風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

甲子園球場100年

2024-08-24 00:09:50 | スポーツ・芸能好き

 第106回全国高校野球選手権大会、夏の甲子園は、夏のオリンピックと同様、17日間の熱戦の末、京都国際が初優勝を飾って幕を閉じた。京都代表の優勝は、1956年の平安高校(当時)以来、実に68年振りだった。

 夏のオリンピックは100年振りにパリで開催されたが、その前回パリ大会の年に開場した甲子園球場が100歳になったのを記念して、この夏の大会の始球式に江川卓氏が登場した。「阪神甲子園球場開場100年の節目に際し、球場の歴史の中でも鮮烈な印象を残した選手として、始球式をお願いした」(場内アナウンスによる)ということだ。

 確かに江川(当時を振り返るときは慣例により商標として呼び捨てにさせて頂く)の印象は鮮烈だった。1973年、彼が高三になる春と夏、私は草野球に興じて甲子園を夢見る小学生で、彼の試合をテレビにかじりついて、見た。とりわけ記憶に残るのは、夏の二回戦、強豪・銚子商を相手に0-0で迎えた延長12回裏、一死満塁、フルカウントの場面だ。どしゃ降りの雨の中で投じた渾身の一球は、この日の169球目、高めに大きく外れた。実は一回戦も延長15回にもつれ込んだので、二試合目ながら実質三試合目に相当し、疲れもあったと思われる。本人曰く「ボールにはなりましたが、高校3年間のなかで最も悔いのない、最高のボールでした」。押し出しという不本意な形でサヨナラ負けを喫したのに、サバサバとした表情で甲子園を去って行く後姿を、見ているこちら側が諦め切れない思いで未練たらたら呆然と眺めていたのを、つい昨日のことのように思い出す。この日を含めて、彼の野球人生は運命の女神に翻弄された劇的なもので、彼の性格を独特なものに形作ったように思われるが、それについてはまた稿をあらためたい。

 このように表向きはあっけない幕切れだったが、水面下ではちょっと劇的なことが進行していたことが後で明らかになる。チーム事情は良くなかったらしい。一つには、春から夏にかけて基礎練習ができず、徹底的に鍛えることができないまま、あの夏を迎えていたこと。春のセンバツで、栃木の"怪物"がテレビで全国にお目見えし、4試合で60個の三振を奪って大会記録を塗り替えるなど、噂に違わぬ活躍で注目を浴びたものだから、その後、全国から招待試合に呼ばれ、週末、遠征に出ると、月曜日の授業に間に合わせるために夜行列車で栃木に戻るというようなこともあったという。もう一つには、江川を巡って報道が加熱し、チームメイトは取材攻勢に晒される江川と距離を置き、仲間を気遣う江川は孤立するなど、チーム内がぎくしゃくするようになっていたこと。夏の予選の栃木大会のチーム打率は2割4厘で、「打っても評価されないから、みんなおかしくなっていった」(捕手の小倉氏談)。最後のあの場面で、マウンドに集めたチームメイトに、江川は「真っすぐを力いっぱい投げていいか」と尋ねた。江川がこんな頼りなさそうな顔を見せたのは初めてだったという。「お前の好きなボールを投げろ。お前がいたから、おれたちここまで来られたんだろ」と答えたのは、反・江川の急先鋒と言われていた一塁手の鈴木だった。「あの瞬間、勝とうというよりも、全員がこの野球を最後までやろうという気持ちだった。それまではいがみ合いとか、いろいろあった。最後の1球でチームがまとまったというのはその通りかもしれない」(前述の小倉氏談)。

 あれから51年、投球フォームこそ当時を彷彿とさせるとメディアはゴマをすったが、ふっくらとおじさん体形で投じた始球式の球はワンバウンドでキャッチャーミットにおさまり、まるでカーブのような山なりの球は「全力のストレート」と本人も苦笑いし、「甲子園は春と夏にだけ現れる"幻の場所"。プロ野球で投げるのとは全く違う感覚です。歴史のある大会で投げられたことに感謝です」と感慨深げに語った。

 前置きが長くなった。今日のブログは甲子園球場が主役だから、その100年の歩みを足早に振り返る。

 100年前の1924年8月1日に竣工式が行われ、当時、甲子園大運動場と命名され、同年8月13日に初めての選手権大会として、第10回全国中等学校優勝野球大会が開催された。1928〜29年にかけて芝生の張り付けが行われ、同年、アルプス・スタンドが建設され、1934年に外野中央にスコアボードが完成し、現在の姿に近くなる。戦時中はその鉄傘が供出させられ、戦後は球場自体が米軍に接収されたが、1947年3月にセンバツが復活し、同年夏の大会も復活して、現在に至る。

 そんな長い甲子園の歴史で、今年の京都国際の優勝は、ある意味で画期をなすものだった。同校の前身は在日韓国人向け民族学校で、2004年度から日本人にも門戸が開かれ、在校生138名中、男子生徒70名、その内61名が野球部員で、この夏にベンチ入りしていた韓国籍の者一名以外は日本人だったそうだが、校歌は韓国語で、その中には「東海」の言葉が出てくる。勝利して慣例により校歌が流れ、日本の公共放送NHKは、自国の領海を他国の基準に従って歌う場面を生中継した。韓国語の音は分からなくても、NHKは「日本語訳は学校から提出されたものです」とお断りのテロップを表示した上で、日本語字幕に「東の海」という言葉を流した。さすがにSNS上では誹謗中傷が相次いだようだが、別のシチュエーションであったなら、あるいは仮に逆のことが韓国で起こっていたなら、もっと大変な騒ぎになっていただろう。彼らにとっても甲子園は"幻の場所"なのであり、それを奪うことは出来ない。

 私にとっても・・・小学生の頃、クラスメイトと作った即席の草野球チームは、コーチを互選する民主的な運営の手作りチームながら、個性派のツワモノ揃いで、リトルリーグのチームを相手に連戦連勝する"幻の"強豪だった(笑)。私は守備コーチ兼任で、長嶋さんに憧れてホットコーナーの三塁を守り、自称「鉄壁の三遊間」を誇るとともに(笑)、後に江川さんに憧れて投手もやった。私には甲子園の舞台は遥かに遠く、自ら甲子園に出られる年齢を過ぎると、不思議なもので自分事としての関心が薄れて、まるで"幻"の如く遠い存在となったが、夢見る野球少年や選ばれた球児たちの夢を叶える場所として甲子園球場はそこにあり、これからもずっと"幻の場所"であり続けるのだ。

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