風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

政局解散総選挙・続

2017-09-23 11:31:37 | 時事放談
 前回ブログを補足しようと思うが、先ずは細谷雄一氏の著書「安保論争」の前書きから引用する。

(引用)
 「国民的論議を抜きにして法案を押し通すのは許せない」 朝日新聞はその紙面の中で、法案に反対する人々の運動について、「草の根の異議広がる」と題して、その怒りの様子を伝えている。(中略) それだけではない。朝日新聞では「数の力で押し切る政治」と題する社説の中で、法案への強い異議を説いている。そこでは「『数の優位』を頼んで押しまくっている」政府を批判して、「議会政治の基本である『対話の精神』を欠いているといわざるをえない」と非難する。そして、「このままでは、国会や国会議員の権威が落ち、政治に対する不信感も広がるだろう。憂慮すべき事態だ」と論じて、法案の審議が十分ではなかったことを批判している。(中略) 法案成立についての主要紙の評価は、大きく二つに分かれた。朝日新聞の紙面ではその様子を伝えており、「東京の主要各紙のうち、読売新聞と産経新聞」が「成立を積極的に評価した」と述べ、他方で「毎日新聞と朝日新聞は、国会の審議のありかた全体に疑問を投げかけた」と報じている。また、「毎日は『憲法を守るべき立場にある国会が、国民の意思を問うことなく、どこまでも憲法解釈を拡大するというのでは、議会制民主主義の根幹が揺らぐ』と厳しい目を注いだ」と、その社説を紹介している。(後略)
(引用おわり)

 ここまで読んで、著書のタイトルに示される通り、ほんの2年前の懐かしい議論かと思いきや、実は25年前の1992年6月15日に成立した、国連平和維持活動協力法、所謂PKO協力法に関するものだと明かされて、ちょっとぶったまげてしまった。細谷氏は皮肉たっぷりに以下のように続ける。

(引用)
 その後、PKO協力法に基づいた自衛隊の海外派遣は、国際社会で高い評価を受けるとともに、国民の間でも理解が浸透していった。他方で、リベラル系のメディアが論じるようなかたちで、憲法解釈の「変更」による自衛隊の海外での活動が戦後の平和主義の理念を壊すことはなかったし、国会での「強行採決」が民主主義を破壊することもなかった。むしろ、自衛隊のPKO参加によって、よりいっそう肯定的なかたちで日本の平和主義の理念が世界に伝わることになった。災害後の復興支援活動、内戦後の平和構築活動や人道支援活動などは、国際社会において日本の平和国家としてのイメージを定着させることを手伝った。
(引用おわり)

 それでも細谷氏は学者だから、冷静に状況を分析し、同様の批判や懸念が、1999年に周辺事態法が成立したときにも、2004年にイラク南部サマワに陸上自衛隊が派遣され、有事関連法が成立したときにも、聞こえてきたことを振り返り、「いったい何を恐れ、何に懸念し、何を止めようとしているのか」と問題提起して、論を進める。
 私は学者じゃないから、つい、メディアの主張は変わらない(見識がない・・・とまでは言わないが)とか、与党・自民党の強引と相手に思わせてしまう手法(あるいはメディアが言うに事欠いて強引と一方的に非難しているだけかも知れない)は変わらないなあ・・・などと下衆な感想を抱く。前回ブログの世論調査に見た通り、「読売&産経」VS「朝日&毎日」という保革対立の構図まで変わらない(笑) そして日本人の意識は、国際社会の現実を感知することにかけてはやや時代から後れをとり(却って政治が進んでいるように見えてしまう)、時代とともに、その現実を遅まきながらも受け容れて、確実に変化するものだとも思う。細谷氏が指摘する通り、新・安保法制を論議する中で、あるいは今や、自衛隊のPKO活動に反対する人は殆どいないはずだ。昨今の朝鮮半島危機や中国を取り巻く情勢を見ると、いずれ新・安保法制も当たり前に受容されるときが来るのだろう(既に、新・安保法制を成立させておいてよかったと思っている人が多いかも知れない)。
 穿った見方をすれば(などと上段に構えるほどではないが)、国際政治をはじめとして「現実主義」と「理想主義」の両極端が対峙して(というのはE.H.カーが提起し、学問としての国際政治学が始まることになった記念すべき命題だ)、「現実主義」が暴走しないよう、「理想主義」が歯止めをかけつつ、穏健なカタチで着実に現実をなぞるように前進する(所謂三段論法のアウフヘーベン)ということだろう。世の中(とりわけナイーブな理想主義が根強い日本の社会)は漸進的なのだ。保守の人から見れば、サヨクが邪魔をしていると見えなくもない。そしてそれは、イデオロギー(と言うよりも、冷戦崩壊後の今となっては「感情」とでも呼ぶべきかも知れない)に囚われて、十年一日どころか二十五年間も、攻め方が変わっていない。
 そこに日本の社会の構造的とも言える弱点があるように思う。個別の政策において、とりわけ憲法改正や安全保障に絡む問題になると、与野党対立の政界においても言論(メディア)空間においても、イデオロギーや感情に流されて、でも、そう見せないために、政策論ではなく枝葉末節や挙句は手続論に焦点が当てられて、建設的な議論に発展しないのだ。もっと言うと、「ルールとしての憲法」違反を盾に政策変更を、ひいては現実に対処することを、容認しようとしないのだ。強引だ、立憲主義をないがしろにする、ひいては驕っているなどと非難されるばかりでなく、何やら隠している、疑惑は解明されていないと、印象操作すら横行して、結果として政権・政党支持率が無用に上下する。
 このまま解散・総選挙に流れるなら、野党やリベラル系メディアは、またぞろ、大義がない、疑惑隠しだ、敵前逃亡だと、既に言い始めていることを大合唱して、印象操作を強めていくことだろう。新たな不倫疑惑や何等かの不正・隠蔽疑惑が持ち上がるかも知れない。世論はミズモノであって、選挙もミズモノだ。これから何が起こるか知れないし、今の議席数からすれば、とりわけ「魔の二回生」など風前の灯で、自民党の議席が減るのは間違いない。それでも自民党は選挙に打って出ようとするのは、今後の状況(政局)を考えれば、それを「負け」とは思っていないということだろうか。いずれにせよ、落ち着くべきところに落ち着くわけだが、なんとなく空騒ぎが過ぎて時間とカネを浪費していると思えなくもない。選挙にシラケてしまう・・・と言うかちょっと距離を置いてしまうのは、そんなところに起因するのだろう。
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