友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

子どもの事故は親の責任!?

2015年04月11日 18時30分29秒 | Weblog

 風が強くて、ルーフバルコニーに出られない。チューリップは強い風に煽られて可哀相なくらい揺れている。せっかく友だち夫婦がチューリップを見に来てくれたのに、部屋の中から眺めてもらうしかない。明日はマンションの友だちが見に来てくれる。「どうか風よ、止んでくれ」と祈るばかりだ。

 自然相手では仕方がない。地上30メートルのバルコニーで花を育てることが無理なのかも知れない。そう思いながらも、せっかくの天上の空間に花がないのは寂しすぎる。花たちもせっかく咲いたのに誰にも見られずに終ってしまうのでは寂しいだろう。バルコニーで花を育て、眺めて満足している私は、自分を基準に考えている。

 先日、最高裁は、子どもが起こした事故の賠償について、「親は危険な行為と予測できない限り、賠償責任を負わない」と新しい判断を示した。これまで子どもが起こした事故の訴訟では、ほぼ無条件で親の賠償責任が認められてきた。卒業生がフェイスブックにこんなことを書いていた。「責められるべきは、柵が低かった学校でしょ。それにゴールの位置を、道路と反対の方にするぐらいはできただろう」。

 確かに学校の柵はどこも低いし、ゴールはどこも道路に向いている。こういうこともあるから学校は、ボールが飛び出さないように柵を高くすることになるだろう。バイクを運転していた85歳の男性が転倒し翌年に亡くなったことで、遺族が子どもの両親に5千万円の賠償を求めた。遺族の方には気の毒な事故だけれど、賠償の金額はその人が生きていれば得るだろう金額と遺族の悲しみを加えたものだとしても、余りに高額ではないのか。

 家の大黒柱が亡くなり、明日から生活に困る人たちもいる。事故を起こしたのが子どもなら親はその責任を免れない。この事故の父親の言葉が新聞に載っていた。「息子はずっと罪の意識を持ちながら、思春期、青春期を歩いて来た。(略)親のしつけ、教育がなっていないと断じられたことは大変ショックで、自暴自棄になりかけた」と。

 どんな事故でも、被害者・加害者ともにその後の人生に大きく影響する。立場が違えば利害も違う。自然に対して身勝手なことを考える私はまだ器が小さい。なすがままに、なるがままに、それでいい、そう思うにはまだまだ修行が足りない。

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