山口県光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審判決で、広島高裁は犯行時が18歳1カ月だった男に死刑を言い渡した。この事件は、妻と子どもを殺された本村さんがマスコミに積極的に出て、遺族の苦しみを訴えたことから注目されるようになったと思う。さらに報道を過熱させたのはマスコミ自身で、中でもテレビは弁護団と本村さんを対立的に描くことで、バラエティーの域に落とし込んでしまった感がある。
昨日の記者会見を見ていて、本村さんはすごく冷静な人だと思った。事件後、何度もマスコミの前に立たされたけれど、彼はいつも自分の言葉で自分の意見を語っている。その言葉は正確だし、趣旨もハッキリしている。昨日の判決についても彼は「遺族が求めてきた判決」と言いながら、「決して喜ばしい気持ちではない」と述べた。誰かが、「本村さんなら総理大臣にしてもいい」とブログに書いていたが、スジの通ったキッパリした発言は今の政治家にはいないと思う。
私は昨夜、テレビ報道を見なかったのでわからないが、今朝の新聞を見ると、朝日新聞は1面ではなく2面扱いだった。そして1面の「天声人語」も3面の社説も、「あなたが裁判員だったら」を前面に出していた。1年後から始まる裁判員制度をPRすることで終わっているのだ。これに対して中日新聞は1面で「高裁『供述は極刑逃れ』」と報じ、中ほどの面では全面を使い判決の趣旨や報道のあり方を論じていたし、最後の頁では本村さんおよび弁護団の記者会見をトップ記事にしていた。
私は、人が人を殺すことは断じて許さない。いかなる戦争も認めない。もし誰かが誰かを殺してしまったなら、その人は一生をかけて償わなくてはならないと思っている。だから、人を殺す死刑もすべきではないと思う。これは極論だから賛成者はいないかもしれないが、たとえ正当防衛であっても、どんなに納得できるいかなる理由があろうとも、人を殺してしまったならば極刑に服するべきだと思う。私は正当防衛での戦争も認めないし、自分が殺されそうだったからやむなく殺した場合の正当防衛も認めない。
人間は人間を殺した場合は、極刑となることが現在の人間の最大の智恵のように思う。弁護団が言うように、被告が真実を語ってこそ初めて公正な裁判ができると私も考える。たとえ、それが荒唐無稽のものであってもかまわない。けれども、被告が語る真実を見ても極刑は当然だろう。被告は被害者を殺したこと自体は間違いのないことなのだから。被告もそれは認めているし、私の勝手な思いかもしれないが、被告自身が「死」は覚悟していたと思う。
弁護団の中には死刑廃止論者が大勢いたかもしれない。いや、遺族である本村さんだって、死刑にしたから満足だとは言っていない。彼は、被告が行なった行為を償って欲しいと言っているに過ぎない。彼もまた、ある意味で死刑廃止の人とも言える。死刑にすればそれで全てが解決できるわけではないからだ。人間そのものの、生き方なのか価値観なのか、生活環境なのか、どこがどういう問題なのか、人間として考えることが、解決の道のようにも思う。
我が家の北の部屋の窓際の壁でサナギになっていたアゲハチョウが今日、羽化して飛びたった。飛び立たなければ、新しい世界は見えてこないが、明日は雨降りのようだから、ちゃんと雨宿りしているかと気になっている。
昨日の記者会見を見ていて、本村さんはすごく冷静な人だと思った。事件後、何度もマスコミの前に立たされたけれど、彼はいつも自分の言葉で自分の意見を語っている。その言葉は正確だし、趣旨もハッキリしている。昨日の判決についても彼は「遺族が求めてきた判決」と言いながら、「決して喜ばしい気持ちではない」と述べた。誰かが、「本村さんなら総理大臣にしてもいい」とブログに書いていたが、スジの通ったキッパリした発言は今の政治家にはいないと思う。
私は昨夜、テレビ報道を見なかったのでわからないが、今朝の新聞を見ると、朝日新聞は1面ではなく2面扱いだった。そして1面の「天声人語」も3面の社説も、「あなたが裁判員だったら」を前面に出していた。1年後から始まる裁判員制度をPRすることで終わっているのだ。これに対して中日新聞は1面で「高裁『供述は極刑逃れ』」と報じ、中ほどの面では全面を使い判決の趣旨や報道のあり方を論じていたし、最後の頁では本村さんおよび弁護団の記者会見をトップ記事にしていた。
私は、人が人を殺すことは断じて許さない。いかなる戦争も認めない。もし誰かが誰かを殺してしまったなら、その人は一生をかけて償わなくてはならないと思っている。だから、人を殺す死刑もすべきではないと思う。これは極論だから賛成者はいないかもしれないが、たとえ正当防衛であっても、どんなに納得できるいかなる理由があろうとも、人を殺してしまったならば極刑に服するべきだと思う。私は正当防衛での戦争も認めないし、自分が殺されそうだったからやむなく殺した場合の正当防衛も認めない。
人間は人間を殺した場合は、極刑となることが現在の人間の最大の智恵のように思う。弁護団が言うように、被告が真実を語ってこそ初めて公正な裁判ができると私も考える。たとえ、それが荒唐無稽のものであってもかまわない。けれども、被告が語る真実を見ても極刑は当然だろう。被告は被害者を殺したこと自体は間違いのないことなのだから。被告もそれは認めているし、私の勝手な思いかもしれないが、被告自身が「死」は覚悟していたと思う。
弁護団の中には死刑廃止論者が大勢いたかもしれない。いや、遺族である本村さんだって、死刑にしたから満足だとは言っていない。彼は、被告が行なった行為を償って欲しいと言っているに過ぎない。彼もまた、ある意味で死刑廃止の人とも言える。死刑にすればそれで全てが解決できるわけではないからだ。人間そのものの、生き方なのか価値観なのか、生活環境なのか、どこがどういう問題なのか、人間として考えることが、解決の道のようにも思う。
我が家の北の部屋の窓際の壁でサナギになっていたアゲハチョウが今日、羽化して飛びたった。飛び立たなければ、新しい世界は見えてこないが、明日は雨降りのようだから、ちゃんと雨宿りしているかと気になっている。