風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

不機嫌な時代

2021-05-27 00:12:49 | 日々の生活
 このコロナ禍を他人事のようにちょっと離れて眺めてみると、いろいろな感慨が湧く。
 これは戦争に準じる一種の有事(危機管理)であることは広く認識されるところだが、実のところ、こうした有事への対応はそう簡単ではなさそうで、過去の戦争にしても、人はいろいろ想定外のことに躓きながら、なんとか遂行して来たのであろうことが想像される。そして、一時的に成功したとしても、それで足元を掬われかねないのは、ビジネスでもよく経験されるところであるし、今回のコロナ禍でも、封じ込めに概ね成功している国がワクチン接種に出遅れていることからも、よく分かる。逆に、封じ込めにお世辞にも成功したとは言えない英・米が、ワクチン接種では戦略的に対応して逆転勝利したかのように今のところは見えるものだから、日本のようにまがりなりにも堪えて来た国は、その後のワクチン接種が進まない体たらくには、余計、苛立つ(笑)。クラウゼヴィッツが論じたように、戦場には霧(作戦・戦闘における指揮官から見た不確定要素)があり、摩擦(計画・命令を実際に実行する上で直面する障害)があって、今は平和な時代だから、理念として完璧に遂行されることを前提に、私たちはつい不平・不満をぶちまけるが、実際には想定通りにスムーズに進捗することの方が珍しいのだろう。このあたりは、 私たちはもう少し冷静になってもよい。
 他方、この新型コロナ禍は変化を加速していると言われる。最近、とみに目立つ中国の台頭にしても、DXにしても、コロナ禍以前から既に変化の兆しがあったというわけだ。有事は事態を極端に推し進めるものかも知れない。その伝で行けば、先に触れた通り有事ではただでさえ上手くいくものではないだけに、有事にあっては平時のまともな精神状態を維持するのは難しい。このコロナ禍で人々の不機嫌は間違いなく倍化している(笑)。大東亜戦争では軍部が独走したと、GHQ史観は教えるが、当時の世相、すなわち激昂する国民感情を無視して論じるのはフェアではなくて、世論をバックに世論に阿るマスコミも政治を動かした。今回のコロナ禍で言えば、もともと体制に不満をもつ人は、益々、体制批判的になり、信頼を寄せて来なかった人は、益々、不信感を増す。実例は、一つや二つではない。
 宝島社が二週間ほど前に朝日・読売・日経に出した広告はその類いだろう。長刀を突き立てる女の子の写真のド真ん中にコロナ・ウィルス(模型)を配して、「ワクチンもない。クスリもない。タケヤリで戦えというのか。このままじゃ、政治に殺される。」と語る、見開きの全面広告である。ちょっと過激だ(笑)。戦争でリーダーシップは重要で、ビジネスで盛んに論じられるリーダーシップ論も戦略論も軍事に由来する。コロナ禍のような有事では政治のリーダーシップが重要だが、先ほど述べたように、実戦では必ずしも上手く行くわけではない(前回のSARSの教訓が活かされていないのは、別の問題)。それだけに、この見開き広告の気持ちはよく分かるが、やや被害妄想に過ぎるのではないだろうか。
 また、自衛隊が巻き込まれた大規模接種センターの予約システムで不備が発覚し、朝日系と毎日の記者が架空の番号で予約できることを確認した上で報道したことを巡るいざこざも、その類いの一つと言えるかも知れない。本来、メディアは体制批判的であって然るべきだが、この報道はどうも後味が悪い。留飲を下げた方々が多いかもしれないが、健全な批判以上のある種の歪みを感じて気分が良くない。この有事にあって完璧なシステムを求めるのは土台、無理な話で、しかも朝日は天下の公器を自任するのであれば、そして有事だからこそ、報道の前にやるべきことがあったはずだが、それを抜きに報道の大義を主張するとは、些か片腹痛い。結果として、体制批判が昂じた揚げ足取りに堕してしまった印象だけが残ってしまう。
 政府の参与だった高橋洋一さんの辞任に至る盛り上がりも、過剰反応だったように思う。9日に自身のツイッターに「日本はこの程度の「さざ波」。これで五輪中止とかいうと笑笑」と投稿して物議を醸し、21日に「日本の緊急事態宣言といっても、欧米から見れば、戒厳令でもなく『屁みたいな』ものでないのかな」と投稿して、収まりがつかなくなった。このコロナ禍で身近な人を亡くした人もいるし、営業自粛で困窮している人もいるというのに・・・という感情的な反応はよく分かるが、高橋洋一さんが意図していたのはそこではない。百田尚樹さんが、「あんな発言で辞めさせるって、今の内閣は屁みたいなもんやで!」と投稿されたのは正論で、座布団一枚さしあげたい。が、このご時世でKYと疑われかねない状況だし、本来、東京オリパラ開催の是非を問うときに問題となるのは、感染レベルや死亡レベルそのものではなく、医療逼迫の度合いであろう。三浦瑠麗さんが、「高橋さんはマクロ経済の人。ミクロのアクターがどんなに苦しんでも、2年間で飲食店がほぼ全部つぶれても、雨後のタケノコのようにまた出てくるだろうと見ているんじゃないかな。少し共感が足りないのは、そこの問題ですよね」と解説されたのは、まあその通りだろうし、「数学脳」(高橋洋一さんは東大理学部数学科卒)と揶揄されたのも、分からなくはない。やや軽率だったと思う。が、そこまで騒ぐ問題かという気もする。
 不機嫌な時代である。
 それだけに、日経ビジネスに「東京都・小金井市のワクチン接種現場に聞く」特集として、「ワクチン接種、全力で攻めてこそ医者も市民も救われる」、「町のお医者さんフル稼働、ワクチン接種『小金井メソッド』」と連日、報じられたのは、一服の清涼剤だった。本ブログでも「コロナ敗戦」と書きたてたが、国家レベルではなく、現場レベルでは、まだまだその力を信じられることを再認識させられた次第だ。
 そういう意味で、今回のコロナ禍では、結局、頼りになるのは(WHOなどの)国際組織や(EUのような)地域組織ではなく、国家であること、更に実際の感染の抑え込みなどのオペレーションは、国家レベルではなく地方が主体であることを痛感させられている。国家と地方の間の責任と権限のあり方は、長年、日本の課題だったが、現場力の強い日本だけに、いい加減、見直されるべきだと思う。
 なお、添付グラフは毎度のものだが、過去2回の緊急事態宣言と比べると、三回目の今回は、明らかに感染者数と重症者数の推移が違う動きをしている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 追悼:田村正和さん | トップ | 大谷翔平は違う生き物(a dif... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日々の生活」カテゴリの最新記事