友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人は2度反抗期を迎える

2015年04月19日 22時06分34秒 | Weblog

 とうとうチューリップは終ってしまった。カミさんの弟妹や叔母がチューリップを見に来てくれた時も雨降りだった。部屋から花を眺めて話していた時、カミさんの従弟が「人は2度反抗期を迎えますね」と、面白いことを言う。「それはどういうこと?」と聞くと、「子どもの頃、親に反抗しますよね。あれって、素直になれず、頑固ですよね。年寄りも素直になれず、頑固なのは反抗期なのではないですか」。ユニークな子だったが、そういっても50歳になるが、なかなか視点が変わっている。

 頑なに自己主張して親に反抗する。そして今、親は頑固に息子に抵抗するようだ。頑なであるということはこだわる何かがあるということ。子どもは子どもなりに、年寄りは年寄りなりに、譲れないものがある訳だから、それを認めた方が良いのかも知れない。そもそも親が「いい子」というのは、親にとって都合のいいということ。成績がいいとか行儀がいいとか、それも親の見栄の部分が大きい。子どもがどうあれば幸せになれるのか、そんなことは実は分からない。だから、まずこうであれば幸せになれるだろうという願いに過ぎない。

 頑固な人はそれだけ何かこだわるものを持っている。そういう人は我武者羅に生きるし、生き方も個性的なのかも知れない。名を成す人はそういう人だろう。平凡に生きていくことが悪い訳ではないし、どんなに頑張って生きている人でも傍から見れば平凡な人生なのかも知れない。そう考えると、自分が満足しているかであり、自分が幸せに思っているかが大事なことである。けれど、だからといって、押し付けられたのでは迷惑この上ないだろう。

 フェイスブックで「看護の名言」に出会ったが、どれもこれも納得できる。当たり前のことだから心に素直に入ってくる。しかし、実際に行なっているのかとなれば難しい。振り回されず、振り回さず、自分の生き方を大事にするが人の生き方も尊重し、相手を思いやり、相手に求めすぎず、愛して欲しいと願い、人はどこまでも無理難題を追い求めて生きているようだ。やっぱり、それが人というもので、それが自分というもののようだ。

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落語は凄い

2015年04月18日 18時32分37秒 | Weblog

 大いに笑った。笑うとどうして気持ちがよくなるのだろう。今日は大和塾の第42回市民講座。講師を務めてくれたのは上方落語家の桂蝶六さん。4月末には、三代目桂花團治を襲名する噺家である。さすがに10代から落語を続け、大阪青山大学の客員教授の肩書きがただの看板ではないことがよく分かった。話芸も優れているけれど、それだけでは人の心に届かないことも知った。

 落語には失敗する人が必ず出てくる。それを聞いて人は可笑しくって笑う。テレビのバラエティー番組も人を笑わせるけれど、私は笑えない。バラエティーの笑いには毒がある。たいていの場合、失敗させてその失態をみんなで笑う。あるいは顔が悪いとか、背が低いとか、ブスだとか、身体の特徴を笑いものにする。私には「いじめ」としか思えないが、笑い飛ばして「みんなですれば恐くない」ところがある。

 落語では失敗すると、「何をしているんだ。馬鹿か!」とは怒らないという。たいていは「アホかいな」で終ってしまうそうだ。くどくどと叱り飛ばしては人情味がなくなるからだと蝶六さんは説明する。蝶六さんが師匠から教えてもらったのは、人情の機微をしっかり伝えることだという。アホな亭主だけれど、「どうしてこんな人と一緒になっちまったんだろうねぇ」とつぶやくだけで、亭主思いの妻になる。それをテレビドラマのセリフでやったら、離婚しか道はなくなる。

 蝶六さんは狂言を学び、日本の古典芸能にも精通している。浄瑠璃好きの男と三味線好きの男の話を最後に演じてくれたけれど、それはもう至芸と言ってもよいものだった。また、現代の落語も披露し、被災地で避難してきた人たちを前に行なった落語『公社のぜんざい』は受けたという。役所がいかに書類ばかりを要求し、実際の援助が後回しになってしまうかを皮肉った話だけれど、「役所はねえー」とみんなが体験しているからこそ笑えるという。

 落語は江戸時代に完成した話芸だけれど、決してエライ人は出てこない。出てくるのはそこらにいる人ばかりだ。大いに笑わせて、そしてオチがあることから落語と言われた。笑いながらも泣かせる落語もあるし、世相を皮肉った落語もある。人々も落語を聞くことでスッキリした気分を味合った。やっぱり、落語は凄い。蝶六さん、今日がどうもありがとうございました。

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親は誰もが子の幸せを思う

2015年04月15日 18時14分28秒 | Weblog

 「もしあの子があなたをぶったら、ぶち返しなさい。わたしが許す。自分のことは自分で守るの。この家には臆病者を置いておく場所はないのだから」と、母親に言われた4歳の女の子は肩を怒らせて出て行った。そして「もう男の子とも遊べるよ」と勝ち誇った顔で帰ってきた。この少女こそ、アメリカの初の女性大統領を目指すヒラリー・クリントンである。そんな記事を新聞で読んだ。

 「母は、少年が幼稚園に行って恥をかくことのないよう、団体生活で必要な生活習慣や能力をきっちり身に付けさせようと、排尿、排便、食事、着替え、玩具の後片付け等を早め早めに厳しくしつけた。両親の養育方針は、人に迷惑を掛けず人から後ろ指を指されないこと、人に優しく、特に小さな子には譲り、苛めないこと、しかし、自分の意見をはっきり言い、苛められたらやり返すこと、親の言うことをよく聞き、親に逆らわず従順であること等であり、長男をしつければ弟達は自然と見習うというものであった」。

 この文章は、神戸で起きた連続児童殺傷事件で家庭裁判所が下した少年審判決定の<非行にいたる経緯>にある。ヒラリーの母親は娘が外で遊びたがらないことから、苛められていると直感し、「やり返しなさい」と命じた。実際にヒラリーがやり返したかは分からないが、彼女を勇気付けたことは確かだろう。少年の母親も同じことを言っている。幼い子どもを持つ母親なら、日本の親なら、誰でもが持つ平均的な考えだ。そうすることが子どもにとって幸せになると信じているから。

 私の母も同じようなことを言っていた。けれど、私が知る母は、見ず知らずの人にお金をあげたり、困っている人がいると助けてしまう義侠心の持ち主だった。私は母のような強さを持たないおとなしい子で、通知表にはいつも「積極性が欲しい」と記されていた。自分でも小学校の高学年になるまでは臆病者だったと思う。神戸の少年は母親に厳しく育てられ、少年が「今やろうと思ったところ」と言い返すと、「やることをやってから言いなさい」と押さえ込まれ、抵抗できなかった。

 やがて少年は自分の空想の世界に入り込んでいった。小学校6年の時、先生の前で、「何をするか分からん。このままでは人を殺してしまいそうや」と泣きじゃくったことがあるという。少年は先生に助けを求めたのだろう。そして実際に、連続殺人へと向かってしまった。親なら皆、子どもの幸せを考えるのに、厳しさが逆になり、放任が別世界を作らせた。私の子育ての基本は子どもを信じ、うるさく言わない。私の子だから、いつか分かる。決めるのは君たちと言ってきた。

 明日と明後日は旅行のためブログを休みます。

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夫婦ケンカ

2015年04月14日 18時06分21秒 | Weblog

 今朝のテレビで、夫婦ケンカの末に妻が包丁で夫を傷つけたと報じていた。ことの次第は夫がトイレから出てきたが、「手を洗わないで子どもの頭を撫でた」と怒り、トイレに入ったところ臭かったので、「これでは子どもが使えない」と夫を怒鳴りつけたことにあった。テレビのキャスターは「夫婦ケンカがニュースになるのもネ」と呆れていた。この夫婦はケンカが絶えなくて、怒鳴り合う声は道路を挟んだ向かいまで聞こえたという。

 私が雑誌の編集の手伝いをしていた時、30代のお母さんたちの手作りの冊子に出会った。そこにトイレの使い方についてのやり取りが載っていた。結論から言えば、多数の主婦が「夫には便座に座って用を足してもらっている」と言う。「男が立ってすると、周りに飛び散って汚れる」ので、「掃除するのも大変」という理由だった。えっ、若い男たちは便座に座って女性のように用足しをするのかと驚いた。その方が掃除も簡単で合理的かも知れないと思いながら、私は出来ずいる。

 恋愛している時は見えなかったことも、一緒に暮らせば見えてしまう。キリスト教徒の内村鑑三も「家庭は幸福なところではなくて、忍耐のところである」と言っている。いつも優しく包んでくれた夫も、ゲップはするしオナラもする。歯磨きしてもブラシの始末もしない。美しい妻もイビキはかくし整理整頓は出来ない。自分と相手も好みは違うし価値観も違う。こうあって欲しいと思うものは相互にあり、一致することはない。相手にばかり求めれば当然どちらかが耐え切れなくなる。

 妻の傷害事件について専門家は「産後クライシス」と言う。いわゆる「産後ノイローゼ」である。子どもが生まれて家庭はもっと幸せになるはずなのに、子育ては思ったようにはいかない。そのイライラが「うまくいかないのは夫が悪い。もっと協力してくれていい」と夫へ八つ当たりする。夫も妻が子どもに愛情を注ぎ、放って置かれた気分になる。子どもが3歳くらいになるまでの時期は夫婦間が冷たくなり、営みもなくなりセックスレスになっていくという。

 求め過ぎないこと。誰でも完璧には出来ないのだから、口に出す言葉はいつも優しく。そう子どもたちに言ってきたつもりだが、どう伝わっているのかと、テレビを見て思った。我慢しているのは自分だけでなく、相手もと気付いて欲しいが‥。

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桜と日本人

2015年04月13日 19時16分56秒 | Weblog

 名古屋市内には街路樹に桜を植えた通りがいくつかある。山崎川の桜は特に有名だが、天白区には八重桜の通りもあって、今が見頃らしい。日本の桜を観に来る外国人が増えているそうだ。テレビのニュースだったが、「大人しくて自分を出さない日本人が、桜の樹の下で宴会する姿に驚きました」と語る人もいた。梅はなんとなく上品で、ドンチャン騒ぎをする雰囲気ではないが、桜の下では騒ぎたくなるのはどうしてだろう。

 咲く時期の違いだろうか。梅は春を告げる花だけれど、桜は春そのもので暖かい。樹の大きさや花の大きさにも影響されるかも知れない。花を愛でながら飲食する例は古く中国にあった。日本の貴族はそれを日本流にアレンジして、歌をやり取りしたのだろう。桜がもてはやされたのは武士の時代になってからで、お花見の習慣は江戸時代、吉宗が奨励したと聞く。庶民の花見が落語に出てくるほどだから、大いに楽しみだっただろう。

 控えめで、道徳心に富んでいると外国人に思われていたが、別の面を見て驚いたというわけだ。私も名古屋へ出る度に驚くというか、いい気がしないことがある。「エレベーターでは歩いたり走ったりしないでください」と貼り紙があり、アナウンスもされるが、全く無視して行く人がいる。これは注意の仕方が悪い。「エレベーターはふたりずつお乗りください」と呼びかけた方がいい。

 車内では優先席があるので、私は率先して座るようにしている。そうすれば普通の席にひとりでも多くの人が座れるから。ところが優先席に若い人が座ってスマホに夢中になっていることがある。今日などはドア付近に学生たちが留まっていて中に入れない。この頃は学生鞄がない学校が多いためか、大きなスポーツバックを持っている。これを棚の上に置いてくれればいいのに、足元に置くから歩くことも出来ない。

 もうちょっと気配りがあってもいいのではと思っていた時、桜を歌った百人一首のことが気になった。平安時代のようにゆったりといかなくても、少しゆっくりしたいと思う。

   花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに  小野小町
   久方の光のどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ       紀 友則
   いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな       伊勢大輔
   もろともにあはれとも思へ山桜 花よりほかに知る人もなし      大僧正行尊

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働かなくても金が入る方法

2015年04月12日 19時51分24秒 | Weblog

 「働かなくてお金が入ってくる方法はないの?」と若い人が言う。「ない。お金はしっかり働いて得るしかない」と答えたが、働かなくても稼げる方法はある。金を貸せば利子の分だけ増える。でも、考えてみるとなぜ金を貸すと利子が得られるのだろう。

 キリストが生まれる前のユダヤでは利子を取ることは禁止されていた。借金をする人は困窮しているからで、困窮した同胞から利子を取れば追い討ちをかけることになる。貸すことができるのは豊なのだから、無利子で貸しなさいという規定であった。キリストは「金持ちが神の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言い、清貧であることを尊いとした。

 ユダヤ教が利子を禁止したのは、同じ民族の者は助け合うことを求めたからだ。ユダヤ教徒は同じユダヤ教徒同士では金を貸しても利子は取らなかったのに、異教徒にはこの規定を当てなかった。これはシェクスピアの『ヴェニスの商人』で分かる。カトリックに異議を唱えたプロテスタントは聖書に書いてないことは認めなかった。大航海時代、造船が盛んになると巨額な資金が必要となり、出資者に利益を配分するようになるが、これは聖書にはないことなので黙認された。

 イスラム教はユダヤ教と同じ神で、預言者ムハンマドの言葉を記したコーランを厳格に守っているが、人は罪を負っているとか、助け合うことを求めている点でもよく似ている。イスラムの規則には忠実で、利子を取ることは禁止している。偶像崇拝を許さないとか、生活習慣や服装などの決まりなど細かく定めているので、原則を強要すれば摩擦が起きる。イスラム原理主義が一般の人々に受け入れられるのも、神の前では全ての人が平等であるのに現実がそうなっていないからだろう。

 中国政府の提唱で、アジア投資銀行が年内に誕生する。ヨーロッパからはイギリス、ドイツ、フランスなどが、中東諸国もインドやロシアも韓国も参加する巨大な国際金融機関になる。このニュースを聞いて、先日観た映画『ハゲタカ』を思い出した。いよいよ中国が世界の金融に乗り出す。金を集め投資して利息を稼ぐ。宗教に縛られることのない商売上手な中国は、アメリカを潰すかも知れない。

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子どもの事故は親の責任!?

2015年04月11日 18時30分29秒 | Weblog

 風が強くて、ルーフバルコニーに出られない。チューリップは強い風に煽られて可哀相なくらい揺れている。せっかく友だち夫婦がチューリップを見に来てくれたのに、部屋の中から眺めてもらうしかない。明日はマンションの友だちが見に来てくれる。「どうか風よ、止んでくれ」と祈るばかりだ。

 自然相手では仕方がない。地上30メートルのバルコニーで花を育てることが無理なのかも知れない。そう思いながらも、せっかくの天上の空間に花がないのは寂しすぎる。花たちもせっかく咲いたのに誰にも見られずに終ってしまうのでは寂しいだろう。バルコニーで花を育て、眺めて満足している私は、自分を基準に考えている。

 先日、最高裁は、子どもが起こした事故の賠償について、「親は危険な行為と予測できない限り、賠償責任を負わない」と新しい判断を示した。これまで子どもが起こした事故の訴訟では、ほぼ無条件で親の賠償責任が認められてきた。卒業生がフェイスブックにこんなことを書いていた。「責められるべきは、柵が低かった学校でしょ。それにゴールの位置を、道路と反対の方にするぐらいはできただろう」。

 確かに学校の柵はどこも低いし、ゴールはどこも道路に向いている。こういうこともあるから学校は、ボールが飛び出さないように柵を高くすることになるだろう。バイクを運転していた85歳の男性が転倒し翌年に亡くなったことで、遺族が子どもの両親に5千万円の賠償を求めた。遺族の方には気の毒な事故だけれど、賠償の金額はその人が生きていれば得るだろう金額と遺族の悲しみを加えたものだとしても、余りに高額ではないのか。

 家の大黒柱が亡くなり、明日から生活に困る人たちもいる。事故を起こしたのが子どもなら親はその責任を免れない。この事故の父親の言葉が新聞に載っていた。「息子はずっと罪の意識を持ちながら、思春期、青春期を歩いて来た。(略)親のしつけ、教育がなっていないと断じられたことは大変ショックで、自暴自棄になりかけた」と。

 どんな事故でも、被害者・加害者ともにその後の人生に大きく影響する。立場が違えば利害も違う。自然に対して身勝手なことを考える私はまだ器が小さい。なすがままに、なるがままに、それでいい、そう思うにはまだまだ修行が足りない。

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戦争体験の語り人が亡くなっていく

2015年04月10日 17時49分28秒 | Weblog

 戦後70年に合わせて9日、天皇、皇后両陛下は太平洋の激戦地パラオを訪問し、ペリリュー島の慰霊碑に白菊の花束を供えられた。ペリリュー島での戦闘は映画にもなったが、武力で劣る日本の守備隊はほぼ全滅だった。わずかに生き残った人の話が中日新聞に載っていた。

 艦砲射撃を終えたアメリカ軍がいよいよ上陸してくる。「今から戦車攻撃に出る。希望者は挙手しろ。3名だ」と中隊長が命じる。地雷を抱えて戦車に体当たりするのだ。2名が志願する。どうしよう、土田さんが悩んでいると、みんなから「お坊さん」とからかわれていた弱々しい男が、「死ぬ時は潔く死ねと両親に言われました」と手を挙げた。

 終戦も知らず、土田さんらは洞窟を渡り歩いた。「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられてきたから、捕虜になることは許されない。投降は脱走を意味する。終戦から1年8ヶ月、土田さんはアメリカ軍に捕らえられ、帰国することが出来た。「3日に1度は洞窟の夢を見る。戦争は絶対にいかん。戦争のない国を」と土田さんがテレビで語っていた。

 語り部となって、「戦争をしない平和な国」を訴える人の死を新聞で知った。私たちが犬山の桜を観に出かけた6日、板津忠正さんが亡くなった。板津さんは名古屋市の出身で名古屋市役所に勤めたが、自宅は犬山市だ。昨年秋、私は初めて知覧特攻平和館を訪ねたが、その初代館長を務めたのが板津さんだった。板津さんは陸軍特別攻撃隊の隊員で、攻撃に参加したけれど、エンジントラブルで引き返し生き残った。

 「2度と戦争をしてはならない」と板津さんは語っていた。沖縄のひめゆり学徒隊で生き残った女性たちも戦争体験を語ってきたが、今年で最後になるという。語り継ぐ人がいなくなっていくのは寂しいけれど仕方ないこと。生きている私たちが戦争を想像し、決して起こしてはならないと決意することで、亡くなった人々の思いを受け継いでいくしかない。

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室生犀星の詩

2015年04月09日 18時06分13秒 | Weblog

 高校生の時、いつかこの家を出て行くと漠然と思っていたけれど、生まれ故郷を去ることがどんなことなのかは考えたこともなかった。室生犀星の詩「ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたうもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」。まだ、そんな実感はなかった。大学生になって、中学・高校と仲良しだった4人で居酒屋へ出かけた時の帰りなど、この詩を口にしたが、故郷を離れたのは私だけだった。

 私は3男だから当然家を出ると思っていた。高校生の時に両親を亡くし、大学は兄が入学金を用意してくれた。授業料免除と奨学金を受け、家庭教師をして小遣いはあったから、友だちに誘われても飲み代は充分だった。けれど、高校生だった妹の小遣いまで思いが回らなくて、今思うと少しでも渡してやれたのにと悔やむ。居酒屋の女給さんたちは学生の私たちには親切で、時には注文しない料理やビールが届いたこともある。

 私たちは戦争を知らないのに、軍歌や戦前に流行した「会いたさ見たさで」はじまる『籠の鳥』、「俺は河原の枯れすすき」の『船頭小唄』をよく歌った。『デカンショ節』もよく歌った。「デカンショはデカルト、カント、ショーペンハウエルの略だ」と先輩から教えられたが、元々は兵庫県篠山地方の民謡だったとは知らなかった。デカンショは出稼ぎに行くことと知って、歌の意味が分かった。

 与謝野鉄幹の作詞『人を恋うる歌』も大声で歌った。「妻をめとらば才たけて みめ麗しく情けある 友を選ばば書を読みて 六分の侠気四分の熱 恋の命をたずぬれば 名を惜しむかな男ゆえ 友の情けをたずぬれば 義のあるところ火をも踏む」と、互いの顔を指差して確認し合った。血気盛んな時だったし、純粋な気持ちと多感な気持ちがぶつかり合っていた。

 室生犀星はそんな青春時代を思い出させる詩人だが、犀星にもこんな詩『四十路』があった。「逢いたい人のあれども 逢いたい人は四十路すぎ わがそのかみ知る人はみな四十路すぎ」。老いても恋していたからこそ人生の機微を模索できたのではないだろうか。73歳で亡くなったが、自分の出生については「夏の日に 匹婦の腹に うまれけり」と卑下している。人は誰も悲しいものを背負っている。

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ヘンなのは天候ばかりではない

2015年04月08日 18時09分21秒 | Weblog

  

 朝のテレビニュースは「東京で雪が降っている」と報じていた。この辺りも朝のうちは肌寒かったのに、午後からは陽が差してきて一気に暑くなった。おかげで、チューリップは閉じていた花弁を開いてしまう。皆さんに来てもらう前に花が散ってしまわないかと心配になる。ヘンなのは天候ばかりではない。群馬県の高崎で、女性の足に希硫酸をかける事件があった。捕まった容疑者は30歳の男性だった。

 昨年、自分の体液というから精液のことだと思うけれど、体液を入れた空き缶を女性のカバンに入れた同姓同名の男がいることが話題になっている。逮捕された男は大学教授の息子で、頭がよくて運動が出来てギターも弾ける、みんなに無いものをいっぱい持っていた。東大に進むだろうと言われたが、東大に入学できなかった。それでも立教大そして早稲田大にも入学できたのだから高い能力の持ち主である。

 もし、彼が犯人であったなら、彼が体液もかけた人物なら、いったい何が犯行に駆り立てたのだろう。警察や消防に電話して出動させたという大学生もいたが、子どもでもしないような行為をなぜしてしまうのだろう。NHK大河ドラマ『花燃ゆ』は、幕府がアメリカと通商条約を結んだことを知った吉田松蔭が「老中、間部詮勝を討つべし」と塾生に説いていた。「志は何のためにあるのか」とも言っていた。

 10代、20代の頃は、どこでもいつの時代も若者は血気に逸る。この場面を見ていたら、イスラム国の連中も、2・26事件の青年将校も、特攻隊の兵士も、みんなこうだったのだろう。討つとは暗殺を実行すること、今で言えばテロを行なうこと。そんなことで世の中は変わらない。松蔭は「大義のため」と言い切るが、大義のためなら何をしてもよいのか。

 戦後、国会を取り巻いて何十万の人々がデモ行進した。全国でも560万人がストライキに参加した。続く70年は学生が中心となって過激な闘争が展開された。あれから45年、学生デモは皆無となった。なのに、「未来に何の希望もない」とはどういうことなのだろう。何事もないからヘンな事件が起きるのだろうか。それでもやっぱり、歴史は若い人たちによって作られていく。

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