友々素敵

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落語は凄い

2015年04月18日 18時32分37秒 | Weblog

 大いに笑った。笑うとどうして気持ちがよくなるのだろう。今日は大和塾の第42回市民講座。講師を務めてくれたのは上方落語家の桂蝶六さん。4月末には、三代目桂花團治を襲名する噺家である。さすがに10代から落語を続け、大阪青山大学の客員教授の肩書きがただの看板ではないことがよく分かった。話芸も優れているけれど、それだけでは人の心に届かないことも知った。

 落語には失敗する人が必ず出てくる。それを聞いて人は可笑しくって笑う。テレビのバラエティー番組も人を笑わせるけれど、私は笑えない。バラエティーの笑いには毒がある。たいていの場合、失敗させてその失態をみんなで笑う。あるいは顔が悪いとか、背が低いとか、ブスだとか、身体の特徴を笑いものにする。私には「いじめ」としか思えないが、笑い飛ばして「みんなですれば恐くない」ところがある。

 落語では失敗すると、「何をしているんだ。馬鹿か!」とは怒らないという。たいていは「アホかいな」で終ってしまうそうだ。くどくどと叱り飛ばしては人情味がなくなるからだと蝶六さんは説明する。蝶六さんが師匠から教えてもらったのは、人情の機微をしっかり伝えることだという。アホな亭主だけれど、「どうしてこんな人と一緒になっちまったんだろうねぇ」とつぶやくだけで、亭主思いの妻になる。それをテレビドラマのセリフでやったら、離婚しか道はなくなる。

 蝶六さんは狂言を学び、日本の古典芸能にも精通している。浄瑠璃好きの男と三味線好きの男の話を最後に演じてくれたけれど、それはもう至芸と言ってもよいものだった。また、現代の落語も披露し、被災地で避難してきた人たちを前に行なった落語『公社のぜんざい』は受けたという。役所がいかに書類ばかりを要求し、実際の援助が後回しになってしまうかを皮肉った話だけれど、「役所はねえー」とみんなが体験しているからこそ笑えるという。

 落語は江戸時代に完成した話芸だけれど、決してエライ人は出てこない。出てくるのはそこらにいる人ばかりだ。大いに笑わせて、そしてオチがあることから落語と言われた。笑いながらも泣かせる落語もあるし、世相を皮肉った落語もある。人々も落語を聞くことでスッキリした気分を味合った。やっぱり、落語は凄い。蝶六さん、今日がどうもありがとうございました。

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