想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

小よく大を制す

2009年09月15日 | インポート

舞の海という力士がいました。彼は猫だましという技を使い変幻自在に土俵上を飛び回り自分より大きい相手をなぎ倒していました。牛若丸とも呼ばれ人気力士でした。現在は相撲評論家として活躍しているようです。まさに「小よく大を制す」です。
 自然界ではもっと大きなスケールで、このことが起こっている事実に出くわすことがあります。ウォーキングの最中のことでした。下に目をやると、小さなありが、その20倍もあろうかと思う怪獣のようなはさみを持った昆虫を引きずっているではありませんか。びっくりしました。と、同時に幼少の頃はこのような光景をよく見ていた自分を思い出していました。まさに私の原体験だとおもいました。カタツムリとあそんだり、ジグモを捕ったり、それを戦わせたりした過去を思い出しました。
 蟻にあんな力があるなんて、普通からいくと考えられません。今、こうしていると自然の大きな力、畏敬の念さえ抱きます。この写真は2匹で引っ張っていますが、最初は1匹で引っ張っていました。途中から仲間が来て、2匹で引っ張り始めました。思わず見入ってしばし、立ちすくんで見ていました。大きな虫は最初死んでいるものだと思っていましたが、そうではなくまだ、生きていました。どうして、このような事がおこるか今もって不思議です。やはり、このような「小よく大を制す」なんていうことが自然界では身近に起こっているんですね。
 引っ張られている虫の後尾に部分に注目してください。まるで、クワガタムシのようです。目のようなものもちゃんとついています。本当に強そうです。でも、これは擬態なんですね。昆虫ではよくあるようです。人間でもこのようにして、生きている人がいるかも知れません。

 
ハサミムシを引きずるアリ 

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人は毎朝生まれ変わる

2009年09月11日 | インポート

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人間関係から自然関係の時代へ

2009年09月07日 | インポート


 環境の時代は人間関係から自然関係へ


  人間関係が大切だと企業や地域でもよくいわれています。しかし、これからは人間関係から自然関係へと発展させていかなくてはなりません。温暖化が言われ始め、地球が持たなくなりつつあるからです。人間環境という学問もありますが、やはり、これは人間を中心に据えているので、ちょっとまずいと思います。
 戦後60年、民主教育の負の部分がかなり出てきているなと感じております。基本的人権の問題でよくいう「一人の命は地球よりも重い」なるほど、方向としては結構です。一人一人の人権は最大限尊重されなければなりません。しかし、公共の福祉、もっと言えば自然とのバランスがより大切です。シーソーはややもすると、今日、人権の方に傾きすぎている嫌いがあります。自然が確保されていてこそ人間の存在もあるのです。
  「将を射んと欲すればまず馬を射よ」ということわざがあります。人間の幸せ(将)を得たいのなら遠回りしてもまず、自然(馬)を大切にしないと、結果として幸せ(将)は得ることができないということだと思います。
 また、こういう例えもできるのではないかと思います。船に乗って大海を航海している時に実際は船が浮かんでいるおかげで航海ができているのに、その恩を忘れ、
「この船はぼろっちぃ。」
とか船に文句ばかりいっている人を最近よく見ますが、船が沈んでしまえば本も子もないわけですので船の悪口をいっても始まりません。沈まないように、建設的な意見なら結構なことです。何のおかげで自分が今存在するのかということを忘れている自己中になっている人が多くなっているのが気にかかります。
 昔、タイタニック号という映画が上映されました。明日沈没する運命とも知らないで、楽しく踊っている人間模様を描いている映画だと思いましたが、今の時代が同じような運命にあるのかも知れません。温暖化を始めとする環境破壊が氷山のように待ちかまえています。このまま、いったらタイタニック号という地球船は沈没するのかも知れません。
 勿論すぐ明日ということはないでしょう。しかし、このまま手をこまねいていたら確実に氷山に向かって進んでいるように思えます。
 資本主義という社会を大きく変換しなくてはいけない時期に少しずつ来ているのかもしれません。この先、どう舵を切っていったらいいのか難しい時代になって来ているのは事実です。
  中でも、難しいのはグローバル化といわれる今日、一国だけでこのような問題の解決ができないジレンマがあるのです。成るべくして成り、成るようになり、成るようにしかなれない。これが世の常かもしれません。
 しかし、よくよく考えてみれば、人間は人間社会のみで成り立っているのではありません。広くあまねく自然界の一員として存在しているのです。ですから、これからの環境の時代では人間対人間から人間対自然という時代に必然的になっていくだろうと思います。そうしたときに、人間関係というよりは自然関係という言葉が声高に叫ばれるようになるではないだろうかという仮説を考えています。
 人間関係という次元のレベルで行動するのでなく対自然関係で人間はこれから悩みつつ成長し進んでいってほしいと思います。
 その為、今後は自然科又は環境科という教科の新設が文科省より示されるかもしれません。自然科と環境科というと幾分ニュアンスが違います。今では環境科を持つ大学は沢山出てきています。しかし、自然科は殆どないと思います。
 義務教育でも、生活科や総合的な学習、理科等で自然科的な事を一部扱っていますが、総合的組織的に自然を学ぶ教科の新設を考えてもいい時期になりつつあります。
 また、私は、かねてから、旧暦の生活を1年してみたらどうだろうか、という考えを持っています。
 今は太陽中心の暦ですが、これを、月中心の暦に組み直し、1年生活してみるとどうでしょう。昔の日本人の生活習慣と沢山出会うことでしょう。いかに、昔は自然と一緒に生活していたかが分かると思います。
 俳句や短歌のこと、祭りのこと、稲作を中心とした里山のこと、そして、月の満ち引きが人に大きく影響をしていることが分かることでしょう。
 日本には古来、太陽よりも月との関わりの方が多くあったように思います。かぐや姫のお話もそうです。
 月で思い出すのが「月天心貧しき町を通りけり」の与謝蕪村の句です。暗い感じの句のようですが、真冬の月明かりがしらじらと貧しき家々を照らし出しているのですが、実はその中から温かい蝋燭や薪をくべた明かりが、こぼれているようなほのぼのとしたイメージが浮かびます。 
 人間も生物の一つです。そこから、大きく離反していった結果そのような問題が増加しています。人間が生物の一員であるという観点に立てば、自ずと自然を尊重する態度を取るようになるでしょうし、他への思いやりの心情も湧いてくるでしょう。
 真の民主主義もこのように、人間も生物の一員であるという大きな基盤の上に成り立っているのではないでしょうか。そこから、ずれて勝手に自己中で考えているから色々な問題が破綻してくるのだと思います。 
 何でも、原点に返って振り返るという事が大切ではないでしょうか。お金の問題も同じです。それ以前は物物交換でした。また、お金を介さないで色々な物や情報を交換したことでしょう。手段であるお金を介したことで、心が失われては本末転倒です。お金を介しなかったら物をもらうときには必ず心からお礼をいうでしょう。物を買うという基本はこの辺にあると思います。このことを忘れてはならないと思います。お金は便利ですが、人間が編み出した手段であることを…、それを忘れたお金から、諸々の犯罪等も生まれています。
 さて、今後は人間関係という言葉よりは自然関係とう言葉の方を大切に考えていきたいと思います。高齢化社会となり孤独死等も日常よく耳にするようになりました。外界との接点がなくなり、死んでいく高齢者がよくTVに映し出されます。周りには美しい自然がまだ、いっぱいあるのに気づけなくて残念です。その問題も何とか政治レベルでも考えていかないといけません。
 医療費を増やすお金を生き甲斐作りに変えていけばもっと、高齢者も元気になるのにと思います。町作りの仕組みもふれあいが強制的に出なく自然にできるように考えて行かなくてはと思います。そこでも自然体が大切です。
 古来日本では自然を神とあがめ、自然と調和するように暮らして来たのではありませんか。自然を介しての儀式も沢山残っています。自然が友達であり、おいしい空気を吸い、その中で人との交流も必然的に生まれてきます。「袖ふれあうも何かの縁」ということわざも日本にはあるではないですか。すべては因縁果です。縁を大事にしていきたいと思います。
  自然の様相をよく見て学べば、学ぶべきことは沢山あります。自然こそ最大の師となります。自然と直接関連する農の大切さも出てきています。農と食、生活の根幹に関わる問題でもあります。食育という考えも出てきています。また、自給率約40%の日本の農に対する危険性も大変です。
 農はやはり国の中心であると思います。衣食足りて礼節を知る。と昔からいいます。衣食住は国の骨幹であるといえます。宮沢賢治の詩も浮かんできます。彼が何を訴えようとしていたのか。彼の思想にも迫ってみたい気もします。
  今後は民主主義も自然があっての民主主義という考えに戻らないと、もう、地球はだめになるのではないかと、最近は思うようになりました。人間を人と人の間で唱えるのでなく、生物全体を含む人と自然の関係でとらえるマクロな考え方で行動して行く必要があると思います。

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雑草の強さに感服

2009年09月03日 | インポート

 最近の子ども達を見ていると、雑草と違う世界に身を置いているようです。運動場の雑草取りをやったり、竹ぼうきですじをつけてきれいに掃くこともあまりしなくなりました。ただ、生活科の中でやる観察がおもになってしまいました。昔は、境内もよく掃いたりしたものでした。毎日が自然と友達で生活していた当時がなつかしくおもいおこされます。
 ポケットにはいつも肥後の守という出刃包丁(刃渡り8Cmはあったと思います。)を入れていて、木や竹があるとよく切って、刀を作ったり、鉄砲を作ったりしたものでした。 肥後の守の刃の切れ味が悪くなると、砥石で研ぎ、切れ味をよくしてポケットに持っていました。カラスガイをこじ開けたときも使いました。当時がなつかしいです。また、それを使って鉛筆を削ったこともありました。もっと、小さい頃には、魚屋さんをまねて、捕った魚を料理したことも思い出されます。魚屋さんが行商できて、その行為をよく見ていたのですね。
 さて、ウォーキングをしていて、雑草の生命力の強さに感心しました。下の写真がそうですが、硬いアスファルトの壁を破って(風知草?)出てきているのではありませんか。自然の力は雑草にも宿っていて侮れないなと、畏敬の念さえ感じたものです。少しずつ少しずつ伸びて、あの硬い物体を破ってきたのでした。どういう物理的な仕組みでそうなるのか、検証して見たいくらいです。車のジャッキのようなものかもしれないです。少しずつ少しずつの力は時間はかかるが、大きな力を生むという証拠ではないでしょうか。なんでも、すぐ結果を求める今の時代ではそのことの不思議な意味もどこかに行ってしまいそうです。やはり、時間をかけてなったものの尊さだと思います。やはり自然は偉大な教師と言うほかありません。問題はそれに気づく感性を絶えず磨くことであります。言葉で言えば簡単ですが、努力したいと思います。どこかで、言葉と感性の違いについても述べてみたいと思っています。


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自然とのコミュニケーション能力の時代に

2009年09月02日 | インポート
  環境の問題が連日大きく取り上げられる時代になりました。思い起こせば大学に環境学科が出始めた時期がありました。環境庁ができた頃でしょうか。昔なら、空気のようなもので、何でそんな学問をするんだろう位に思っていました。確か宮城県?の大学で一番早くその学科ができたように思います。学問として、どのように研究するのかなとも思っていました。また、そこで、勉強した人たちは、どういう所へ就職するんだろうと、不思議にさえ思っていた時代でした。 当時、その学科を勉強する彼を不思議な思いでとらえていた自分を思い出します。
 昔は環境教育と言う概念や学問もなく、空気や水は当たり前の事として、考えることもしなかったと思います。高校生の時習った「倫理社会」という教科がありました。そこで、紀元前のギリシャの自然哲学者タレスがいった「すべての根源は水である。」と、言う言葉を思い出しています。確か、人体の70%が水だと聞いています。水が濁れば生物の生命は危機を迎えるでしょう。環境が破壊されるとは、水や空気が汚れることに他ならないのです。そんな昔から、生物にとって水はとても大切な物だったのです。地球はよく水の惑星だと言われています。その意味もよく吟味したいです。
 ところで、以前は、就職先と言えば、会社に入り、物を作るか売るか公務員位が考えられていました。その後、水俣病、カドミウム、四日市喘息等数え上げれきりがありません。公害が日常化して来ました。公害が俄然クローズアップしてきました。チッソを始め化学関連の会社がやり玉に上がっていました。
  空気の汚れといえば、昔、大島へ船で竹芝桟橋から行ったときの事を思い出しました。東京湾を離れるに従って、東京の町並みの下の方がベルトのように薄黒いスモッグで覆われていることでした。これは大変な事だと当時のことを思い出します。昔は江戸から富士山が眺められている浮世絵を見たように思います。なつかし時代があったのですね。最近は黄砂の問題で都市も霞んでしまうことがよくあります。黄砂は自然現象ですので、仕方がありませんが、スモッグで大気を汚染することは気をつけなければなりません。
 さて、これからの時代はコミュニケーション、とりわけ自然とのコミュニケーションが大事な時代になったと思います。今、学校教育では盛んにコミュニケーション能力の育成の観点から国語科の学習をとらえていますが、今後は人とのコミュニケーション能力もさることながら、自然とのコミュニケーションのできる事が最も重要視されてくるのではないでしょうか。自然とのコミュニケーションをするにはどうしても、自然という様相を知らねばなりません。理科や生活科でも似たようなことをやっていますが、自然科とか環境科とかいう自然や環境をトータルでとらえる教科が小学校でも必要な時代になってきているのではないかと思います。 
 世の中は不易を残しつつ流行して行きます。自然や環境は不易なものだと思います。人間のための自然でなく、生物界全体の自然でなければなりません。人間だけ生きようとしても生きていけなくなってきています。当たり前といえば当たり前なことですが人間も自然界の一員です。そのことを肝に銘じて生活をして行きたいです。
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