友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

私が暴力をふるったのは

2019年06月02日 17時19分48秒 | Weblog

 テニスの全仏オープンを観ていて、学生時代にテニスをしていたカミさんは興奮して、画面に向かって声援を送っていた。1対1で戦う競技は、相手の弱いところを狙ってプレイする。剣道だって柔道だって、将棋も囲碁も、相手の弱点を攻める。チームプレイの野球やサッカーも相手チームをどうやって倒すかだから、やはり弱点を研究して攻める。

 同じスポーツでも陸上や水泳は、自分の能力の限界に挑む個人競技であり、リレーのような団体競技も能力や技術を競うが、相手の弱点を攻めるものではない。弱点を狙って攻めるスポーツは卑怯な気がして、どうも私は好きになれない。「それはオマエに、そんな能力も勇気もないからだ」と指摘されそうだが、考えてみればその通りだろう。

 色白でひ弱な私を鍛えようとしたのか、姉のダンナは部屋の中で、よく相撲を取ってくれた。「相手より早く立て。相手が大きかったらすぐに足を取れ」と何度も言った。小学6年の時、隣の組の先生と相撲をすることになり、私は先生の足を取ってひっくり返した。「ケンカも同じだ。相手がその気になる前に襲い掛かれ、そうすれば必ず勝てる」と自称、予科練帰りの義兄は教えてくれた。

 中学1年の時、チビの私は室長だった。身体が大きくいつも子分を従えていた男の子が席に着いてくれなかった。バカにされている、そう思った私はいきなりその子に近づいて抱え上げ、教室の壁に向かって放り投げた。先生には叱られたが、投げつけた男の子からケンカを仕掛けられることは無かった。「おとなしい顔しているのに、凶暴だな」とみんなに言われた。

 私が暴力をふるったのは一生に一度、その時しかない。バカにされていると思ったよりも、好きになった女の子の前で、男らしいところを見せなくてはという、気持ちが先にあった。偉そうに高校では「ペンは剣より強し」と新聞部に籍を置いたが、助平で薄っぺらな心の持ち主であったのだ。

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