友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

花泥棒

2008年04月21日 20時29分30秒 | Weblog
 土曜日と日曜日の強い風に痛めつけられ、我が家のチューリップは限界です。朝、チューリップを眺めていて、まだよい花だけでも切り取り、プレゼントすれば花も喜ぶだろうと思いたった。バケツに2杯のチューリップを車に載せ、お世話になっているデイサービスへと運んだ。

 「わあー、キレイ」とか「こんなにも大きいんだ」とか、皆さんに喜んでもらえたからよかった。私としてはもう少し前、花がこれからという時に持ってくるべきだったと思ったけれど、気候の判断は難しく。ちょっとタイミングとしては遅かったけれど、1本や2本ではない花のかたまりは、それなりに迫力もあり、花の持つ見事さも伝えることができたのではないだろうか。

 前橋では目抜き通りのチューリップ約千本が何者かに切られた。福岡や静岡でもチューリップが荒らされたという。「花泥棒は罪にならない」。そんなことを昔聞いたことがある。「花の好きな人は心のキレイな人だから、盗っても必ずどこかでその花を咲かせているだろう」という、優しい解釈だった。人が丹精込めて育てたものを盗んでいって、それを許す心に広さには感心するけれど、盗まれた方はガッカリだ。まして、通りや公園の花が荒らされてしまったのでは、とても許す気にはならないだろう。

 名古屋だけなのかわからないけれど、この地方ではお店の開店祝いに花を並べる。ひどい時は、並べた端から開店祝いの花を持っていく人がいる。最近では時間を区切ってからにしているとも聞くが、はじめてみた時は驚いた。「花泥棒」そのものではないかと思ったのだ。ところがこの地方では、開店の時に大勢の人が来て、花を持って行ってもらうことが商売繁盛につながるのだから、非難してはいけないと聞かされた。

 それにしても開店を祝うはずの花が、あっという間に無くなってしまうというのも寂しいものだ。いったい誰が「花泥棒は罪にならない」と言い出したのだろう。調べてみると、「花泥棒」ではなく「花盗人」から来たものらしい。「花盗人」というのは狂言で、桜の枝を折って捕まった僧が詠んだ歌が見事だったので、罪を許して花見の宴に加えたという話に由来するようだ。

 花を盗んだり、枝を折ったり、公園を汚したりせずに、むしろ進んで花を植えたり、雑草を抜いたり、水をやって育んで欲しいと思う。街路樹が緑で覆われてきたのに、その根元は雑草ばかりか空きカンや空きビンなどのゴミが放られている。道に面した家やお店、事業所の人たちがもう少し気にかけて手を入れてくれたなら、もっと気持ちよくなるのにと思うには私のエゴなのだろうか。

 「花泥棒は罪にならない」をプロポーズに使った人がいるそうだが、いったいどんな風に使ったのだろう。映画『卒業』のように、結婚式の最中に花嫁を連れ去るのだろうか。あるいは既婚の女性を奪うことを意味しているのだろうか。
コメント
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