玉俎風蘋を薦め、金罍月桂浮かぶ。天縦の神化遠く、万代芳猷を仰ぐ。
(懐風藻~岩波・日本古典文学大系)
から人のかしこき影をうつしとめて聖の時とけふまつるなり
(年中行事歌合~群書類従)
十一日はしやくてんなり。あさがれひにて、「ありつぐそうず・ゆゝしきみちの人々、詩つくりてあそぶらんこそゆかしけれ。などこの殿上などにてなかるらむ。さもあらば、たちきゝてむ。」など、人々おほせられしかば、辨内侍、
道しあらば尋ねてぞ聞かん敷嶋や倭にはあらぬ唐のことのは
(弁内侍日記~群書類從)
天長二年八月戊申(八日) 釈奠に伴い大学博士・学生らを紫宸殿に召して、論議させ、身分に応じて物を下賜した。博士従五位下伊予部連真貞の論旨の展開と用語が優れており、勅により次侍従に補任することになった。
(日本後紀~講談社学術文庫)
天長三年八月戊戌(三日) 大学博士従五位下伊予部連真貞と直講・学生らを紫宸殿に召して、儒教の経典についての論議である内論議を行った。これは釈奠に伴う慣例となっており、禄を下賜した。
(日本後紀~講談社学術文庫)
長徳三年八月六日、戊戌。
今日は釈奠の内論議である。天皇が紫宸殿に出御されるということを、昨日、左大臣(藤原道長)の宣を承って、左大史(多米)国平朝臣に伝えた。また、蔵人(藤原)広業に命じて、御簾を懸け、内侍を召させた。
辰剋、所司が紫宸殿の室礼を行った。その儀は、天皇が出御しない節会と同じであった。(略)
(権記~講談社学術文庫)
藤原守光重病を冒して薩摩より釈奠に馳せ参ずる事
大監文物藤原守光は、侍学生の中には名誉の物にてなむ侍ける。嘉応年中に、むこ薩摩守重綱にあひぐして、彼国へ下(くだり)たりけり。承安三年、重病をうけて、日来(ひごろ)なやみけるが、少よくなりたりけれども、猶れいのさまにはなかりけり。さりながら、八月以前に上洛して、釈奠にまゐらむと思たちけり。したしき物ども制しけれども、猶いひてのぼりぬ。八月七日、疲極しながら、小袖のうへに、下重うへの衣計(ばかり)をきて、廟門にまゐりたりけるに、宴座とまりければ、まかり出にけり。さしもはるかなる道を、しかも病につかれたる身にて、からくしてのぼりたるに、むなしくて出にける、いかにほいなかりけむ。心ざしのいたり、是も宿執にひかれて哀(あはれ)なり。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)