友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

地域新聞から生まれた本

2019年06月08日 17時18分02秒 | Weblog

 

 私は、書くこと描くことが好きだ。高校と大学は新聞部に在籍し、大学4年は東京で教科書制作の手伝いをした。卒業して高校の教員になった。卒業制作の私の絵を見て「評価した」との、大先輩の言葉が嬉しかった。生徒たちとの毎日はとても楽しかった。彼らの才能を見つけて伸ばす、何という素晴らしい仕事だろう。8ミリカメラで、映画やアニメ動画を作った。

 教員を辞めた時はどん底だった。叔父の日本料理店を手伝ったり、歯科技工の仕事もしたが、うまくいかなかった。小牧市図書館で地域新聞を見て、新聞作りの夢が湧いてきた。地域の有力者宅を回り、どういう新聞を作りたいかと説明して回った。幸いなことに有力者に気に入られ、発起人になってもらえた。自宅を事務所にし、カミさんを職場に送っていった後、取材と広告集めに回った。

 1985年の創刊号から10年間、地域新聞のスタイルは変えなかった。1面の一番下の欄は、「天声人語」や「中日春秋」の役割の『パントマイム』で、このコラムが新聞の品位を醸し出してくれた。筆者には創刊の当初は、『奥さんこんにちは』の欄も担当してもらっていたが、生まれたばかりの乳飲み子を抱え、月2回の取材と原稿書きは大変だったはずだ。評判のよかったこのコラムを本にして残したかったので彼女に勧めた。それが(株)メタローグから出版された『肯定主義』だ。今では遅いが、私も印刷費を負担すべきだったと悔やむ。

 創刊して5年目に『大学公開講座』を提案し、6年目から『DANDAN』という名で年1回冊子を発行した。1994年の第200号から、この道25年の人を紹介するシリーズ『この道ひとすじ』を始めた。記事は私が書き、写真は街の写真家に撮ってもらった。後に写真家が「写真集を冊子にしたい」と言うので、私は巻頭言を書かせてもらった。

 我武者羅に取り組んできた気でいたが、周りで私を支えてくれた人が大勢いたから出来たことばかりだ。どういう人に出会い、どういう人に恵まれるか、人生はその積み重ねだと思う。

コメント
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