友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

デイゴの花と待宵草の花

2019年06月06日 17時22分56秒 | Weblog

 

 今朝、写真を撮り、「デイゴの花が咲いた」と書き出して、デイゴの花をインターネットで調べてみた。すると、2013年6月29日付の私のブログ「デイゴの花が咲き始めた」が出てきた。6年前に比べて今年は3週間も早いことを知った。我が家の一番大きな鉢に植えているが、大きく成長できないばかりか、秋には葉が落ち枝も枯れてしまうから、冬は春に芽が出てくるのだろうかと心配になる。

 それでも毎年、こうして何本もの枝が伸びて花をつける。こうなると朝、落ちた花を掃除するのが大変になる。沖縄の「島唄」にはデイゴが出てくるが、沖縄で見たデイゴは我が家にあるような花ではなかった。真っ赤な花なのに、ハイビスカスのように開くわけではなく、枝に豆が並ぶように付く素朴な花で、恋の歌にするのは難しい気がする。それでも青い空と赤い花はいかにも南国の雰囲気がある。

 花を見て、愛しい人を偲ぶ歌は多い。赤いバラは情熱的で、白いユリは気高く美しい姿態が浮かぶし、黒ユリは神秘的な妖しさが漂う。高嶺の花は手が届かない。花屋で「待宵草」の苗が売られていた。野生のものと思っていたが、庭で育てる人もいるのだ。彼岸花は墓に咲く花と思っていたが、最近では庭で咲かせている。花の愛でようも変わって来た。

 私は高校生の時、河原に咲く「待宵草」の群生を見てとても感動した。昼間は全く見えないのに、夜、月の光を浴びて咲く花の群生はとてもきれいだった。誰もこの美しさは知らない、そう思って初恋の人の美しさを詩に書いたが、先生から「独りよがり」とけなされた。「待宵草」と「宵待草」の違いについて論評した方が先生に気に入られたかも知れない。

 マツヨイグサは江戸時代に渡来した外来種で、黄色の花を「待宵草」、白い花を「月見草」、ピンクや紫の花を「夕化粧」と区別しているそうだ。「宵待草」は詩人の竹久夢二の「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ」と歌われたことから広まった。夜の河原の堤を自転車を走らせながら歌ったことを思い出す。

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