友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

長女の頑張り

2007年07月05日 22時37分44秒 | Weblog
 長女は頑張り屋である。孫娘の頑張りには本当に驚いたが、私の娘もあんなに頑張る子だとは知らなかった。そんなことを言うとまたまた、「子どものことには関心なかったのではなの!」と皮肉られそうだ。私は自分の子どもには人一倍関心はあったが、勉強は自分でするものだと考えていたので、成績のことをとやかく言ったことはない。そのため、子育てでは全くカミさんと折り合わず、度々ケンカになってしまい往生した。

 私は「自分がやりたいことをやればいい」と言い、カミさんは「そんなことを言っていたら、落伍者になってしまうわよ。あなたは自分の娘たちを落伍者にしたいの」と言う。私の思いでは、そもそも私たちの間に生まれた子どもたちなのだから、そこそこの成績なら取れるだろう。けれども、そこそこの成績を取ったところでこの子たちは本当に幸せになれるのか。そんなことよりも子どもたちが何かやりたいことを発見し、それに向かっていくなら、それを助けてやるのが親の務めだろうというのが私の主張だった。ところが教職にいたカミさんは「そんな夢のようなことがどこで通用するの。だいたい、子どもたちは何がやりたいの。そうやってロクでもない夢を追わせるのは止めて!」と厳しい。

 娘たちは私が求めた方向ではなかったが、のびのびとそれでいて思いやりのある人間になってくれた。私が求めた方向というのは、普通ではない人間、たとえば芸術にかかわるような、そんな人間にはならなかった。むしろ普通の常識のある人間で、彼女たちからすれば私は「変な人」だから、私よりもはるかに現実を見つめ、社会の常識を心得、世間になじんでいる。私だってちょっと「変な」ところはあるとしても、常識人であることには変わりないから、同じもっと常識人のカミさんとの間に生まれた子どもたちが、特異な人生を歩くようなことは、そもそも期待するようなことではなかった。

 娘たちは、私が「勉強よりも大切なことを見つけなさい」と言ったことをいいことにと思ってか、本当に我武者羅に勉強する姿を見せてくれなかった。私の記憶では、長女はだいたい机に向かっているといつの間にか、机を枕に眠っていた。次女は勉強している姿さえ余り見たことがない。そんな二人と思っていたが、長女は結婚して子どもができてから、仕事を中断して大学に通い、昨年の9月から今年の3月まで、資格取得のための勉強をしている。次女もまた夫の赴任先のバンコクでカーリングを学び、語学にも挑戦している。

 やはり、勉強はやる気になった時にやるのが一番だ。私は勉強しなくてはならない時に「何のために人は学ぶのか」と拒否していたが、今になって漢詩を、読めないので和訳したもので味わっているが、おもしろいと思えるようになったし、馬鹿にしていた英語も勉強してみたいと思うようになった。私には勉強は趣味の段階だが、長女は自分を文字通り高めるために勉強したのだから、私は彼女の頑張りに感心している。その長女の元に昨日、資格が取得できたという合格通知が届いた。カミさんと長女は抱き合って泣いていたが、カミさんは「あれだけ苦労して報われないのでは余りにもかわいそう」と言っていただけに、心から「ご苦労様」と思ったのだ。

 孫娘は「ウチのママはすごい」と言うが、これでさらに母親のすごさを見せたことになり、努力すれば必ず報われることを、身を持って子どもに示したことになる。このところ娘たちには教わることばかりだが、果たして私は娘たちに何かを教えてこられただろうか、と思う。いやいや人間はいつも父親や母親の一部であっても受け継いでいくものだ。ただ、ものは蓄積できるけれど、心はなかなかそうはいかない。でも考えてみれば一代限りのほうが、その人らしい人生というものだ。頑張れ、娘たちそして孫娘よ。
コメント
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