友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

死刑判決その2

2008年04月24日 21時40分47秒 | Weblog
 山口県光市の母子殺害事件の判決については、昨日のブログに書いた。中日新聞が中面の全頁を使って報道のあり方について報じていたことも書いた。その頁に、映画監督の森達也さんが記事を寄せていたが、印象に残る文面だった。森さんはテレビのワイドショーを見ていて「ふと気がついた。ここには一人称単数の主語がない。スタジオに並ぶ全員の主語に、いつのまにか「本村さん」が憑依(霊などが乗り移ること。とりつくこと)している。死刑判決を受けた元少年の存在すらも消えている」と書いていた。

 ワイドショーは見ていないが、この光景は想像できる。思想集団や宗教集団が話し合うと恐ろしいくらいに一つの意見、一つの見方に集約されていくが、これに似ている。連合赤軍の「総括」の光景だ。この傾向はこのワイドショーばかりでなく、日本全土に広がっているような気がする。「凶悪な事件が増えた。これを押さえるには、悪いことをした者に厳罰で臨むべきだ。人を殺した者は、一人だから無期で二人から死刑ではなく、また少年だから無期で成人なら死刑ではなく、殺した者は全て死刑にすべきだ」。そんな空気が広がっている。だから森さんは「悪いことをしたのだから死刑で当然だ。そう主張する人に対しても言葉はない。今はただ、自分の無力さに吐息をつくばかりだ」と締めくくらざるを得なかったのだろう。

 今日の中日新聞の同じ蘭に、フリージャーナリストの綿井健陽さんが『被告の話 大人は聞かず』と題して寄稿していた。「事件当時18歳になったばかりの彼に対して、大人の側が彼の話を真摯に聞こうともせず、最初から反省や悔悟だけを求め、事件の実行行為や動機の事実を見つけようともしなかった。そして彼の生い立ちや人格に合ったさまざまな『術』を与えようともせず、探そうともせず、司法は最後に『術がなくなった』と結論づけた。これは大人の責任放棄としか言えない」。

 綿井さんの指摘を私は正しいと思う。もっとも有名な『きっこのブログ』ですら、判決の日に「例のトンデモ弁護団による荒唐無稽な大バカ作戦こそが、わずかに残されていた『情状酌量の余地』すらもゼロにしてしまったってことが分かった。」と書いていた。言葉は悪いが知性のある人だと「きっこ」さんを想像していたが、この見解には少々ガッカリした。「トンデモ弁護団」がどんな弁護を展開したのかを知らない私がものを言う立場にないが、少なくとも綿井さんの言うように、死ぬことになるかもしれない被告の話を真摯に聞くくらいの余裕が裁く側には必要だと思う。

 元少年はこれで、たとえ上告したとしても、死刑からは免れることはなくなってしまった。本村さんも言うように「それで彼が犯した罪が償えるのか」、実は誰も分かっているわけではない。法の定めと慣習に従うことで、みんなが満足しているに過ぎないように私には思われる。もし、私自身が元少年であったならと、考えてしまう。誰もが元少年であったならと、一度は考えてみる必要があると私は思った。
コメント (2)
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