想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

紫陽花の次は女郎花の花が

2021年06月11日 | 我が家の庭
コロナ2年6月11日

女郎花
  出番を待つ芽が
       震えてる
  その傍らで   
      咲くは紫陽花

   紫陽花の、季節もやがて、終わります。その傍らでは女郎花が、今か今かと出番を待っています。
 紫陽花の花がその光彩を失えば女郎花の花が咲くことでしょう。楽しみに待ってます。
 季節はめぐりめぐって同じ輪廻を繰り返します。
 今時の言葉を借りれば、それはルーティーンでしょうか。
 こうして、私も少しずつ歳を重ねて行きます。

*右端の植物が女郎花です♪



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日本の食料事情

2021年06月08日 | 家庭菜園
コロナ2年6月8日
   我々が生きて行く為にどうしても必要なものが、食料です。さて、現在、日本の食料自給率はどのようになっているのかと、調べてみました。
 生産額ベース総合食料自給率を75%に高める目標を掲げています。日本と似ている国がスイス、イタリア、英国などの小さな国です。
 現実は令和元年度でカロリーベース38%生産額ベースで66%です。想っていたより率が高くて安心しましたが、まだまだ、自給率は上げていかないと大変です。食料は国の根幹です。世界ではほぼ100%以上がカナダ、オーストラリア、アメリカ等です。
 日本では食料が不足しているといわれる反面、畑は沢山残っているのではないかと思います。不耕起の畑が増えているのが問題です。
 そこにジャガイモが無造作にも捨てられているのを見ました。
 日本ではまだまだみんなで家庭菜園をやれば、栽培される畑は十分あるんだなと想いを強くすると共に安心しました。
 野菜はすぐ、買うのではなく、できるだけ、地産地消を進め近くで作ることお勧めします。やる気になれば、まだまだ、荒れている土地は沢山あります。
 一番栄養価の高いのは、地元産の野菜を太陽にいっぱい当てて作り、それを消費することだと想います。皆さんも、野菜をどんどん作ってお天道様の恵みをいっぱい受けた旬の野菜を食べましょう。やはり、旬のものは、栄養価も高いようです。
 下の写真は、まだ、食べられる野菜が無造作に不耕起の畑に捨てられている様子です。もったいないなと想うのは私だけでしょうか。






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 主観から客観へ 今、地球が危ない! 

2021年06月05日 | エッセイ
コロナ2年9月5日

∞ミクロ←自分→∞マクロ
 こんなことに想いをめぐらしている自分が今ここにいる。はてさて、宇宙は膨張しているという人もいる。私には分からない。事実の確かめようがないから。
 もともと無限大に大きいのだから、膨張しても意味はないのではないかとも想う。宇宙がとてつもなく大きなものなら、ウイルスの住むミクロの世界もまた、途轍もなく小さな世界ではないだろうか。どちらにしても、これらは人間の大きさを中心に考えているいわゆる主観論的な考え方だ。
 ウイルスから人間を見ればそれは途轍もなく大きな宇宙そのものだろう。ウイルスは人間から見れば観察可能な究極の小さな物体であろう。しかし、ウイルスの立場に立てば、もっと小さな物は無限にあるのだろう。そう考えると、人間が見ている世界は相対的なものだろうと予想はつく。
 多分、絶対的には極小も極大もどこまで行っても限りはない。だから、∞という記号が考え出された。宇宙という空間には限りはないのだと想う。
 キリスト教では過去に地球がすべての中心であり、すべての宇宙は地球を中心として、動いていたと解釈されていた。今、思えば随分と自己中な考え方だと思う。それが、ある時、コペルニクスにより否定された。きっと、彼は自分を超えて客観的に地球を見つめていたのだろう。
 いつの時代も、主観でしか物が見れない人がいる。しかし、この主観は客観の上に成り立っているのだ。
 コロナ禍の世界もこの主観で考えれば、早くコロナを撲滅し征服し人間界を中心にことをすませたいと願うだろう。
 しかし、世界は人間だけで成り立っているんではないという客観的な立場に立てば、私たちの幸せも地球号があってこそなのだから、その中で考えないといけないという結論になる。
 人間中心の主観から地球中心の客観に頭を切り替えていかないともう地球が持たない所に来ている。沢山のグレタさんの出現が必至な時なんだ。地球がだめになれば、人間も生きていけない世の中になって来ているのだということを理解せざるをえない時代になっているのだ。
 すべて主観は客観という上に成り立っている。まあ、あくなき欲望の資本主義も即刻方向転換をしていかないと、もう、地球という客観ももたない所に来ているという事だ。実態経済を上回って貨幣経済だけが膨張していることはありえない。今こそ、全世界が一丸となってエゴを捨て、パラダイムシフト変換をしていかないと人類そのものが危なくなっている。どこまで、エゴなのか、人間はと想ってしまう。
 プラごみの問題も、昨夜NHK特集でやっていたが、危機的状況のようだ。また、どこかで、この辺を述べてみたい。
 先進国や国連が中心となって、この時代をどうするかを真剣に考え実行に移してほしい。
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人生「あれか、これか」の連続

2021年06月04日 | エッセイ
コロナ2年6月4日

 今、私が息をしているのが、ここ、今という刹那であります。人生はその刹那が積もっていってできるのです。こうして、書いている間も時は流れていっています。チャンスは瞬時になくなってしまうかもしれません。
 私たちはこうして、いつも、「あれか、これか」の選択上にあるわけです。今、こうしていると、高校生の時に学習した倫理社会の中に出て来た実存主義者キルケゴールの 今の決断と行動が、未来の自分の経験となってくれる。
 「生きる」とは今という瞬間にしか成しえないこと。であるならば、過去ではなく今という瞬間に注力して前を向くことが大切なのだと、キルケゴールの言葉に触れている感じにさせられました。 
 しかし、日常は誰も、こんなことを意識して生活しているわけではありません。しかし、無意味にしていたその刹那刹那も、振り返って考えてみますと、その瞬間でどちらかの道を選んでいるのです。だから、「あれか、これか」なんです。
 本当は、道はもっと、幾重にも複雑になっていたのかもしれません。しかし、大きくとらえれば、その二つを選択して来た結果、今の私があるのです。
 これが、自分で選べる場合と、自分以外の大きな力で成り立っている場合があるのです。それが、運命です。コロナ禍も自分では選べれない運命のいたずらです。
 そうすると、このことは個人というよりも大きな人類というくくりで考えないと、結論がでません。まさに、今は、人類の実存が問われているのです。個人の実存から人類への実存が問われ始めているのです。  
 今、まさに、私たちはそこに来ているのです。今まで誰もが経験したことのない新しいワクチンを打つのか、打たないのか。
 体制としては、今、人類として打つ方向に大きく舵を切っている。個人では民主主義ですので、一応はどちらかを選ぶことはできます。しかし、体制は新しいワクチン接種に行っています。
 「実存主義」とは、簡単に言うと、「人間一人一人の存在を大事にし、どう生きるか考えること」です。でも、今は人類の実存がまさに問われています。  
 まさに、今は、エネルギーを大量に使う資本主義の存亡がかかっている事態だといえましょう。民主主義と全体主義についても、また、どこかで、述べてみたいと思います。


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