羽生善治九段が、ある座談会で、将棋とAI(人工知能)について興味深い話をされた。世の中は第三次AIブームと呼ばれて久しく、数年前には、人間の仕事のかなりの部分はAIに奪われるなどと、コンサルに散々脅されて、だからコンサルへの相談を勧められているかのような、コンサルを儲けさせるばかりの、いまいましい気分にさせられたものだった(笑)。最近は落ち着いてきたが、いまなお私を含む庶民は第三次ブームのAIの何たるかをしかと理解しているとは思えない。羽生九段は将棋界の第一人者らしく、将棋のコンピュータ・ソフトを通してAIを把握され、その時も、AIは人間にはない発想が出来るので、それを取り入れて行くのが大事だと言われていた。ただ、人間とAIの違いとして、人間は学習と推論を同時に出来るので、未知のものや経験したことがないところでも、そこそこに対応出来るが、AIは既知のものにしか対応出来ないと見切っておられた。例えば人間は、仮に一手先がマイナス100点でも、10~15手先にプラス300点となるような、評価を先にもつような打ち方が出来るのに対して、AIは評価点が異なるために難しいと言われる。そのため、人間は過去を含めて時系列で考えるので総体として辻褄が合うが、AIは過去を振り返らず、飽くまでその時々の最適解を選択するので、全体としてみれば一貫性がなく、従って、人間が打った棋譜か、AIが打った棋譜か、区別できるのだそうだ。なるほど、名人の域とはそういうものかと感心するばかりであった。
その羽生九段が、一昨年2月の朝日杯将棋オープン戦・準決勝で、藤井総太七段との初の公式戦に敗れた際(それ以前に非公式戦でも敗れていたが)、羽生九段をして「若い世代が台頭し、新しい戦い方を取り入れていかなければいけないと痛感した」と言わしめた。
その藤井七段は、先週行われた「第91期ヒューリック杯棋聖戦五番勝負」第四局で、今となっては前・棋聖の渡辺明二冠(当時、三冠)を三勝一敗で下し、17歳11カ月の史上最年少で初タイトルの棋聖を獲得し、初の現役高校生タイトルホルダーとなった。相手の渡辺明・前棋聖と言えば、私は全く知らなかったが、歴代5位のタイトル獲得通算25期で、永世竜王と永世棋王の資格を持ち、初タイトル獲得から約15年間、1冠以上を保持し続けて、現役最強とまで言われる棋士なのだそうだ。
既に数々の最年少を含む記録を打ち立てた藤井・新棋聖には驚嘆するばかりだが、折角、AIの話が出たついでに、その関連で話を進めたい。
藤井新棋聖の終盤には「異次元の強さ」があると評される。詰め将棋で培われたものだそうで、その根底には、師匠の杉本昌隆八段によれば、細かい読みを省かない「楽をしない将棋」と勝ち筋を延々と研究する探究心があるという。因みに棋聖戦から一夜明けた会見で、藤井新棋聖は「探究」と揮毫された。
今回、棋聖戦を主催した産経新聞によると、「第2局で藤井新棋聖は、守備駒である金をあえて前線に繰り出してペースを握り、逆に攻撃に使う銀を受けに使った。AIでは候補にも挙がらなかった手だったが、その後、AIの評価は『最善手』に変わった」「AIさえ候補手に挙げない“AI超え”の指し手」だったということだ。師匠も、「『全幅検索』ですべての手を読むAIと、『大局観』によって最善手を絞り込める人間との差」を認め、弟子(藤井新棋聖)こそが一点に絞り込んで唯一の勝ち筋を見つけ出す「AI超えの棋士」と評される。先ほどの羽生九段の話とも掛け合わせれば、人間とAIとでは評価点が異なり、確かにAIは定跡にとらわれない全幅検索を高速で処理する点で圧倒的だが、いったん後退あるいは否定するような不合理な、あるいは過去の実績から学べないような想定外の「流れ」、そうした「大局観」まで「学習」することが出来るかというと、なかなか難しいのではないかと思われる。
作家の磯崎憲一郎さんが産経新聞に寄せた棋聖戦観戦コラムが興味深い。あの小林秀雄さんが、あるエッセイの中で、「読みというものが徹底した将棋の神様が二人で将棋を差したら、どういう事になるだろうか」と自問し、「先手を決める振りだけが勝負になる」「無意味な結果が出る筈だ」と自答されたそうだ。この思考実験は今風に言えば「AI同士が対局」することと言え、「私たち人間はこれに似た無意味さをどこかで感じてしまうのだろう」「将棋は人間同士の勝負だからこそ面白い、それは私たちが、全身全霊で考え、戦う棋士たちの姿に、単なる『強さ』という以上の価値を見出そうとしているから」だと語られる。
AI研究の権威レイ・カーツワイル氏は、遅くとも2045年までには全人類の知能を足し合わせた知能をも超えるAIが誕生すると言われた。シンギュラリティ(技術的特異点)と呼ばれるものだ。しかしAIには超えられない壁・・・「学習」しようにも、生命の誕生から40億年と言われる長い年月を経て受け継がれてきたDNA、本能や感情といったものを「学習」するのは容易なことではなさそうだ。それは極端にしても、例えば機械翻訳はずいぶん進歩したが、AIは統語論的(≒文法的)に言語を理解できても、意味論的には理解できないと言われ、人間は言葉の意味を確認するために質問して「仮説」「検証」するような、一見、「無意味」で道を逸れるようなごく当たり前の動き(羽生九段が「推論」と呼ばれたもの)を見せるが、AIにそれは出来るだろうか。また、突拍子もない飛躍やかつての二番煎じ(復活)といった否定的ニュアンスで語られるようなモードを「面白い」と思って世に問うて流行やブームを作り出すことが、AIに出来るだろうか。羽生九段があげた例で言えば、裏をかくというように予想外の行動で相手を出し抜くような、恐らくコンピュータ的にはそれ自体は不合理に見えて実は意味があると人間が考えるようなことを合理的に学習し続けるAIは、結局、ウサギとカメのパラドックスで、永遠にカメに追いつけないウサギのように思える。それとも私はこのパラドックスさながらに、時間を永遠に分割する愚を犯しているのだろうか。人間とAIの違いは、人間そのものを問うことでもあって、興味が尽きない。
藤井新棋聖には、AIを超える人間らしいドラマを「究め」続けて欲しいものだと思う。
その羽生九段が、一昨年2月の朝日杯将棋オープン戦・準決勝で、藤井総太七段との初の公式戦に敗れた際(それ以前に非公式戦でも敗れていたが)、羽生九段をして「若い世代が台頭し、新しい戦い方を取り入れていかなければいけないと痛感した」と言わしめた。
その藤井七段は、先週行われた「第91期ヒューリック杯棋聖戦五番勝負」第四局で、今となっては前・棋聖の渡辺明二冠(当時、三冠)を三勝一敗で下し、17歳11カ月の史上最年少で初タイトルの棋聖を獲得し、初の現役高校生タイトルホルダーとなった。相手の渡辺明・前棋聖と言えば、私は全く知らなかったが、歴代5位のタイトル獲得通算25期で、永世竜王と永世棋王の資格を持ち、初タイトル獲得から約15年間、1冠以上を保持し続けて、現役最強とまで言われる棋士なのだそうだ。
既に数々の最年少を含む記録を打ち立てた藤井・新棋聖には驚嘆するばかりだが、折角、AIの話が出たついでに、その関連で話を進めたい。
藤井新棋聖の終盤には「異次元の強さ」があると評される。詰め将棋で培われたものだそうで、その根底には、師匠の杉本昌隆八段によれば、細かい読みを省かない「楽をしない将棋」と勝ち筋を延々と研究する探究心があるという。因みに棋聖戦から一夜明けた会見で、藤井新棋聖は「探究」と揮毫された。
今回、棋聖戦を主催した産経新聞によると、「第2局で藤井新棋聖は、守備駒である金をあえて前線に繰り出してペースを握り、逆に攻撃に使う銀を受けに使った。AIでは候補にも挙がらなかった手だったが、その後、AIの評価は『最善手』に変わった」「AIさえ候補手に挙げない“AI超え”の指し手」だったということだ。師匠も、「『全幅検索』ですべての手を読むAIと、『大局観』によって最善手を絞り込める人間との差」を認め、弟子(藤井新棋聖)こそが一点に絞り込んで唯一の勝ち筋を見つけ出す「AI超えの棋士」と評される。先ほどの羽生九段の話とも掛け合わせれば、人間とAIとでは評価点が異なり、確かにAIは定跡にとらわれない全幅検索を高速で処理する点で圧倒的だが、いったん後退あるいは否定するような不合理な、あるいは過去の実績から学べないような想定外の「流れ」、そうした「大局観」まで「学習」することが出来るかというと、なかなか難しいのではないかと思われる。
作家の磯崎憲一郎さんが産経新聞に寄せた棋聖戦観戦コラムが興味深い。あの小林秀雄さんが、あるエッセイの中で、「読みというものが徹底した将棋の神様が二人で将棋を差したら、どういう事になるだろうか」と自問し、「先手を決める振りだけが勝負になる」「無意味な結果が出る筈だ」と自答されたそうだ。この思考実験は今風に言えば「AI同士が対局」することと言え、「私たち人間はこれに似た無意味さをどこかで感じてしまうのだろう」「将棋は人間同士の勝負だからこそ面白い、それは私たちが、全身全霊で考え、戦う棋士たちの姿に、単なる『強さ』という以上の価値を見出そうとしているから」だと語られる。
AI研究の権威レイ・カーツワイル氏は、遅くとも2045年までには全人類の知能を足し合わせた知能をも超えるAIが誕生すると言われた。シンギュラリティ(技術的特異点)と呼ばれるものだ。しかしAIには超えられない壁・・・「学習」しようにも、生命の誕生から40億年と言われる長い年月を経て受け継がれてきたDNA、本能や感情といったものを「学習」するのは容易なことではなさそうだ。それは極端にしても、例えば機械翻訳はずいぶん進歩したが、AIは統語論的(≒文法的)に言語を理解できても、意味論的には理解できないと言われ、人間は言葉の意味を確認するために質問して「仮説」「検証」するような、一見、「無意味」で道を逸れるようなごく当たり前の動き(羽生九段が「推論」と呼ばれたもの)を見せるが、AIにそれは出来るだろうか。また、突拍子もない飛躍やかつての二番煎じ(復活)といった否定的ニュアンスで語られるようなモードを「面白い」と思って世に問うて流行やブームを作り出すことが、AIに出来るだろうか。羽生九段があげた例で言えば、裏をかくというように予想外の行動で相手を出し抜くような、恐らくコンピュータ的にはそれ自体は不合理に見えて実は意味があると人間が考えるようなことを合理的に学習し続けるAIは、結局、ウサギとカメのパラドックスで、永遠にカメに追いつけないウサギのように思える。それとも私はこのパラドックスさながらに、時間を永遠に分割する愚を犯しているのだろうか。人間とAIの違いは、人間そのものを問うことでもあって、興味が尽きない。
藤井新棋聖には、AIを超える人間らしいドラマを「究め」続けて欲しいものだと思う。
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