衆議院山口2区の補欠選挙で、民主党が予想通りに勝利した。民主党が勝てないようならこの国の有権者はなんと鈍い感性なのかと思っていたので、当たり前と言えば当たり前の勝利だった。後期高齢者医療制度は小泉政権下で自民・公明の強行採決で実現されたものなのに、そのことには余り触れられず、不平等感だけが強調されている。そしてガソリン税の暫定税率問題は、上げ下げの問題に矮小化され、税のあり方にはメスが入らない。
バラエティ番組でも政治の問題が取り上げられるが、なぜか歯がゆい思いがする。こんな風に面白おかしく政治を考えていくのもよいのだろうが、軽さには何か危険な意識が含まれているようにも思われるのだ。知り合いの市議はいろいろとアイディアを思いつく。たとえば団塊世代の大量退職者を目当てにした講座を設けたり、地地球環境を考える映画会を開いたり、精力的に活動している。確かにそうした活動は時代の要請に応えているし、やっていく意味も大きいと思う。
私が不思議だなと思うのは、そこから何を導き出したいのだろうかということだ。彼の話を聞いていると、イベントを行なうことが目的のような気がしてしまう。しかも、内容にかかわることよりも行なうこと自体が目的化されてしまっている。かつて、「女性議員を議会に!」という運動があった。女性議員ならば誰でもよいわけではないはずなのに、このスローガンが単純に目的化されてしまったのだ。
市民の目線で見える政治を!と言い、それが支持されて当選したのに、議員や首長になってしまうと、訴えてきたことを反故にしてしまう人がいる。自分が首長や議員になればこういうことをやると主張していたのに、いつの間にか首長や議員のイスにいることが目的になってしまう。むしろ、勝ち取ったイスを手放したくない思いの方が強くなってしまうようだ。自分が何のために首長選挙や議員選挙を戦ったのか、当初の理想や目的が風化していることに気がつかない。
いや初めから、全く内容も無く、ただただ議員や首長になりたいだけの人もいる。私の知り合いの市議もそんな一人なのかもしれない。「あなたはそれで、何がしたいの?」と尋ねても、はっきりとした彼の理想論は出てこない。そんな政治家がいつまでも続くわけはない。いつかは自分の力量というか本質がむき出しにされてしまう時がある。
昨日は、「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」の総会だった。久々に新入会員が参加した会議はフレッシュな印象を与えてくれた。ここの仲間は真っ正直な人ばかりだが、人間はどうしてもブレやすい。だからこそ自らの政治姿勢を互いの論議の中で検証していかないといけないと思う。
バラエティ番組でも政治の問題が取り上げられるが、なぜか歯がゆい思いがする。こんな風に面白おかしく政治を考えていくのもよいのだろうが、軽さには何か危険な意識が含まれているようにも思われるのだ。知り合いの市議はいろいろとアイディアを思いつく。たとえば団塊世代の大量退職者を目当てにした講座を設けたり、地地球環境を考える映画会を開いたり、精力的に活動している。確かにそうした活動は時代の要請に応えているし、やっていく意味も大きいと思う。
私が不思議だなと思うのは、そこから何を導き出したいのだろうかということだ。彼の話を聞いていると、イベントを行なうことが目的のような気がしてしまう。しかも、内容にかかわることよりも行なうこと自体が目的化されてしまっている。かつて、「女性議員を議会に!」という運動があった。女性議員ならば誰でもよいわけではないはずなのに、このスローガンが単純に目的化されてしまったのだ。
市民の目線で見える政治を!と言い、それが支持されて当選したのに、議員や首長になってしまうと、訴えてきたことを反故にしてしまう人がいる。自分が首長や議員になればこういうことをやると主張していたのに、いつの間にか首長や議員のイスにいることが目的になってしまう。むしろ、勝ち取ったイスを手放したくない思いの方が強くなってしまうようだ。自分が何のために首長選挙や議員選挙を戦ったのか、当初の理想や目的が風化していることに気がつかない。
いや初めから、全く内容も無く、ただただ議員や首長になりたいだけの人もいる。私の知り合いの市議もそんな一人なのかもしれない。「あなたはそれで、何がしたいの?」と尋ねても、はっきりとした彼の理想論は出てこない。そんな政治家がいつまでも続くわけはない。いつかは自分の力量というか本質がむき出しにされてしまう時がある。
昨日は、「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」の総会だった。久々に新入会員が参加した会議はフレッシュな印象を与えてくれた。ここの仲間は真っ正直な人ばかりだが、人間はどうしてもブレやすい。だからこそ自らの政治姿勢を互いの論議の中で検証していかないといけないと思う。