映画『潜水服は蝶の夢を見る』を観た。潜水服と蝶との組み合わせがなんとも不思議な気がした。主人公は身体を動かすことができないから、なんとなく潜水服は結びつく気がしたが、蝶は何を指すのだろうと思った。映画の舞台はフランスで、フランス人監督はしかも画家だと解説にあったから、これはどうやらロートレアモンの『マルドロールの歌』にあり、シュールリアリストたちが好んだ、「ミシンと雨傘とが解剖台の上で、はからずも落ち合ったように美しい」が下敷きにあるように思った。しかし映画を観て、この推察は間違いだったかなと思った。
映画の前半、3分の1くらいは一人称で描かれている。つまり主人公の唯一動く左目で見える光景がスクリーンに映し出される方法だ。カメラのレンズが主人公の目という撮影方法は、以前にも見たことがあるが、この映画は身体の中で唯一動かせる目であるから、そのリアルさが強調されていて、このまま最後までこんな風に映写されるのはつらいなと感じた。私たちの目は180度近い広い視野なのに、カメラのレンズはそこまでの広がりがない。それを片目という矮小化された世界に置き換えるから、息苦しいほどの狭い世界になってしまう。
潜水服は、自分の身体なのに自分の身体ではない状況をよく表している。主人公は雑誌「ELLE」の編集者で、自由で放縦な人生を送ってきた。3人の子どもがいるが正式には結婚していないようだ。けれども、彼は子どもたちのもとに通ってくる。その子どもと一緒に新車で出かける途中で、脳の障害で倒れ、何週間も昏睡状態となった。気がついたところからこの映画は始まった。頭は以前と同じように働くのに、身体は全く動かせない。唯一左目だけが動かすことができた。言語療法士の指導で、まばたきで文字を拾い、やがてこの体験を本にまでしてしまう。
映画評の中に「ユーモアを忘れず前向きに生きる男の感動作だ」というものがあったけれど、そんな風に見た人もいたのだろうが、私はそんな風に感動できなかった。それは多分、映画の作り方が淡々としていたからだと思う。彼は絶望した。死にたいと思ったはずだ。こんな身体で生きていても仕方がないと考えたであろう。けれども、どんなに嘆いても自分では死ぬこともできない。栄養は補給され、「まるで赤ん坊のように」お風呂にも入れられ、「生かされている」。生かされているのだから、自分と他とをつなぐ唯一の手段である「まばたき」が生き甲斐にならざるを得ない。その「まばたき」で本まで作ってしまうところが一般人と違うところだろう。
絶望の淵で彼が見たものは、自由に天空を舞う「蝶」だ。彼の頭の中は、過去の記憶と自由な想像の世界があった。彼は恋人と出かけた旅のことや、「お前と同じように女を泣かせた」と言う父親のことや、華やかな職場での生き生きとしたやり取りを思い出す。見舞いに見た子どもたちが浜辺で戯れる様子、彼女のスカートがめくりあがりその奥が見えそうになるのを追う、言語療法士の女性をいい女だと顔から胸元へと視線(カメラ)が注がれる。どんな状態になっても男は男なんだと当たり前のことを思う。
浅田次郎や東野圭吾の原作なら、こんな風には描かなかったであろう。日本人の映画監督で今どんな人がいるのかよく知らないが、おそらくもっと泣かせる映画にしたのではなかろうか。撮影監督はスピルバーグ作品でおなじみのヤヌス・カミンスキーとあった。なるほど映像が日本人の感覚にないものだと感じた原因がわかった。『クロワッサンプレミアム』の4月号に、上野千鶴子さんがこの映画について評論を載せているそうだ。ぜひ、読んでみようと思っている。
映画の前半、3分の1くらいは一人称で描かれている。つまり主人公の唯一動く左目で見える光景がスクリーンに映し出される方法だ。カメラのレンズが主人公の目という撮影方法は、以前にも見たことがあるが、この映画は身体の中で唯一動かせる目であるから、そのリアルさが強調されていて、このまま最後までこんな風に映写されるのはつらいなと感じた。私たちの目は180度近い広い視野なのに、カメラのレンズはそこまでの広がりがない。それを片目という矮小化された世界に置き換えるから、息苦しいほどの狭い世界になってしまう。
潜水服は、自分の身体なのに自分の身体ではない状況をよく表している。主人公は雑誌「ELLE」の編集者で、自由で放縦な人生を送ってきた。3人の子どもがいるが正式には結婚していないようだ。けれども、彼は子どもたちのもとに通ってくる。その子どもと一緒に新車で出かける途中で、脳の障害で倒れ、何週間も昏睡状態となった。気がついたところからこの映画は始まった。頭は以前と同じように働くのに、身体は全く動かせない。唯一左目だけが動かすことができた。言語療法士の指導で、まばたきで文字を拾い、やがてこの体験を本にまでしてしまう。
映画評の中に「ユーモアを忘れず前向きに生きる男の感動作だ」というものがあったけれど、そんな風に見た人もいたのだろうが、私はそんな風に感動できなかった。それは多分、映画の作り方が淡々としていたからだと思う。彼は絶望した。死にたいと思ったはずだ。こんな身体で生きていても仕方がないと考えたであろう。けれども、どんなに嘆いても自分では死ぬこともできない。栄養は補給され、「まるで赤ん坊のように」お風呂にも入れられ、「生かされている」。生かされているのだから、自分と他とをつなぐ唯一の手段である「まばたき」が生き甲斐にならざるを得ない。その「まばたき」で本まで作ってしまうところが一般人と違うところだろう。
絶望の淵で彼が見たものは、自由に天空を舞う「蝶」だ。彼の頭の中は、過去の記憶と自由な想像の世界があった。彼は恋人と出かけた旅のことや、「お前と同じように女を泣かせた」と言う父親のことや、華やかな職場での生き生きとしたやり取りを思い出す。見舞いに見た子どもたちが浜辺で戯れる様子、彼女のスカートがめくりあがりその奥が見えそうになるのを追う、言語療法士の女性をいい女だと顔から胸元へと視線(カメラ)が注がれる。どんな状態になっても男は男なんだと当たり前のことを思う。
浅田次郎や東野圭吾の原作なら、こんな風には描かなかったであろう。日本人の映画監督で今どんな人がいるのかよく知らないが、おそらくもっと泣かせる映画にしたのではなかろうか。撮影監督はスピルバーグ作品でおなじみのヤヌス・カミンスキーとあった。なるほど映像が日本人の感覚にないものだと感じた原因がわかった。『クロワッサンプレミアム』の4月号に、上野千鶴子さんがこの映画について評論を載せているそうだ。ぜひ、読んでみようと思っている。