友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

鼻水が止まらない

2009年12月19日 21時10分03秒 | Weblog
 昨夜は寒かった。眠っていたのに、何度か大きなクシャミをした。朝、目を覚ますと外がいやに明るい。カーテンを開けると銀世界だった。クリスマス前に雪景色を見るのは何年ぶりなのだろう。しかし、やがて雪降りは止み、太陽が顔を出すと見る間に雪は溶けてしまった。子どものように雪景色に感心していたら、再び「ハクション、ハクション」と連発するようになってしまった。私の身体は温度差に敏感に反応するようにできているようで、だいたい気候が変わる春と秋に、クシャミと鼻水に悩まされる。

 こんな反応が現れてきたのは30歳近くになってからだ。初めは、風邪だと思っていたが、花粉症だった。しかし、今日はそんな花粉症ではないようだ。花粉症ならば、朝のうちだけですむのに、夜になっても治まらない。どうもこれは風邪を引いたようだ。明日の夜はクリスマスコンサートがあり、明後日は楽しみにしているクリスマスの食事会がある。何としてでも治しておきたい。苦しい時の神頼みで、神様には申し訳ないことばかりだ。

 昨夜はひとりだったので、お酒のつまみになるようなものばかり作って、テレビを見ながら飲んだのが風邪引きの原因だったのかもしれない。だんだん歳を取ると、喧しいテレビが見られなくなる。タレントが答えるクイズやトークショーのような番組はとてもうるさく感じる。政治を面白くおかしく取り上げた番組も、悪口の言い合いばかりで興ざめだ。昔、どうして年寄りは面白くもないNHKばかり見るのだろうと思っていたが、NHKが一番安心して見ていられる。内容的なことばかりでなく、テンポや音量や話し方などが合っているのだろう。

 昨夜見ていたのは、どこかの民放のBSだった。「貧困社会」を取り上げて真剣に議論していた。ウケを狙うのではなく、問題の解決に向けて智恵を出し合っていた。その中で、ホームレスだったという若者が、「がんばっていない人はいないですよ。がんばっても生活はよくならない。そんな状態が続くと、何をやってもダメじゃないかと思えてくるのです。働いても仕方ないとか、働く気にもならないとか、そういう状況が言わせてしまうのです。先が見えてこないと働けないのです」と話していた。自分を振り返ってもそうだよなと妙に納得できた。

 「貧困は社会の損失です」とゲストが言っていたけれど、その通りだと思う。資本主義社会になって、儲けることばかりに目が言ってしまったけれど、儲けるためには「貧困」をつくっては損ということだ。資本主義社会はどういう社会かといえば、物をつくりそれを売って成り立つ社会だ。物をつくっても買い手がいなければ社会は成立しない。永続的な資本主義社会にするためにはみんなが豊かでなければならない。富を得る人もいるけれども貧困で生活できない人はいない、そんな社会でいいのかもしれない。

 まだ鼻水が止まらない。困った。困った。
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男は何時までも夢を見る

2009年12月18日 20時07分43秒 | Weblog
 65歳ともなるとやはり人生の終末である。もちろん元気な人もいて、80代でも60代の私たちと全く違いがないような人もいる。同じ60代でも人によって様々で、私の身近にも3度結婚し4度目の恋に挑んでいる人もいれば、15年近くも「友だち以上恋人未満」を続けている人もいる。それとは逆に、「恋なんて面倒なものはいらん。ひとりの方が自由でいい」と一人暮らしを楽しんでいる人もいる。どの人の生き方もこの歳なれば「ホンモノ」だと思う。

 15年近くも恋人未満の関係が続いている友だちは、最近ブログにその女性の話が出てこない。そのことを問うと、「彼女が私のことは書かないでと言うから」と話す。私は一度も会ったことがないのでどんな女性なのか知らないが、ああ、思いやりのある女性だなと思った。私が何時だったか彼に、「こんなに彼女のことをブログに書いても大丈夫なの?」と聞いたことがある。その時友だちは「うちの奴はパソコンを見ないから」と言っていた。見ないからいいというものではないだろうと思った。無神経だなとも感じた。

 3度も結婚した人の話をわざわざカミさんにして、おまけに「うらやましい」と言った人がいる。そう思っても黙っているのが普通だろう。「うらやましい」と言う男ほど浮気は出来ないだろうけれど、言われたカミさんはいい気持ちがしないものだ。相手が嫌がるようなことは言わない方がいい。友だちの恋人未満の女性は、万が一カミさんが夫に不信を抱いたなら困るのはあなたでしょうと教えているのだと思う。カミさんがいながら他の女性に心惹かれることを私は非難しないが、わざわざ波風を立てるようなことはすべきではないだろうと思う。

 65歳にもなれば恋などできないと思っていたけれど、最近、失恋した友だちもいた。「愛しているが別れることにした」などとまるで演歌のように格好をつけるので、「愛しているなら、別れなければいいのではないか」と冷やかすと、「俺たちは65だよ。この先はどんどん歳をとる。もう、決して若くなることはないんだぞ。一日一日と老いていく姿を見せるのはゴメンだ。今なら、まだ元気だし、醜くもない。だから今のうちに別れるんだ」と言う。

 そんな話を聞いたので、今日の短歌教室はこんな歌になった。
  1)失恋の友慰めむと共に酔う 可哀想より妬ましさ立つ
  2)傷つけず別れるためと君は言い 演歌のように恋は終わりぬ
  3)日々の暮らしの中に戻りゆく 友だち以上恋人未満
  4)歓びと儚きものは夢のなか 老いて描いた恋語りなり

 私たちの生きる力は何だろうか。「たとえ男女の交わりがなくても、12年以上付き合ってきた一番大事な女友だちと、いつかは海のきれいな南の島を歩いてみたいのだ。そして邪な奴、不純な奴と言われようが、この手で一杯抱きしめてみたい。この邪な望みが落ち込みかけている私をいつも奮い立たせる」と友だちは言う。誠に正直な男だ。ブログを読んでくれている恋人未満に向けて発信しているのだが、だから彼女の方がはるかに思慮深い。

 男は何時までも夢を見るものなのかもしれない。
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残しておくものは何もない

2009年12月17日 19時36分09秒 | Weblog
 65歳の友だちのブログを見ていると、最近は特に切ないね。小学校の友だちは自分が描いた花の絵をブログに載せているのだが、9月から全く更新されていない。高校の同級生の一人も余りに長い間、更新されていなかったので、削除してしまったが、どうしているのだろうか?今度会ったら聞いてみたい。年賀状も毎年どうしようかと迷う。昭和45年の年賀状は「雲と犬と箱」を描いたものだったけれど、この年の1月29日に長女が生まれたので、翌年の年賀状は這っている赤ん坊と私たち夫婦の3人家族を漫画風に描いた。以来ずっと、家族のイラストを年賀状に載せてきた。

 長女が嫁ぎ、次女と私たち夫婦の3人のイラストが続き、長女に女の子が産まれ、長女夫婦がマンションの隣に引っ越してきたので、私たち夫婦と次女と孫娘と4人のイラストになった。けれども次女も結婚し、孫娘を私たち夫婦と一緒に描くこともおかしなことなので、そのうちに夫婦ふたりだけのイラストになった。夫婦だけになると誠に変化がない。子どもは1年毎に大きく変わるから絵になるけれど、頭が白くなり、皺ばかり増えるジジババでは何とも面白味がない。描きようもない。そこで来年、2010年・平成22年の年賀状は1970年・昭和45年の年賀状のスタイルに戻すことにした。

 漫画風がよかったのに、子どもたちが大きくなるにつれ、「私はこんなんじゃない」ともっとリアルに描くように求められ、だんだん漫画風のよさがなくなってしまった。写実的な人物を描こうとするとハガキの大きさでは描きにくいしと苦労したけれど、家族が夫婦だけになってしまうとたとえ漫画風に描いたとしても、もっと大変で、昨年と今年はどこが違うのか、違いを出すために皺を描き込めば、「こんなにおばあさんではない」と叱られる。40年間、喪中で出さなかった時もあるが、それでも40枚近くの作品(?)を描いたことになる。

 年賀状のもう一つの問題は、年賀の挨拶だけになっているものをどうやって減らしていくかである。別にそんなことは考えなくても、出すだけでいいのではないのか、そうも考えられるし、私が悩んでいるように相手も悩んでいるのであれば、もう打ち切ってもいいのではないだろうか、そう思って、「今年の年賀状で最後とさせていただきます」と書き添えたものもあった。こんな風にして少しずつ減らしていくか、それとも‥‥。70歳を迎えたら、もちろんそれまで生きていたらの話であるが、この年をもって賀状はやめようかとも思っている。

 などと、先の話などしても始まらない。そんなことよりも押入れや書棚や引き出しの中の、決して見もしないであろう昔のもの、父親の遺品さえもまだ押入れに押し込められたままになっている、そういうガラクタの整理をぼちぼちやっていかなくてはならないだろう。楽しかったことや思い出深いものなど、自分にしか意味がなく、そして分らないものを整理する必要がある。そう考えると、残しておくものは何もないようだ。
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天皇の国事行為って何?

2009年12月16日 19時49分10秒 | Weblog
 中国の次期国家主席といわれている習近平副主席と天皇の会見について、いろいろと話題になっている。天皇の習副主席との会見について、宮内庁の長官が「1ヶ月ルールに反する」と記者会見したことが発端だった。マスコミや自民党は「天皇の政治利用だ」と鳩山内閣を批判したが、自民党の谷垣総裁の場合は、「天皇は神聖な存在という意識が民主党にない」という非難だった。

 宮内庁長官の発言に対し、民主党の小沢一郎幹事長は不快感をあらわにして「内閣の一員である宮内庁の役人が言うべきことではない。憲法を全く理解していない」と言い、憲法第3条「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う」を取り上げて、「そう定めている。言いたいことがあるなら、(長官を)辞めてから言え」とまで言い切っていた。

 今日の朝日新聞は、共産党の志位委員長が「小沢さんこそ憲法をよく読んで欲しい」と批判し、天皇の国事行為を定めた第7条には「(外国の大使及び公使を接受とあるが)外国の賓客と天皇が会見することは(定めがないので)国事行為ではない」とし、「(定めのない行為である)公的行為は政治的性格を与えてはならないのが憲法の定めるところ。政府が関与すれば政治的性格を与えてしまう」と記者団に語ったとある。そんな風に憲法を解釈してみせても意味がないのに、まだそんなことをやっているのかとあきれてしまった。

 わが国の歴史の中で天皇が実際に権力を持っていたのはわずかな期間しかない。いわば常に象徴としておかれ利用されてきた。平安時代は貴族に、それ以後は武士に、そして明治以後も政治の頂点にあっても飾り物だった。天皇が権力者となる道を現憲法は無くしている。選挙で選ばれた内閣の助言と承認がなくては何もできないはずだ。国事行為は第7条で定められているが、10項目しかない。けれども天皇は毎日とても忙しいという。そこで宮内庁長官は、天皇の健康を考えて1ヶ月ルールを持ち出すという正当な発言をしたというのである。

 どうしてそんなに忙しいのだろう。そういえば、相撲を観たり野球を観たり芝居を観たり、あるいは地方を回られたり、施設を訪問されたり、いろいろとされている。国事行為に定められていない公的行為がたくさん組まれているというわけである。これらはどれも時の政府が都合の良いように天皇を使っているのだから、志位委員長は公的行為そのものをやめさせるべきだろう。

 天皇が行事が多くて大変と言うのであれば、憲法第7条に定めた行為以外はやめさせてあげてもいいのではないか。お正月の皇居参拝でのご挨拶も、ご旅行も、外国訪問も、全てなしにしてあげればいいと思う。いや、天皇が望むのであれば、隠居されてもかまわないと思うし、皇太子が天皇を継がずに普通の人になりたいと思ってみえるなら、私はそうさせてあげたい。天皇の地位に就いたところで、何の楽しみもないのであればそれは苦痛でしかないと思うからだ。

 金も地位もないけれど、自由がある。これは楽しい。
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人はいつも決めている

2009年12月15日 18時49分38秒 | Weblog
 生協のパンフレットに、葬儀や墓の広告が載っていた。とうとうここまで来たか。生協の病院は「親切でいい」と聞いたことがあったし、大和塾でも「終末医療について」講演してもらったことがあり、ユニークな病院経営をしていると思ったが、まさか葬儀や墓まで事業を伸ばしてくるとは思わなかった。生協と言えば生活共同組合だから、本当に安心して食べられる食品を提供している「生活者の味方」と思っていたけれど、最近ではまるで株式会社のように販売範囲を広げている。

 私たちはNPO「おたすけ」を立ち上げ、まちづくりと地域防災に貢献しようと活動しているが、現実はなかなか活発にというわけにはいかない。町づくりの方は地域で行なわれる祭りなどのイベントで、昔懐かしいポン菓子や綿菓子を子どもたちに有料で提供することが主だけれど、そんなにいつも行事があるわけではない。地域防災の方は、地震対策の1つとして井戸掘りを行なっているけれど、これも掘れば必ず水が出るというわけではないので苦労している。

 何時だったか、今の葬儀は家族の求めるようなものではなく、葬儀屋の言いなりになっている、遺族が納得できる葬儀をNPO「おたすけ」でやったらどうか、そんな話が話題になったことがあった。そのうちにだんだんと葬儀の形も変わってきて、家族葬で50万円とか40万円と提示するチラシも出てきた。葬儀屋が提示していた200万円とか150万円とは桁違いの金額である。今、私たちのNPO「おたすけ」の話題はドジョウの養殖だけれど、場所のことやエサやその後の管理やらを考えると、葬儀の方がまだ取り組み易いと思う。

 私たちのNPOは生活のためというよりは、「それは面白いね。しかも人の役に立つのだからやろうよ」という気軽な発想で動いている。だから決して大金を注ぎ込まない。自分たちの持っている経験と知識と小遣いしか投入しない。自然と親しんで仕事をするので、むやみに動力は使わない。きわめて原始的な作業を得意としている。とはいえ、本来ならもっと機械を使ってやれば楽に確実に出来るのになあと思うことは度々ある。それを押さえて人が持っている本来の力だけでやることに意義を感じている。とまあ、強がっている。

 映画『おくりびと』の脚本を書いた人へのインタビューをテレビでチラッと見たが、その人のお父さんが「人間はいつも決断している。決断した結果、今は不幸かも知れないが、それは次の幸せのためのものだ」と言っていたそうだ。言葉は違っているかも知れないが、私はそんな風に受け止めた。そう、いいこと言うね。私と同じ考えの人だと思って聞いた。

 人は何も決めていないように見えるけれど、いつも決めている。トイレに行くとかいうことも自然現象だけれど、ここで行こうと自分で決めている。行かないとかやらないとかも自分が決めたことだ。決めた結果が現在である。今、こうしてあるのは自分が決めた結果の積み重ねだ。だから、今は最高!今日は最高である。明日はもっと素敵な日になるはずだ。もし、今、ちょっと悲しいなら、明日のために手直しすればいい。自分の力ではどうにもならないことはいくらでもある。雨が降る。風が吹く。人が亡くなる。どうしようもないことにこだわるより、自分の選択を考える、私はそう思っている。
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太宰治にはなれない

2009年12月14日 20時41分16秒 | Weblog
 太宰治はどういう人だったのだろう。私の父と同じ年の生まれなので、なんとなく父の姿から太宰治を想像しようとしてしまう。太宰の写真を見ると、いかにも神経質そうな顔をしている。父は祖母に言わせると「役者にしたいような色白の面長」だったけれど、160センチに満たなかったと思う。太宰は同じ色白でも170センチを越す長身だったから、それだけでも女性にはもてたであろう。いかにも知識がありそうで、それでいながら見せびらかすそぶりはなく、声もきっと優しい響きであったに違いない。

 私は『人間失格』から入ってしまったので、人を斜めで見る孤独な人というイメージが強かったけれど、生涯学習講座で終戦後の5つの短編を中心にした太宰作品の解説を聞いて、太宰が喜劇的な作品を読者に提供しようとしたことがよくわかった。機知に富んだ軽妙な筆運びは実にうまい。そして彼は、家庭とか道徳とか、人々が大切に思うものに、おそらくそれ以上に価値を置いていたのだと思う。その価値あるものに、しかし、現実の自分は重苦しさを感じ逃げ出そうとしている。

 理想あるいは規範を大事にしなくてはならないとわかっているのに、現実は重苦しくて仕方がない。その乖離を小説の種に書いている。書いていけば行くほど、ますます泥沼にはまり込んでいくといった具合である。自殺する1ヶ月前、作家なら得意になってもいい雑誌『世界』に発表された『桜桃』は、「子供より親が大事、と思いたい」で始まり、最後は「子供よりも親が大事」と言い切る形で終わっている。これは小説の技法の面白さではあるが、それだけではないような気がする。

 太宰が山崎富栄さんと自殺した2ヵ月後に発表された『家庭の幸福』は、書き出しが「“官僚が悪い”という言葉は」である。今日の時勢にも通用するような問題を取り上げているように見えるけれど、それは単なる素材でしかない。この作品の最後が「曰く、家庭の幸福は諸悪の本」で結ばれていることからも分るように、『桜桃』と同じ結論を持ち出してきている。しかもその最後の何行か前のところには、「その女は、その夜半に玉川上水に飛び込む。新聞の都下版の片隅に小さく出る」とまで書いている。

 太宰は一見すると計画性のない、その場その場で適当なことをしているように見えるけれど、私は逆に思えてならない。家庭がありながら、子煩悩な父親でありながら、妻を愛し、子どもたちや自分にかかわりのある人々を大切に思っていたにもかかわらず、そうでない自分がいる。いや彼は、普通の人ならその秩序の中で我慢し諦めるのに、愛と欲の生暖かさにおぼれていく、制御できない自分にどこかで区切りをつけなくてはと思っていたのだ。山崎富栄さんに1年も前から「一緒に死のう」と言ってきたのだから、きわめて計画的な人なのだ。

 高校生の頃は、『人間失格』を読んだことで、いわゆる“ぶっていた”に過ぎなかった。この歳になってみると、太宰治にはなれないとよくわかる。
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自然エネルギーへの切り替え

2009年12月13日 22時01分20秒 | Weblog
 高校の時の友だちに会うことが目的だったので、『地球温暖化を防止するために』と題するセミナーに強い関心があったわけではなかった。しかし、参加してよかったと思っている。それにしても私たちの時代なら、若者たちが大勢集まって体制批判が熱く叫ばれたものだが、若い人は2人しかいなかった。参加者のほとんどが50代60代の年寄りで、未来の心細さがここに表れてきているように思った。

 講師を務めたのは、日本環境学会会長で自然エネルギー市民の会代表の和田武さん。和田さんは産業革命以後、地球温暖化がいかに急激に進んでいるかを、写真やグラフで説明していった。このまま温暖化が進めば、シベリヤの永久凍土が解凍を早め、あるいは海水温度が上がっていくと、押さえられているメタンガスが噴出してくる。「そうなってはもう終わりです。手の打ちようがない」と言う。2000年から2005年の世界のCO2排出量は年間264億トンで、そのうちの114億トンが自然界に吸収されているそうだ。

 そこで和田さんの結論は、残りの150億トンを無くすことだと言う。どうやって無くすのか?CO2排出量の約80%は産業界が占めている。家庭でどんなに省エネに取り組んでも20%の努力に過ぎない。そのエネルギー供給の70%が石油と石炭で、日本は原子力発電へシフトしようとしているが、欧米では原子力発電は危険が大きすぎると減らす方向へ動いている。原子力発電をやめて、自然エネルギーへ切り替えるべきだというのである。

 自然エネルギーの代表的なものは、太陽光発電、風力発電、地熱発電、海流発電がある。和田さんは地域住民が一体となって、風力発電や太陽光発電に取り組んでいるドイツやデンマークの例を挙げ、市民・地域が主導する再生可能エネルギー普及は地域社会を破壊せず、豊かにすると力説する。「原発拡大は危険増大と市民間の亀裂をもたらすが、市民参加による再生可能エネルギー普及は、民主主義の発展、地方の自立と活性化を生み出し、平和で持続可能な社会の構築につながる」と述べていた。

 太陽光発電では装置の耐久性やコストが、風力発電では低周波や風の流れという新たな公害、地熱発電や海流発電でもそのために起きる2次的な問題など、絶対にこれならよいというものはないように私は思っていたが、和田さんに言わせれば、だから市民が取り組むことで問題の解決につながっていくのだそうだ。企業が行なえば、利益が優先されるけれど、市民が取り組めば、安全と納得が保障されると言うのだ。

 こんなことは私の夢でしかないけれど、エネルギーも上水も下水も、できれば小さな地域社会で生み出し、使い、処理する方がいいと思っている。たとえば、エネルギーにしても地域社会で太陽光や風力で発電する。だからダムの必要な水力発電や火力発電ましてや原子力発電などはいらない。そうすれば長い送電線も不要だ。どれくらいの単位が一番効率の良いものか分らないが、これまでは大きい方が効率的だと思われてきたけれど、そうではない社会へ切り替わる時が来ている。そんな気がしてならない。
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今日は何が食べられるかな?

2009年12月12日 17時53分32秒 | Weblog
 今日は久しぶりに、我が家で誕生日会を行ないます。会場作りは私の係りで、いつもならうまく段取りができなくなってきて、「本当にあなたは勝手なのだから」と、何が何だかわからないうちに怒られているところなのですが、今日は昼から、高校からの友だちが『地球温暖化を防止するために』と題する講演会を開くと案内を送ってきたので、ガミガミ言われないうちに会場作りを仕上げてしまいました。

 12月の誕生日会はこのところ、1泊旅行が多かったけれど、誕生日の人の家族にご不幸があったので、旅行を取りやめ、いつもどおりの2品持ち寄りのホームパーティーとなったのです。それぞれが腕を振るって持ち寄る品はバラエティーに富んでいて楽しみです。自分の家の料理となると意外に同じようなものが並んでしまうけれど、なぜかヨソの人の作るものは美味しい。「隣の芝生」現象なのだろうけれど、だからたまには今日のように、それぞれの家庭料理を持ち寄って、お酒を飲みながらワイワイやるのは本当に楽しい。

 何時だったか新聞の悩み事相談で、妹が「兄がかわいそうだ」と投書を読みました。兄はよく働く人で、苦労に苦労を重ねて事業を始め、大きくしたのに亡くなってしまいました。夫婦仲はよくなくて、義姉は体調が悪いと通夜にも来ません。義姉の兄に当たる人が兄の財産を管理してしまい、形見分けすらもらえません。これでは兄がかわいそうだといった内容でした。回答者は「お義姉さんもお兄さんも苦労されたのでしょう。あなたはお兄さんがかわいそうと言うけれど、夫婦仲が悪かったならお義姉さんも不幸だったのです」と答えていました。

 人はどうしても一方からの見方になってしまいます。この妹は兄が亡くなったことで悲しみ、それに加えて、形見分けすらもらえなかったことで、義姉とその血筋の人たちに憎しみを抱いているようです。けれども義姉は想像以上の辛苦を舐めてきたかもしれない。兄の財産づくりは義姉のおかげなのかもしれない。本当のことは分らないけれど、妹には兄は良くて義姉は悪いとしか見ることが出来ないのは、兄の財産への欲があるからでしょう。

 作家の車谷長吉さんはこんなことを書いました。「私がいつも思うことは、人間としてこの世に生まれてきたのは不幸なことだな、ということです。世のほとんどの人はそう自覚していませんが、実際に世の中を横から見たら、幸福な人は極めて少ないと思います。何一つ不足・不幸がないように見える人でも、一歩内側に招き入れられると、不幸を黙って耐えている人がたくさんいます。そのたびに、私は深く驚き、黙って耐えているその人に、深い敬意を覚えます」。

 車谷さんが言うほど、不幸な人ばかりだとは思いませんが、この世に生まれてきたことは不幸なことかもしれません。それでも私たちは生きていますし、生きていることは不幸もあるけれども喜びも大きいからだと思います。そんなわけで、馬鹿話で大いに笑い、美味しいご馳走に待っている時間がやってきます。今日は何が食べられるのかな?楽しみです。
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言葉に責任を持つ

2009年12月11日 22時41分18秒 | Weblog
 オバマ米大統領にノーベルは平和賞のメダルと賞金1億2千万円が贈られた。アメリカのCNNテレビの世論調査では、「受賞に値する」と答えた人は19%に過ぎないそうだ。確かに「核兵器のない世界を目指す」と演説しただけで、具体的な提案も行動もしていないのだから、こんな厳しい結果であっても不思議ではない。私は世界の警察を自称する国家の大統領が「核兵器のない世界を目指す」と演説したこと事態は評価している。

 けれども、オバマ大統領を平和主義者とは思っていない。オバマ大統領は受賞演説で「かつてこの場でキング牧師は“暴力は決して永続する平和をもたらさない”と語ったが、私は自国を守る国家元首として、米国民への脅威を何もせず見ているわけにはいかない。戦争は平和を保つ上で、役割を持っている。その戦争はいかに正当化されようと間違いなく人間に悲劇をもたらすことも真実だが、人道的見地からの武力の行使は正当化されうると信じている」と述べている。これはただ、イラクやアフガニスタンへの派兵を正当化しているに過ぎない。

 「抑圧が常に存在し続けることを認めながらも、正義を追求することはできる。退廃が御しがたいことを認めながらも、尊厳を追求することができる。戦争があり続けることを理解しつつ、平和を追求することができる。我々にはそれができる。なぜなら、それこそが人間の進歩の物語であるからだ。それこそが、全世界の希望であるからだ」と演説の最後に結んでいる。CAN〈できる〉とオバマ流演説の聞かせどころだ。しかし今、世界の人々は、「だから、あなたはどうするのか?」と問うているのだ。授賞式の会場周辺では数千人の人々が抗議行動を計画しているとも報道されていた。

 英語の苦手な私でもオバマ米大統領の演説はうまいと思うし、聴きやすいとも感じる。けれども、大統領になる前あるいは就任式の演説に比べるとなぜか色あせた感じがして、手放しで受け入れられない。「核のない世界」を口にするその一方で、テロとの戦いのため(?)にアフガン派兵を増員する考えが、私には理解できない。イラクでは爆発事件が起きているけれど、石油の採掘権を手に入れたので撤退すると言うのだろうか。それでは派兵される兵士はどこにどんな希望が持てるのだろう。

 今日は大和塾の納会だった。いろいろ出た話の中で、戦争のことが話題になった時、あれだけ玉砕と叫びながら、どうして叫んだ本人は「いや、自分は戦争はしたくなかった」などと言えたのだろうか、不思議でならないと言う人がいた。民主党の小沢一郎幹事長は、西洋のキリスト教は排他的だけれど仏教は寛容だというようなことを言っていたけれど、どうも日本人は他人にも自分にも甘すぎるようだ。自分の「言葉に責任を持つ」厳しさが私たちには必要だ。

 そんなに意固地にならなくてもとか、スジを通せばカドが立つとか、まあーるく、まあーるく治めようとしてしまうから、本質が見えなくなってしまう。けれども、我を張れば嫌われる。困ったものだ。
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今朝の朝日新聞と中日新聞

2009年12月10日 22時38分50秒 | Weblog
 今日の朝日新聞1面の書籍広告欄を見ていて、ドキッとした。「学校給食が子どもを病気にする!」の副題が付いた『変な給食』と題する本の広告だ。ここには「先生、ふつうのご飯が食べたいです! 成人病の低年齢化、むし歯、アレルギー、肥満‥‥すぐキレる! あなたの子どもが、何を食べさせられているか知っていますか? ◎総勢73点!全国の変な給食を写真で紹介」とあった。

 そこまでは、学校給食は食育とまで言われているのだから、その現実を取り上げるのは当然だと思った。私がドキッとしたのはその下の段で展開されているコピーである。「雑煮に食パン?黒糖パンに味噌汁?酢豚にジャムトースト?ドーナツにラーメン?」とあり、「学校給食は問題だらけ。食育も食材自給率も教育問題も、給食を変えなければ始まらない!」。おそらく、この組み合わせは悪い例と著者は指摘しているのだろう。

 私は、皆さん方が言うところの「アメリカによるパン食」で育ったので、パンは好きだ。もちろん米飯も好きで、本当に美味しい白米のご飯の時は子どもだったけれど、おかずなどなくても食べられた。けれどパンも美味しい。私はパンを食べながら刺身も食べる。雑煮とパンも、黒糖パンに味噌汁も、酢豚にジャムトーストも、全く平気だ。ラーメンは好物ではないけれど、ドーナツと一緒でも違和感はない。著者が栄養学的にあるいは医学的に、この組み合わせはよくないという指摘であれば、気をつけなくてはいけないかもしれないが、単に「ヘンだ」と言うのであれば、人の好みはそれぞれに違うよと言いたい。

 日本人の食べ物はかなりバラエティーに富んでいる。食べ物については世界一豊かな国だろう。だから当然ながら食べ方も様々だと思う。刺身は日本酒とは限らない。ビールだけでなくワインだっていい。ステーキはビールやワインに合うが、日本酒だっていい。白米とビーフシチューだって合う。気持ち悪いけれど、食べ物の好みは様々で、味噌汁に牛乳を入れて飲む人もいるし、ぜんざいとお酒を一緒に飲む人もいる。

 さてそこにいくと、比較になることではないけれど、今朝の中日新聞1面の『中日春秋』はさすがにいいことを書くと感心した。「前略 バラク・オバマ様 日本では“あの人は口だけだ”と言えば立派な悪口です」で始まる米大統領への手紙である。その内容は、今晩オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞することにかこつけ、「あなただって“口だけ”と誹られたくはない。当然、言葉に見合う行動を起こすべく今、必死でしょう。普天間基地移転問題での鳩山首相の態度も同じだと思いませんか。かつての日米合意を“見直す”と約した政権である以上、どんな道かは措き、少しでも言葉に行動を近づけようと必死なのは確かです。(略)大統領、とにかく日本は選挙で政権が交代したのです。チェンジの意味は‥」とあった。

 政権交代したにもかかわらず、前政権の遺物に縛られて思い切ったことができていないことに少々苛立ちを覚えていたが、何かスッキリさせてくれる文章だった。
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