常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

新田次郎

2020年01月23日 | 読書
Facebookに登録していると、「去年の思い出」というのが送られてくる。一年前にアップした写真が送られてくる。この季節、たいていが雪山の景色であるが、こんなにたくさん雪があったのか、と山行を思い出してうれしくなる。今年の正月は、雪が少ないが、あまり外出はせずもっぱら家のなかで本を読む時間が多くなっている。決めてあるテーマのほかに、趣味の山登りの本につい手がのびる。

新田次郎の山のエッセイに「富士山に賭けた時代」という一文があった。新田が気象台に就職したのは、昭和7年である。この年、富士山頂では富士山観測所が建設中であった。その年の夏、新田はほぼ完成した建物に機器の取り付けを手伝いに始めて富士山に登っている。ほぼ1ヶ月、富士山頂に滞在して、仕事を手伝ったのが、富士山の縁の始まりであると書いている。

観測所には気象台の職員が4名、賄係が1名でほぼひと月交代で山頂勤務を命ぜられた。夏に行ったのが伏線であったのか、新田が最初に山頂勤務をしたのは、就職した年の12月半ばであった。今でも、厳冬期の富士山へ登るのは、訓練を積んだアルピニストしかいない。さほど経験のない新田が仕事上で冬の富士山へ登ったのは運命的なものがあったのかも知れない。

山頂の仕事は決まりきたもので、時間が余った。辛うじてラジオが聞けたが、あとは持って行った本を読んで過ごした。若い時代はどうしても身体を持て余してしまう。外へ出て景色を眺めることもしばしばあった。だが、晴れていても頂上には、いつも強い風が吹いている。風速20mぐらいはいつものことだ。同僚と二人で2月の堅氷の上をお鉢周りをした経験が書かれている。

「金明水から剣ヶ峰へ登ろうとしていたとき、私の上方2㍍のところにいた同僚が足を滑らせて、氷の上を滑り落ちてきた。それを止めようとしたが止められず、私は彼のアイゼンで肩を蹴られてすっとんだ。20㍍ほど滑って運よく岩に衝突して止まった。もう20㌢ほどはずれていたら噴火口に落ちて死ぬところだった。」

この文のなかには下山中に時間をくって遭難騒ぎをされたことも書かれている。登山家として富士山に登ったのではなく、仕事で登ったのであったが、富士山に登るにはやはり登山家と同等の体力や技術が必要である。仕事のなかで必要に迫られて習得した技術であった。昭和31年、新田次郎は『強力伝』で直木賞を受賞した。以後山岳小説中心とすうる作家となった。この富士山の経験がその基礎にあることはいうまでもない。

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