環境の時代は人間関係から自然関係へ
人間関係が大切だと企業や地域でもよくいわれています。しかし、これからは人間関係から自然関係へと発展させていかなくてはなりません。温暖化が言われ始め、地球が持たなくなりつつあるからです。人間環境という学問もありますが、やはり、これは人間を中心に据えているので、ちょっとまずいと思います。
戦後60年、民主教育の負の部分がかなり出てきているなと感じております。基本的人権の問題でよくいう「一人の命は地球よりも重い」なるほど、方向としては結構です。一人一人の人権は最大限尊重されなければなりません。しかし、公共の福祉、もっと言えば自然とのバランスがより大切です。シーソーはややもすると、今日、人権の方に傾きすぎている嫌いがあります。自然が確保されていてこそ人間の存在もあるのです。
「将を射んと欲すればまず馬を射よ」ということわざがあります。人間の幸せ(将)を得たいのなら遠回りしてもまず、自然(馬)を大切にしないと、結果として幸せ(将)は得ることができないということだと思います。
また、こういう例えもできるのではないかと思います。船に乗って大海を航海している時に実際は船が浮かんでいるおかげで航海ができているのに、その恩を忘れ、
「この船はぼろっちぃ。」
とか船に文句ばかりいっている人を最近よく見ますが、船が沈んでしまえば本も子もないわけですので船の悪口をいっても始まりません。沈まないように、建設的な意見なら結構なことです。何のおかげで自分が今存在するのかということを忘れている自己中になっている人が多くなっているのが気にかかります。
昔、タイタニック号という映画が上映されました。明日沈没する運命とも知らないで、楽しく踊っている人間模様を描いている映画だと思いましたが、今の時代が同じような運命にあるのかも知れません。温暖化を始めとする環境破壊が氷山のように待ちかまえています。このまま、いったらタイタニック号という地球船は沈没するのかも知れません。
勿論すぐ明日ということはないでしょう。しかし、このまま手をこまねいていたら確実に氷山に向かって進んでいるように思えます。
資本主義という社会を大きく変換しなくてはいけない時期に少しずつ来ているのかもしれません。この先、どう舵を切っていったらいいのか難しい時代になって来ているのは事実です。
中でも、難しいのはグローバル化といわれる今日、一国だけでこのような問題の解決ができないジレンマがあるのです。成るべくして成り、成るようになり、成るようにしかなれない。これが世の常かもしれません。
しかし、よくよく考えてみれば、人間は人間社会のみで成り立っているのではありません。広くあまねく自然界の一員として存在しているのです。ですから、これからの環境の時代では人間対人間から人間対自然という時代に必然的になっていくだろうと思います。そうしたときに、人間関係というよりは自然関係という言葉が声高に叫ばれるようになるではないだろうかという仮説を考えています。
人間関係という次元のレベルで行動するのでなく対自然関係で人間はこれから悩みつつ成長し進んでいってほしいと思います。
その為、今後は自然科又は環境科という教科の新設が文科省より示されるかもしれません。自然科と環境科というと幾分ニュアンスが違います。今では環境科を持つ大学は沢山出てきています。しかし、自然科は殆どないと思います。
義務教育でも、生活科や総合的な学習、理科等で自然科的な事を一部扱っていますが、総合的組織的に自然を学ぶ教科の新設を考えてもいい時期になりつつあります。
また、私は、かねてから、旧暦の生活を1年してみたらどうだろうか、という考えを持っています。
今は太陽中心の暦ですが、これを、月中心の暦に組み直し、1年生活してみるとどうでしょう。昔の日本人の生活習慣と沢山出会うことでしょう。いかに、昔は自然と一緒に生活していたかが分かると思います。
俳句や短歌のこと、祭りのこと、稲作を中心とした里山のこと、そして、月の満ち引きが人に大きく影響をしていることが分かることでしょう。
日本には古来、太陽よりも月との関わりの方が多くあったように思います。かぐや姫のお話もそうです。
月で思い出すのが「月天心貧しき町を通りけり」の与謝蕪村の句です。暗い感じの句のようですが、真冬の月明かりがしらじらと貧しき家々を照らし出しているのですが、実はその中から温かい蝋燭や薪をくべた明かりが、こぼれているようなほのぼのとしたイメージが浮かびます。
人間も生物の一つです。そこから、大きく離反していった結果そのような問題が増加しています。人間が生物の一員であるという観点に立てば、自ずと自然を尊重する態度を取るようになるでしょうし、他への思いやりの心情も湧いてくるでしょう。
真の民主主義もこのように、人間も生物の一員であるという大きな基盤の上に成り立っているのではないでしょうか。そこから、ずれて勝手に自己中で考えているから色々な問題が破綻してくるのだと思います。
何でも、原点に返って振り返るという事が大切ではないでしょうか。お金の問題も同じです。それ以前は物物交換でした。また、お金を介さないで色々な物や情報を交換したことでしょう。手段であるお金を介したことで、心が失われては本末転倒です。お金を介しなかったら物をもらうときには必ず心からお礼をいうでしょう。物を買うという基本はこの辺にあると思います。このことを忘れてはならないと思います。お金は便利ですが、人間が編み出した手段であることを…、それを忘れたお金から、諸々の犯罪等も生まれています。
さて、今後は人間関係という言葉よりは自然関係とう言葉の方を大切に考えていきたいと思います。高齢化社会となり孤独死等も日常よく耳にするようになりました。外界との接点がなくなり、死んでいく高齢者がよくTVに映し出されます。周りには美しい自然がまだ、いっぱいあるのに気づけなくて残念です。その問題も何とか政治レベルでも考えていかないといけません。
医療費を増やすお金を生き甲斐作りに変えていけばもっと、高齢者も元気になるのにと思います。町作りの仕組みもふれあいが強制的に出なく自然にできるように考えて行かなくてはと思います。そこでも自然体が大切です。
古来日本では自然を神とあがめ、自然と調和するように暮らして来たのではありませんか。自然を介しての儀式も沢山残っています。自然が友達であり、おいしい空気を吸い、その中で人との交流も必然的に生まれてきます。「袖ふれあうも何かの縁」ということわざも日本にはあるではないですか。すべては因縁果です。縁を大事にしていきたいと思います。
自然の様相をよく見て学べば、学ぶべきことは沢山あります。自然こそ最大の師となります。自然と直接関連する農の大切さも出てきています。農と食、生活の根幹に関わる問題でもあります。食育という考えも出てきています。また、自給率約40%の日本の農に対する危険性も大変です。
農はやはり国の中心であると思います。衣食足りて礼節を知る。と昔からいいます。衣食住は国の骨幹であるといえます。宮沢賢治の詩も浮かんできます。彼が何を訴えようとしていたのか。彼の思想にも迫ってみたい気もします。
今後は民主主義も自然があっての民主主義という考えに戻らないと、もう、地球はだめになるのではないかと、最近は思うようになりました。人間を人と人の間で唱えるのでなく、生物全体を含む人と自然の関係でとらえるマクロな考え方で行動して行く必要があると思います。