イシグロ・カズオ氏の作品が気になったのは、NHKテレビで『浮世の画家』を観てからだった。前にも書いたが、ノーベル文学賞の受賞が決まった時は、作家の名前も知らなかった。書店に置かれた文庫本を買ってはみたが、なにやら回りくどくて、読む気を失ってしまっていた。それなのに、テレビドラマを観て、急に興味が湧いてきた。
これも前にも書いたことだが、人は誰でも一生懸命に生きている。生きている自分の価値とか目的まで考えてなどいない。どんなに悪い人でも、どんなに良い人でも、その日その日を知らず知らず、真面目に生きている。人生をふざけて生きたという人はいないだろう。仮にいたとしても、そうなれば一生懸命でふざけたということだろう。
『浮世の画家』の主人公も、彼の日日において、精一杯にまじめに取り組み、正しいと思った道を突き進んだ。けれど結果としては間違っていた。軍国主義を煽るべきではなかった。「過ちを認めずぬくぬくと生きている」と批判され、悩み苦しむ。『日の名残り』の主人公の執事が仕えたイギリス貴族は、心の優しい正義感に満ちた人で、世界平和のためにとナチスとの闘いよりも和平を進める。
画家と貴族では、果たした役割の大きさが違うが、時代に逆らった点では同じだ。しかもそれは結果としての話である。もし、時代がナチスとの和平に進んでいたら、貴族はその立役者として高く評価されただろうし、軍国主義の時代がもっと長く続いていたなら、画家も文化功労者と称えられただろう。
いや、それだけではない。私が高校生になった時、60年安保闘争が国民的に盛り上がった。東京で大学生だった従兄は、「日本は変わる」と私に告げた。70年安保闘争は学生たちの武力闘争となった。私はテレビニュースで見ていて、「流血で世の中は変わるのか」と恐怖を感じた。60年安保を戦った人も、70年安保を戦った人も、思い出になったかも知れないが、世の中は何も変わらなかった。
アジった人も、弾圧した人も、誰も責任を取ることも無く、時代は過ぎていく。結局、誰がどうしたのではなく、自分がどう生きるかなのだろう。何が大切で、何を愛し、何に励むか、そうやって人生を閉じていく。