常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

ヒガンバナ

2022年09月15日 | 
そろそろヒガンバナの咲く季節。毎年、咲く神社を訪ねてみた。すると、花の蕾をつけた花茎がゾクゾクと出ていた。別名、曼珠沙華。田の畔や、藪の近くに群生する真紅の花は、誰もが知る、秋の花だ。ものの本によると、ハミズハナミズという呼び名もあるらしい。花の時には葉がなく、葉がでると花がないためこんな名がついた。

この花は日本と中国にのみ見られる。イチョウのような分布を示している。中国名は石蒜、葉がニンニクに似て、石のある土地を好んで繁殖するのでこの名がある。花は美しいが、花のあとに実をつけることはない。ラッキョウのように地下の鱗茎が分裂して、群落となる。毒のある植物で、栽培さることはないが、鱗茎からは良質の澱粉がとれる。水に晒して毒をながせば、食用になる。

路の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は (万葉集巻11・2480)

このいちしの花を曼珠沙華だとする説がある。伊藤博の『万葉集』の解説には、「いちし」をギシギシ、くさいちご、ヒガンバナなど説があるにとどめ、花を特定していない。いちしといちしろくとは掛詞のような表現だが。妻が皆にしられたのは、いちじるしい、と解説している。
わが散歩道のヒガンバナは、もう一週間もすればみごとな真紅の花を見せてくれるだろう。公園の紅葉が、うっすらと色がつき始めた。
今朝見た近所のヒガンバナ。2輪ほどみごとな花をつけた。神社のは、茎がのびて、蕾もばらついてきたが、開花迄はもう2,3日必要な気がする。
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実りの秋

2022年09月14日 | 日記
日が経つのは早いものだ。田植えしたばかりの水田を、つい先ごろ見たような気でいるが、穂は垂れ、稲刈りを待つ水田はすっかり秋の色だ。こんな野で、宮沢賢治も散歩をしていた。農学校で先生をしていた頃、賢治は生徒を連れて野道を歩いた。演劇を生徒たちに教えていたので、歩きながら科白を覚えさせた。賢治の散歩は一風変わっていた。

「ホッ ホッ ホッ ホー」「ウホー ホッ ホッ」賢治が突然奇声を発する。生徒たちが、一瞬驚いて、先生を見る。田の稲や草の匂いのなかで、酔ったように無邪気になれる先生であった。村の人たちから見ても、変わった先生であった。その後、詩を書き、童話つくり、村の人々のために働く先生になると思う人は少なかったようだ。

本を読む楽しみは、予期せずに先人のことを書いた文章に触れることだ。神谷
美恵子の『生きがいについて』のなかに、妹を亡くして失意のなかにで書かれた賢治の詩がさりげなく紹介されている。

「死者の世界と生者の世界との間の境界がまさに突破されかけているような印象を残すものとして、宮沢賢治が妹の死を歌った一連の詩、とくに「宗谷挽歌」があげられる。」(愛するものに死なれること)

 宗谷挽歌

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或は空になげられることがないだろうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこかから私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない。
呼ぶ必要のないとこに居る。
(4行略)
もしそれがそうでなかったら
どうして私が一緒に行ってやらないだらう。
(以下略)
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秋空

2022年09月12日 | 日記
早朝、少し靄っている空に、飛行機雲が一筋、西へと延びていた。飛行機雲がでるのは、大気に湿気が多いせいらしい。雲は刷毛で刷いたような巻雲。この雲には、悪天を予告するものと、含水量の少ない晴れ巻雲の2種類があるらしい。見た目では、どちらであるのか判別がつかない。しかし、巻雲がある朝の空は気分を明るくする。今朝は、川沿いの道を歩いた。瀧山から流れてくる川音は、しっかりとした音を響かせる。

川の辺を歩きながら、こんなことをつぶやいた人がいる。「人生って面白い芝居だよ。つまり誰もが主役として生きて、演じているのだから。ただそのことに気づいていないだけだ。」確かに、川のほとりを歩きながら、空に浮かぶ飛行機雲を眺め、川の音を聞き、草藪のなかの虫の音を聞いていながら、朝の自分が幸福につつまれていることに気づかないこともしばしばだ。

「気づく」ということが大切なことだと、いまさらのように知らさせる。精神科医の樺沢紫苑は『三つの幸福』のなかで述べている。「小さな幸福」に気付けない人は、「大きな幸福」に気付けない。」朝の歩きで、周りの秋の美しさに包まれていることの幸せに気付いて、そこから大きな幸福が訪れる。

秋の空どこかなにかを呼びつづけ 矢島渚男
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小さな幸せ

2022年09月11日 | 日記
週末だけ開く桃屋さん。sさんが教えてくれた小さなお店だ。店番の小母さんがカウンターでポツンと店番をしている。今日の桃は赤くずっしりと重い。まだもぎたてで、実が固いから追熟が必要だ。産直で買っても200円以上もしそうな桃が1個100円。妻と二人で食べるために4個買った。店番の小母さんは静かでお金を払うと「ありがとうございます」と言って頭を下げた。他に大きな洋ナシも1個100円、小分けにした野菜も100円で並んでいた。久しぶりに買い物をして、小さな幸せを感じた。

白桃や今豊満の時にあり 能村登四郎

朝歩く小さな幸せ。それを感じながら歩を進めると、近所のお庭の花を見せてもらいまがらすぐに3000歩ほどになる。足が大地を踏みながら喜びを感じている。小さな喜びをブログに書いていく。この店の存在を教えてくれたsさんへの感謝も忘れてはならない。こうして朝、爽やかな気持ちで歩けること。sさんとの会話で、桃を変える店の存在を知って豊かな気持ちなになれた喜び。こんな日常が、高齢になってからの楽しさの秘訣だ。

精神科医の樺沢紫苑氏は『3つの幸福』のなかで書いている。「幸せな人生」を送るためには、「今、楽しい」という感覚が必要。そして、それを感じるためには、今にフォーカスして生きる必要性を述べている。今を意識し、今を感じ取り、今できることを行動する。このブログに感じ取った幸せや喜びを書き、読んでくれる人に、小さなお裾わけをする。ブログを書き続けるモチベーションにもなっていく。
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名月

2022年09月10日 | 日記
今日、仲秋の名月。山の端に、月の出を待った。あたりが暗くなった7時過ぎ、見事な月が出た。妻を呼んで、しばし名月に見入った。夜風がすでに冷たく秋の風だ。カメラをだして写真に収めたが、ここに紹介するような写真は撮ることができなかった。月を愛でるのは、古くから日本人の好むところであった。『和漢朗詠集』の名月に、いくつかの詩文が見える。

十二廻の中に 此夕の好きに勝りたるは無し
千万里の外に 皆わが家の光を争う 紀長谷雄

現代語訳は、「一年、十二ヶ月のうち、この8月15夜のすばらしさにまさるよい夕はありません。千万里の遠くまでも、どこででもわが家でみる月のひかりがいちばん美しいのだと誇るのです。」紀長谷雄のこんな記述が、納得できる今宵のすばらしい月であった。月をみながら、故郷の父母、友人に思いを馳せるのは李白の詩が人口に膾炙したことによるもであった。

頭を挙げて山月を望み
頭を低て故郷を思う

ここでは、井伏鱒二の訳詩をかかげて置く。

ネヤノウチカラフト気ガツケバ
霜カトオモフイイ月アカリ
ノキバノ月ヲミルニツケ
ザイショノコトガ気ニカカル
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