風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

お坊さん便

2016-02-08 23:40:56 | 日々の生活
 先週の「春秋」(日経新聞朝刊一面の左下にあるコラム)で、アマゾンにお坊さんが出品されたとあった。アマゾンが「モノ」だけでなく「コト」を扱い始めたのは聞いていたが、まさかと思ってあらためてチェックしたところ、「お坊さん便」として、通常の法事・法要で僧侶を自宅やお墓に派遣するサービス(お布施やお車代を含めて全国どこでも一律3万5千円)のほか、戒名・法名の授与(2万円)もあった。「春秋」は、「注文のための画面にある『在庫』や『返品について』などの言葉が、なんともシュールに響く」と書き、仏教界からは「宗教をビジネスにしている」という批判の声があがっているらしいが、こう言っちゃあなんだが、宗教(とりわけ仏教)側は既にここ100年、いや戦後70年、急速にビジネス化しており、批判に当たるとは思えない。というのも、以前、島田裕巳氏の「葬式は、要らない」(幻冬舎新書) を読んだことを思い出したからだ。
 そもそも日本に伝来した当初の仏教は、高度な学問の体系として受容されたのは周知の通りで、現代のような「葬式仏教」の側面はなかった。ところが仏教には、死者が赴く浄土の世界を、豪華で美しいものとして描き出す志向があり、やがて葬式が派手で贅沢なものになっていったという。それでも檀家も墓も江戸時代以前は特権階級にのみ許された贅沢だった。それが変わったのは、応仁の乱以降、荘園制が崩壊して郷村が、そして広範な「家」の概念が成立し、寺院の財政基盤が荘園から一般民衆に変わってから、とりわけ江戸時代にキリスト教を禁止する中で、キリスト教徒ではない証として寺請証文を発行させるようになって以降のことである。武士・町民・農民といった身分を問わず特定の寺院に所属させる(=檀家になる)、仏教を国教化するに等しい政策が行われ、1687年の幕法は、檀家の責務を明示し、檀那寺への参詣や年忌法要のほか、寺への付け届けまでも義務化した(Wikipedia)。檀家がこれら責務を拒否すれば、寺は寺請を行うことを拒否し、従い檀家は社会的地位を失うことになるため、寺と檀家には圧倒的な力関係が生じ、江戸時代における檀家は、寺の経営を支える組織として、完全に寺院に組み込まれたものだったという(同)。寺院が強権的な立場を利用して檀家から際限なき収奪を行うことには、江戸時代初期から批判があった。
 現代においても、仏教寺院の収入は葬式や年忌法要の布施に限られ、宗教法人である以上、税はかからないが公的補助も受けられないため、財政基盤は檀家の数次第となる。檀家の数が多ければ、葬式や法要の機会が増え、言い方は悪いが経営が安定するのが道理で、一般に一つの寺を維持するためには300の檀家が必要だと言われる。しかし周囲を見渡しても分かる通り、檀家離れが進み、仏教寺院の経営は厳しく、全国7万以上あるとされる仏教寺院のうち約2万は住職のいない「無住」の寺と化しているらしい。結果として、現代の仏教寺院が置かれた状況を考えれば、経営を成り立たせるために「葬式仏教化」は強まりこそすれ、弱まることはないというわけだ。
 かつて、中江兆民は、癌宣告を受けた年に亡くなったが、遺言は「おれには葬式など不必要だ。死んだらすぐに火葬場に送って荼毘にしろ」というものだったらしい。実際に葬式は行われず、遺体は当時としては珍しく解剖され、墓碑も建てられなかったという。ただ、残された者たちは、彼の死を悼み、自由民権運動に参画し生前の兆民と親交のあった板垣退助や大石正巳たちが青山会葬上で、宗教的なものをいっさい排除した「告別式」を開いたのが、今日一般化している告別式のはじまりだとされている。しかし今は、葬式の前の晩に告別式もやる。しかも葬儀費用の比較で、イギリスでは平均12万円、韓国で37万円、浪費大国アメリカでさえ44万円なのに対し、日本は231万円もかかるという。確かに私も、母親の葬儀にあたっては、祭壇や生花など、参列者の目を意識して恥ずかしくないように、そして一生に一度のことだからケチることなく、さりとて無理に派手を取り繕うことなく、結局、似たような金額をかけたように思う。
 徳川時代の軛を離れ、戦後、都市化とともに「家」意識が薄れ、平安貴族の贅沢でもあった葬式が今もなお一般庶民の間で続けられることに疑問が生じ、仏教離れあるいは檀家離れが進むのは、やむを得ないのかも知れない。近年、火葬場に僧侶を呼ばず、荼毘に伏すだけで終わりにしてしまう「直葬」が増え、首都圏では葬儀全体の4分の1を占めるまでになっているらしい。「お坊さん便」は、仏教界の心ある方々は否定するかも知れないが、危機的な現実を反映するものであろう。「出品」している葬儀関連会社は既に400人にのぼる僧侶と提携しているらしい。先の「春秋」に戻るが、「結局はお坊さん個々人の見識や力量がいままで以上に問われるのではないだろうか」と言い、「法事の席で『なるほど』と得心のいく法話や所作に触れられれば、出会ったきっかけに善しあしはないと思う」と結んでいる。島田裕巳氏も、仏教界がなすべきことは、檀家になることの意味を明確にし、それを檀家にも伝えることであり、もし、そうした試みがなされるならば、葬式仏教や戒名のあり方に対する批判も、これまでとは違ったものになってくることだろうと言う。
 正月三箇日に初詣に出掛ける日本人は全国で8000万人にのぼると言われる。勿論、身近に神社仏閣が存在する日本で、イスラム教の巡礼月に世界中からメッカに集まる巡礼者250万人は、サウジアラビア政府が制限していることもあり、単純比較は出来ないが、全国トップの明治神宮には320万人、川崎大師や成田山新勝寺には300万人、浅草寺280万人、伏見稲荷270万人、鶴岡八幡宮250万人、そのほか数十万人規模の参拝者が訪れる神社仏閣は全国津々浦々にあり、日本人が宗教的ではない理由はない。しかし日本人の宗教との付き合い方は確実に変わりつつあるようだ。
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