨でぐしゃぐしゃ
そんな山地で雨の前に刈った草を置き忘れしまった農民。それを囃す樹霊たち。「種山ケ原の 雲の中で刈った草は どごさ置いだが 忘れた 雨ぁ
ふる 種山ケ原の霧の中で刈った草さ(足拍子)」と囃したてながら踊りだす。「雲に持ってがれて 無ぐなる 無ぐなる。」ここで、農夫も一緒に踊りだす。
賢治の座右の書は、牧野富太郎『日本植物図鑑』であった。朝ドラで牧野をモデルにした「らんまん」が放送されているが、植物を愛してやまない牧野の心が、この図鑑を通して賢治に伝わったのであろうか。イートハーボの樹々たちは、人間の言葉で語りかけてくる。
もう一冊、賢治に深い影響を与えた本がある。河口慧海『チベット旅行記』だ。明治時代、仏教の原点をもとめて、単身ヒマラヤを越え、鎖国のチベットへ渡った学僧の記録である。先日、本箱の整理をしたとき見つけた文庫本5冊である。賢治の『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』の舞台は、クラレという美しい花の咲く、チベットからネパールへ入る入り口である。そこは、化け物世界と人間世界との境界でもある。ネネムはこの秘境から、現実の世界へ投げ戻される。賢治の童話は、こんな本の影響を受けながらその世界を広げていった。