戦後70年に合わせて9日、天皇、皇后両陛下は太平洋の激戦地パラオを訪問し、ペリリュー島の慰霊碑に白菊の花束を供えられた。ペリリュー島での戦闘は映画にもなったが、武力で劣る日本の守備隊はほぼ全滅だった。わずかに生き残った人の話が中日新聞に載っていた。
艦砲射撃を終えたアメリカ軍がいよいよ上陸してくる。「今から戦車攻撃に出る。希望者は挙手しろ。3名だ」と中隊長が命じる。地雷を抱えて戦車に体当たりするのだ。2名が志願する。どうしよう、土田さんが悩んでいると、みんなから「お坊さん」とからかわれていた弱々しい男が、「死ぬ時は潔く死ねと両親に言われました」と手を挙げた。
終戦も知らず、土田さんらは洞窟を渡り歩いた。「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられてきたから、捕虜になることは許されない。投降は脱走を意味する。終戦から1年8ヶ月、土田さんはアメリカ軍に捕らえられ、帰国することが出来た。「3日に1度は洞窟の夢を見る。戦争は絶対にいかん。戦争のない国を」と土田さんがテレビで語っていた。
語り部となって、「戦争をしない平和な国」を訴える人の死を新聞で知った。私たちが犬山の桜を観に出かけた6日、板津忠正さんが亡くなった。板津さんは名古屋市の出身で名古屋市役所に勤めたが、自宅は犬山市だ。昨年秋、私は初めて知覧特攻平和館を訪ねたが、その初代館長を務めたのが板津さんだった。板津さんは陸軍特別攻撃隊の隊員で、攻撃に参加したけれど、エンジントラブルで引き返し生き残った。
「2度と戦争をしてはならない」と板津さんは語っていた。沖縄のひめゆり学徒隊で生き残った女性たちも戦争体験を語ってきたが、今年で最後になるという。語り継ぐ人がいなくなっていくのは寂しいけれど仕方ないこと。生きている私たちが戦争を想像し、決して起こしてはならないと決意することで、亡くなった人々の思いを受け継いでいくしかない。