最近の子ども達を見ていると、雑草と違う世界に身を置いているようです。運動場の雑草取りをやったり、竹ぼうきですじをつけてきれいに掃くこともあまりしなくなりました。ただ、生活科の中でやる観察がおもになってしまいました。昔は、境内もよく掃いたりしたものでした。毎日が自然と友達で生活していた当時がなつかしくおもいおこされます。
ポケットにはいつも肥後の守という出刃包丁(刃渡り8Cmはあったと思います。)を入れていて、木や竹があるとよく切って、刀を作ったり、鉄砲を作ったりしたものでした。 肥後の守の刃の切れ味が悪くなると、砥石で研ぎ、切れ味をよくしてポケットに持っていました。カラスガイをこじ開けたときも使いました。当時がなつかしいです。また、それを使って鉛筆を削ったこともありました。もっと、小さい頃には、魚屋さんをまねて、捕った魚を料理したことも思い出されます。魚屋さんが行商できて、その行為をよく見ていたのですね。
さて、ウォーキングをしていて、雑草の生命力の強さに感心しました。下の写真がそうですが、硬いアスファルトの壁を破って(風知草?)出てきているのではありませんか。自然の力は雑草にも宿っていて侮れないなと、畏敬の念さえ感じたものです。少しずつ少しずつ伸びて、あの硬い物体を破ってきたのでした。どういう物理的な仕組みでそうなるのか、検証して見たいくらいです。車のジャッキのようなものかもしれないです。少しずつ少しずつの力は時間はかかるが、大きな力を生むという証拠ではないでしょうか。なんでも、すぐ結果を求める今の時代ではそのことの不思議な意味もどこかに行ってしまいそうです。やはり、時間をかけてなったものの尊さだと思います。やはり自然は偉大な教師と言うほかありません。問題はそれに気づく感性を絶えず磨くことであります。言葉で言えば簡単ですが、努力したいと思います。どこかで、言葉と感性の違いについても述べてみたいと思っています。