勢力の大きな台風が通り過ぎたと思ったら、今度は地震である。午前中、机に向かっていると、ゆっくりと建物が揺れだした。地震だ。これが前触れならさらに大きなうねりが来るぞと身構えたが、長い揺れは次第に収まっていった。阪神淡路大地震の時は、まだ朝の早い時だったこともあって布団の中にいたから、その衝撃は強く伝わってきた。あの時に比べれば、今回はそれほどでもなかったが、震源地がどこかで地震の強度も違ってくる。テレビをつけると新潟の出雲崎沖だと報道していた。新潟での地震がこんなところまでも伝わってくるのだから、かなり強い地震だったのだろうと思った。
4月に三重県の鈴鹿で起きた地震の時は、丁度、地方議会議員の選挙の真っ只中で、私も応援のために四日市市にいた。候補者が演説をしようとする時で、私はのぼりを持って車の脇に立っていたが、突然、グラグラと来た。確かに地面が波立っていくのが見えた。この時もこれが前触れで次に本格的な地震波が来るのかと、目前の家屋を見つめていたが、幸いにも大事には至らなかった。今日の午後、また少し揺れたような気がした。テレビでは三重県と奈良県堺で震度3の地震があったと報じていたので、鈴鹿の地震がよみがえってきた。
先日、飲んだ時に自然淘汰が話題になった。人間の歴史は人口が増えすぎないように戦争で調整しているとまことしやかに言う人がいた。そんな話は昔聞いたことがあるが、歴史がわかってくると人口の抑制のために戦争があるわけではないと知った。けれども、地球の歴史は地上で栄えたものがいつかはまた衰退していく、あるいは消滅していくことも物語っているから、自然淘汰と言えないことも無いなどとヘリクツを言い合ったりした。自然淘汰と言うよりは輪廻転生だとか、それは霊魂が不滅と言うことだから、質量不変の法則だとか、脱線していった。
飲んだ席での論議だから、どうでもいいことだが、なんとなく天変地異が続くとやはり人は人間の歴史も終焉を迎えようとしているのかと感じるようだ。いつ、この世の終わりの時が来ても悔いの無いように、自分らしく生きていたと思う。そうした意味でも、7月28日に行う、大和塾の市民講座『備えあれば憂いなし』は期待できるテーマだと思う。私は皆さんに「どういう風に死ぬのかという話ではありません。最後まで自分らしく生きるため、何をするかということです。そのためにも現場の医師の話を聞いて、みんなで考えていこうという市民講座です」と話している。
歳を取ると、なんとなく抹香臭くなる。「ころりと逝けるのが一番いい」などと馬鹿げた話ばかりする人もいる。最後の最後まで、一生懸命で自分らしく生きよう、自分勝手だとか自己中心だとか人の評価は気にせずに、自分が望むように生き抜くことはできなくても、そう努力することはできる。最後の最後は、自分の生の終わりなのか、人類の生の終わりなのか、いずれであっても私がどう最後まで生きていくかだと思う。
4月に三重県の鈴鹿で起きた地震の時は、丁度、地方議会議員の選挙の真っ只中で、私も応援のために四日市市にいた。候補者が演説をしようとする時で、私はのぼりを持って車の脇に立っていたが、突然、グラグラと来た。確かに地面が波立っていくのが見えた。この時もこれが前触れで次に本格的な地震波が来るのかと、目前の家屋を見つめていたが、幸いにも大事には至らなかった。今日の午後、また少し揺れたような気がした。テレビでは三重県と奈良県堺で震度3の地震があったと報じていたので、鈴鹿の地震がよみがえってきた。
先日、飲んだ時に自然淘汰が話題になった。人間の歴史は人口が増えすぎないように戦争で調整しているとまことしやかに言う人がいた。そんな話は昔聞いたことがあるが、歴史がわかってくると人口の抑制のために戦争があるわけではないと知った。けれども、地球の歴史は地上で栄えたものがいつかはまた衰退していく、あるいは消滅していくことも物語っているから、自然淘汰と言えないことも無いなどとヘリクツを言い合ったりした。自然淘汰と言うよりは輪廻転生だとか、それは霊魂が不滅と言うことだから、質量不変の法則だとか、脱線していった。
飲んだ席での論議だから、どうでもいいことだが、なんとなく天変地異が続くとやはり人は人間の歴史も終焉を迎えようとしているのかと感じるようだ。いつ、この世の終わりの時が来ても悔いの無いように、自分らしく生きていたと思う。そうした意味でも、7月28日に行う、大和塾の市民講座『備えあれば憂いなし』は期待できるテーマだと思う。私は皆さんに「どういう風に死ぬのかという話ではありません。最後まで自分らしく生きるため、何をするかということです。そのためにも現場の医師の話を聞いて、みんなで考えていこうという市民講座です」と話している。
歳を取ると、なんとなく抹香臭くなる。「ころりと逝けるのが一番いい」などと馬鹿げた話ばかりする人もいる。最後の最後まで、一生懸命で自分らしく生きよう、自分勝手だとか自己中心だとか人の評価は気にせずに、自分が望むように生き抜くことはできなくても、そう努力することはできる。最後の最後は、自分の生の終わりなのか、人類の生の終わりなのか、いずれであっても私がどう最後まで生きていくかだと思う。