二月のはつさるなれや春日山みねとよむまていたたきまつる
(永久百首~群書類従11)
春日祭 歌林苑
すへらきの戴きまつる春日山けふはさる日と神も知らむ
(林葉和歌集~群書類従15)
元弘三年立后月次屏風に、春日祭の儀式ある所を 後醍醐院御製
立よらはつかさつかさも心せよ藤の鳥ゐの花の下陰
等持院贈左大臣
諸人もけふふみ分て春日野や道ある御代に神まつるなり
(新千載和歌集~国文学研究資料館HPより)
けふまつる神の心やなひくらむしてに波たつさほの河かせ
けふまつるみかさの山のはふりこは天の下をそ祈りこひける
春の日も光ことにやてらすらん玉くしのはにかかるしらゆふ
(文治六年女御入内屏風~群書類従11)
けふまつるあともいく世かつたへくる春日の原の二月のそら
(「藤原定家全歌集」久保田淳校訂、ちくま学芸文庫)
神もけふなびくしるしもみかさ山たむくるしでに春風ぞふく
(名題和歌集)
弁にはへりけるとき、春日祭にくたりて、周防内侍につかはしける 中納言資仲
万代をいのりそかくるゆふたすき春日の山の嶺のあらしに
(新古今和歌集~国文学研究資料館HPより)
内侍に侍ける時、春日祭にたひたひむかひける事を思ひて 花園院兵衛督
神まつるその折をりに立馴て見し世恋しき春日のゝ原
(新千載和歌集~国文学研究資料館HPより)
弘安十一年二月五日、春日祭に立つ。上卿一條大納言、辨には兼仲なり。雨すこし降りて霞みたるに、木津(こづ)川の端を行けば、橋あり。柴を組みて渡したる橋と申す。
(中務内侍日記~有朋堂文庫「平安朝日記集」)
嘉禎元年二月九日壬申。春日祭。左中弁兼左少将実雄朝臣為上卿代被参行。如法辰刻新発。弁侍随身前駈諸大夫前行。直衣柏夾紫奴袴帯剣。去四日下禁色宣旨。見物之輩済々焉。
(百錬抄~「新訂増補 国史大系11」)
(寛弘元年二月)五日、己未。
(略)夜に入って、出立の儀が終わった。
祭使と陪従の饗は頭中将経房が奉仕した。公卿と殿上人の饗は左衛門督が奉仕した。諸大夫の饗は(高階)明順朝臣が奉仕した。
渡殿の饗は少将(源)済政が奉仕した。陪従の官人を饗の座に加えたのは十二人であった。参った者は数にしたがって加えた。左が十人であった。
皇太后宮(藤原遵子)から袴一腰が贈られた。中宮(藤原彰子)から袴二腰が贈られた。唐綾の青摺の文縫(あやぬい)のものである。(略)
六日、庚申。
暁方から雪が降った。深さ七、八寸ほどであった。左衛門督(藤原公任)の許(もと)に書状を送った。和歌を添えた。返り事が来た。道貞朝臣を遣わして、右大将に昨日の参列の感謝を伝え送った。
六日。雪が深い。早朝、左衛門督の許へこのように云って送った。
若菜摘む春日の原に雪降れば心遣(づか)ひを今日さへぞやる
その返り事は、
身をつみておぼつかなきは雪やまぬ春日の原の若菜なりけり
花山院から仰せを賜った。女房を遣わして贈られた。
我すらに思ひこそやれ春日野のをちの雪間をいかで分くらん
私の返り事は、
三笠山雪や積むらんと思ふ間に空に心の通ひけるかな
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
(建保元年二月)一日。春日の使、頗る結構の由を聞く。仍て二条大路に出でて見物す。前駆諸大夫六人の中(六位一人狩袴)、各々布衣。次で随身四年、移馬に騎す(紺の狩襖・貲袴・狩胡六を帯す、毛沓)。次で使、綾の薄色の指貫(色殊に薄し)。次で雑色八人歩行。蘇芳単の狩衣・袴青衣。次で侍七八人。遅参する者有るが若(ごと)くなり。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)