出会いを求めている。人間は生まれて死ぬまでに、どれくらいの人に出会えているのだろう。私はマンションで暮らしているが、近所に住んでいても出会うことのない人もたくさんいる。最近、一日中家にいると、当然なことだが誰に会うこともない。昔、ひとり暮らしの人から電話がかかり、30分でも40分でも聞くことになった。話し相手が欲しいのだからと思い、とにかく聞いた。
友だちの母親は弟夫婦と暮らしているが、時折、友だちに電話をしてくる。長い電話が続き、彼女が「お母さん、その話、前にも聞いたわよ」と言うと、彼女の母親は「そうやって、話を否定してはいけないと、偉い先生が言ってたわよ」と注意するそうだ。歳を取れば誰でも頻繁に物忘れするようになる。席を立って何かを取ろうとしたのに、何だったのか思い出せないから、もう一度席に着いてみる。
身体が元気で、ゴルフもすれば野菜作りにも精を出している先輩が、「痴呆症だけはなりたくない」と言う。私は、「ガンは痛いけど、痴呆症なら本人は病気だと知らないから、その方がいいのかも」と冷やかしで言ってみたが、認知症ってそもそも何なのかと思う。私たちの子どもの頃なら、長寿の人はあまりいなかった。年寄りになれば物忘れが進むと誰もが思っていた。
孤独で誰とも話をしない日々が続くのは気の毒だけれど、どうすることが出来るのだろう。この市でもいろんな対策が取られている。年寄りを集めた「お茶会」や、子どもたちとの触れ合いや、考えられることは何でもやられている。企画する側から、受ける側になってみると、無理やり参加させないでくれと思ってしまう。孤独死が見つかると、近所の付き合いや行政の責任を問う声があるが、孤独死だから不幸と決めつけることは無い。
誰かと出会い、話が出来るなら、確かにそれは幸せなことだろう。でも、その逆が全て不幸という訳でもない気がする。幸せも不幸も他人には分からない。自分が何を求めたかは分かっても、幸せか不幸かは自分だって本当は分からない。