一昨日、作家の北杜夫さんが逝去されました。享年84歳。
同時代の作家として存在感があり、「どくとるマンボウ」という一種の雅号(と呼んでもいいのでしょう)を知らない人はいなくて、その名を轟かしたのは(なんて大袈裟ですが)ネスカフェのテレビCM「違いが分かる男の、ゴールドブレンド」で、子供心にも、悠然と珈琲を啜る大作家然としたお姿が目に焼きついています。ところが何故か氏の本は一冊も読んだことがありません。あれだけの知名度がありながら奇妙なことです。高校時代の陸上部でいつも一緒に走っていた仲の良い友人は北杜夫が大好きで、本人はふざけて「モリ キタオ」を称し、同じ医者の道を選んだのですが、こうして身近に「北杜夫」または「モリ キタオ」などと連呼され、親しみがありながら、氏の本は一冊も読んだことがありません。
このあたりは遠藤周作さんの影響ではないかと思います。
同じ頃(Wikipediaによると北杜夫さんが登場するより2年前の1972年)、同じ「ネスカフェ・ゴールドブレンド」のテレビCMに「狐狸庵先生」として登場し、書斎らしき部屋で湯気の立つ珈琲を悠然と啜る大作家然としたお姿を披露しました。どこで何を聞きつけたか、「ぐうたらシリーズ」のエッセイを書いていることを知り、本来であれば夏目漱石をはじめとする純文学の世界を知るべき若いミソラでしたが、狐狸庵先生の「ぐうたらシリーズ」にすっかりはまってしまい、「ぐうたら」を人生の至上の目標にするほどの影響力を与えた罪深き人です。当時、星新一かコナン・ドイルか狐狸庵先生かという、私の中での存在感の大きさが、同じジャンルでの存在をそれ以上許容しなかったのだろうと、今となっては勝手に想像します。
報道によると、またWikipediaでも、北杜夫さんの終生の知人のまっさきに遠藤周作氏が挙げられています。性格的には対照的なのかも知れませんが、純文学とともにユーモラスなエッセイをものすることでは共通し、マスコミも囃し立てた「狐狸庵VSマンボウ」の波に翻弄された私にとって、全く不運な存在でしかない北杜夫さんですが、同じように珈琲を啜るお姿は永遠であり、今、人生の巡りあわせに思いを馳せます。いつか氏の著作を読んでみようかと。
同時代の作家として存在感があり、「どくとるマンボウ」という一種の雅号(と呼んでもいいのでしょう)を知らない人はいなくて、その名を轟かしたのは(なんて大袈裟ですが)ネスカフェのテレビCM「違いが分かる男の、ゴールドブレンド」で、子供心にも、悠然と珈琲を啜る大作家然としたお姿が目に焼きついています。ところが何故か氏の本は一冊も読んだことがありません。あれだけの知名度がありながら奇妙なことです。高校時代の陸上部でいつも一緒に走っていた仲の良い友人は北杜夫が大好きで、本人はふざけて「モリ キタオ」を称し、同じ医者の道を選んだのですが、こうして身近に「北杜夫」または「モリ キタオ」などと連呼され、親しみがありながら、氏の本は一冊も読んだことがありません。
このあたりは遠藤周作さんの影響ではないかと思います。
同じ頃(Wikipediaによると北杜夫さんが登場するより2年前の1972年)、同じ「ネスカフェ・ゴールドブレンド」のテレビCMに「狐狸庵先生」として登場し、書斎らしき部屋で湯気の立つ珈琲を悠然と啜る大作家然としたお姿を披露しました。どこで何を聞きつけたか、「ぐうたらシリーズ」のエッセイを書いていることを知り、本来であれば夏目漱石をはじめとする純文学の世界を知るべき若いミソラでしたが、狐狸庵先生の「ぐうたらシリーズ」にすっかりはまってしまい、「ぐうたら」を人生の至上の目標にするほどの影響力を与えた罪深き人です。当時、星新一かコナン・ドイルか狐狸庵先生かという、私の中での存在感の大きさが、同じジャンルでの存在をそれ以上許容しなかったのだろうと、今となっては勝手に想像します。
報道によると、またWikipediaでも、北杜夫さんの終生の知人のまっさきに遠藤周作氏が挙げられています。性格的には対照的なのかも知れませんが、純文学とともにユーモラスなエッセイをものすることでは共通し、マスコミも囃し立てた「狐狸庵VSマンボウ」の波に翻弄された私にとって、全く不運な存在でしかない北杜夫さんですが、同じように珈琲を啜るお姿は永遠であり、今、人生の巡りあわせに思いを馳せます。いつか氏の著作を読んでみようかと。
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