高校生の時、いつかこの家を出て行くと漠然と思っていたけれど、生まれ故郷を去ることがどんなことなのかは考えたこともなかった。室生犀星の詩「ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたうもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」。まだ、そんな実感はなかった。大学生になって、中学・高校と仲良しだった4人で居酒屋へ出かけた時の帰りなど、この詩を口にしたが、故郷を離れたのは私だけだった。
私は3男だから当然家を出ると思っていた。高校生の時に両親を亡くし、大学は兄が入学金を用意してくれた。授業料免除と奨学金を受け、家庭教師をして小遣いはあったから、友だちに誘われても飲み代は充分だった。けれど、高校生だった妹の小遣いまで思いが回らなくて、今思うと少しでも渡してやれたのにと悔やむ。居酒屋の女給さんたちは学生の私たちには親切で、時には注文しない料理やビールが届いたこともある。
私たちは戦争を知らないのに、軍歌や戦前に流行した「会いたさ見たさで」はじまる『籠の鳥』、「俺は河原の枯れすすき」の『船頭小唄』をよく歌った。『デカンショ節』もよく歌った。「デカンショはデカルト、カント、ショーペンハウエルの略だ」と先輩から教えられたが、元々は兵庫県篠山地方の民謡だったとは知らなかった。デカンショは出稼ぎに行くことと知って、歌の意味が分かった。
与謝野鉄幹の作詞『人を恋うる歌』も大声で歌った。「妻をめとらば才たけて みめ麗しく情けある 友を選ばば書を読みて 六分の侠気四分の熱 恋の命をたずぬれば 名を惜しむかな男ゆえ 友の情けをたずぬれば 義のあるところ火をも踏む」と、互いの顔を指差して確認し合った。血気盛んな時だったし、純粋な気持ちと多感な気持ちがぶつかり合っていた。
室生犀星はそんな青春時代を思い出させる詩人だが、犀星にもこんな詩『四十路』があった。「逢いたい人のあれども 逢いたい人は四十路すぎ わがそのかみ知る人はみな四十路すぎ」。老いても恋していたからこそ人生の機微を模索できたのではないだろうか。73歳で亡くなったが、自分の出生については「夏の日に 匹婦の腹に うまれけり」と卑下している。人は誰も悲しいものを背負っている。