今年、9月30日の日曜日に中学のクラス会を開く。そこで、このところ案内を出しても返事が来ない同級生が気になり、クラス会名簿に載っている住所を尋ねた。車で1時間余り行った山間の静かな町だ。役所でここに行きたいのだがどう行けばよいかと尋ねた。若い職員はわざわざ住宅地図を持ってきて、「この辺りですね」と教えてくれた。松宮貞治と地図にある。「ええそうです。これです」と言うと、今度は全体が見える地図を持ってきて行き方を教えてくれた。
そこは新興住宅街で、そばの雇用促進住宅とは比べものにならないくらいの住宅が数件建っていた。彼の家はすぐにわかった。10年も地域の小さな新聞ながら記者を勤めてきたから、家探しはかなりカンが働く。大きな家だ。建坪は40坪くらいありそうだ。それにしても昔風の黒壁の2階建てとは驚いた。しかし、誰もいないようだ。表札も無い。近所の人に聞いてみようと思うのだが、犬はいるけれど人の気配が無い。犬が吠え続けていても誰も顔さえ出してくれない。そのうち、テレビの音がする家があったので声をかけた。
「ああ、松宮さんは亡くなられましたよ。奥さんが先に亡くなられて、それからすぐでしたね」とその家の奥さんに教えていただく。そうか、やはりそうだったのかと思った。いつのクラス会だったか定かではないが、「絶対来るで、ちゃんと連絡してよ」と言っていた。その時、もう奥さんの具合が悪いというようなことを言っていたかもしれないな、もう少しきちんと聞いてあげればよかったと思った。家から程近いところを飛騨川が悠々と流れている。彼が住んでいた町で造られている地酒を買い求め、少し憂鬱な気分で帰った。
松宮君とは中学3年生の時に初めて出会った。背が低かったけれど、筋肉質で力持ちだった。明るくさばさばしていた。中学を卒業すると名古屋の菓子工場へ就職した。しばらくして、会いに来て欲しいというので、その会社を訪ねていったことがある。小さな工場で、おかきを作っていた。社長さんにも会った。どうして私が訪ねて行き、社長にも会ったのか、わからないが、松宮君は私を頼りにしていることはよくわかったので、「これから文通してくれ」と言う要求にも応じてしばらく手紙のやり取りがあった。彼は「いつか社長になる」と言っていたが、山間の住宅街に建っていた家は私の家よりも立派な家だ。悔いは無いだろう。
彼が何時その菓子工場を辞めたのか私は知らないが、ひょっこりクラス会で会った時は名古屋の別の会社で働いていた。中学校の卒業が近づいていた頃だった。彼が好きな女の子の家に連れて行ってくれというので、一緒に出かけたこともある。あれから、彼はどんな人生を歩いたのだろう。山間の住宅街に、大きな家を建て、毎日飛騨川の流れを眺めながら何を考えていたのだろう。今度のクラス会の役員を一緒にやっているメル友が「あるホスピスの先生が言われた『結局、“生きたように死ぬ”』という 言葉を教訓にしています」とメールをくれた。お嬢さん育ちで、地元育ちの私たちには手の届かないと人だった彼女が「非常に難しいですけど、最近では“おだやかに、おだやかに”と自分に言い聞かせながら生きています」と言う。彼女もまた、人生を時々振り返っているようだ。
そこは新興住宅街で、そばの雇用促進住宅とは比べものにならないくらいの住宅が数件建っていた。彼の家はすぐにわかった。10年も地域の小さな新聞ながら記者を勤めてきたから、家探しはかなりカンが働く。大きな家だ。建坪は40坪くらいありそうだ。それにしても昔風の黒壁の2階建てとは驚いた。しかし、誰もいないようだ。表札も無い。近所の人に聞いてみようと思うのだが、犬はいるけれど人の気配が無い。犬が吠え続けていても誰も顔さえ出してくれない。そのうち、テレビの音がする家があったので声をかけた。
「ああ、松宮さんは亡くなられましたよ。奥さんが先に亡くなられて、それからすぐでしたね」とその家の奥さんに教えていただく。そうか、やはりそうだったのかと思った。いつのクラス会だったか定かではないが、「絶対来るで、ちゃんと連絡してよ」と言っていた。その時、もう奥さんの具合が悪いというようなことを言っていたかもしれないな、もう少しきちんと聞いてあげればよかったと思った。家から程近いところを飛騨川が悠々と流れている。彼が住んでいた町で造られている地酒を買い求め、少し憂鬱な気分で帰った。
松宮君とは中学3年生の時に初めて出会った。背が低かったけれど、筋肉質で力持ちだった。明るくさばさばしていた。中学を卒業すると名古屋の菓子工場へ就職した。しばらくして、会いに来て欲しいというので、その会社を訪ねていったことがある。小さな工場で、おかきを作っていた。社長さんにも会った。どうして私が訪ねて行き、社長にも会ったのか、わからないが、松宮君は私を頼りにしていることはよくわかったので、「これから文通してくれ」と言う要求にも応じてしばらく手紙のやり取りがあった。彼は「いつか社長になる」と言っていたが、山間の住宅街に建っていた家は私の家よりも立派な家だ。悔いは無いだろう。
彼が何時その菓子工場を辞めたのか私は知らないが、ひょっこりクラス会で会った時は名古屋の別の会社で働いていた。中学校の卒業が近づいていた頃だった。彼が好きな女の子の家に連れて行ってくれというので、一緒に出かけたこともある。あれから、彼はどんな人生を歩いたのだろう。山間の住宅街に、大きな家を建て、毎日飛騨川の流れを眺めながら何を考えていたのだろう。今度のクラス会の役員を一緒にやっているメル友が「あるホスピスの先生が言われた『結局、“生きたように死ぬ”』という 言葉を教訓にしています」とメールをくれた。お嬢さん育ちで、地元育ちの私たちには手の届かないと人だった彼女が「非常に難しいですけど、最近では“おだやかに、おだやかに”と自分に言い聞かせながら生きています」と言う。彼女もまた、人生を時々振り返っているようだ。