ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

心に きざんで・・・

2018-01-05 21:34:43 | 時事
 平成30年(2018年)の新年を迎えた。
元日、伊達は1日雨が降り続いた。
 すっかり雪が消えてしまった。
春と間違って、庭の宿根草が芽を出したりしないか、
ふと心配したりしている。

 さて、昨年の年の瀬、
私が愛読する朝日新聞の2つのコラムに、
連日、心が揺れた。

 『折々のことば』の鷲田清一さんも、
『天声人語』の執筆者も、
この1年の総括として、想いを記したのだろう。

 そんな受け止め方と同時に、2つのことを心にきざんだ。


  その1

 まず、27日『折々のことば』である。

中野翠さんは『この世は落語』に記した。
 『「ためになる」とか「役に立つ」以外のものは
存在しちゃいけないような風潮がある…どうにも不快なんです』。

 次にコラムの解説が続く。
『落語のいいところは、…「存在を楽しく許している」ところ。
ものごとには表と裏、底と天井、さらには抜け穴すらあって…、
損得より大事な物差しがあることを教えてくれる』


 そして、28日『天声人語』である。

まず初めに、福沢諭吉が、
子ども達に渡した桃太郎の教訓が紹介されている。
 『英雄のはずの桃太郎が、
もしかしたら強盗殺人犯かもしれない』と言うのだ。

 そのような事例等通して、コラムはこう結ぶ。
『相手の側に立ってみれば、見える風景ががらりと変わる。
ものごとの複雑さも分かる。
 …自分にとって正義でも、
別の人からすれば理不尽な振るまいかもしれない。
 忘れてはいけない視点であろう。
身近な人との関係でも、歴史や国際関係を考えるときも。』


 さらに、29日『折々のことば』が続く。

お笑いコンビ・カラテカの矢部太郎が、
年老いた大家さんと手をつないで、散歩に出た。
 その時、『年だからもう転べないのです 
矢部さんはいいわね まだまだ何度でも転べて』

 しかし、コラムは力説する。
『やり直しできるのは若者の特権。
 なのに、一度躓いて無能との烙印を押されればそこで終わり。
やり直しを許してくれない社会はむごい。』


 ※『「ためになる」とか「役に立つ」以外のものは
存在しちゃいけない』。
 『別の人からすれば理不尽な振るまい』。
そして『やり直しをゆるしてくれない』。
 確かにそんな風潮が蔓延している現代と言える。

 だから、『損得より大事な物差し』が重要なのだと思う。
おそらくその物差しは、『相手の側に立ってみ』ることができる、
『何度でも転べて…やり直しができる』ものだと思う。

 格差が広がり、生きにくさばかりが目につく。
なぜか、胸が詰まることをよく目の当たりにする。
 だからこそ、誰もが、もっと「豊かに」、もっと「やわらかく」、
もっと「ゆったり」と生きることを大切にしたい。
 

 その2

 1つ目は、29日『天声人語』である。

 12月11日に起きた、
新幹線のぞみの台車が破断寸前だった事故を取り上げ、
『無責任体制の同乗はご免こうむりたい。』とコラムは結んでいる。

 さて冒頭、
『衆人環視のなかで、誰からも止められないまま犯罪が行われる。
…そんな事態が時折起きるのを説明する概念』として、
「責任感の拡散」という言葉を紹介している。

 『どうも人間は、「自分がしなくても誰かが手を貸すだろう」と
考えがちな生き物らしい。
人が大勢いるのに誰も何もしないのではなく、
人が大勢いるから何もしない、という見方である』
と、説明している


 2つ目は、30日『天声人語』である。

 冒頭に、故・宮沢喜一さんが、
部下の役人に語った言葉を紹介し、こう述べている。

『「君たち、何があっても、戦争だけはしてはいけない」。
… 20年ほど前に耳にした時には、ぴんと来なかった。
平和を当たり前だと思っていたからだろう。
いまは違う。』

 コラムは続く。
『この1年、戦争の2文字がちらつく…。
北朝鮮が核とミサイルの開発を進め、挑発を続けている…。
不幸なのは「小さなロケットマン」などど挑発をし返すような人物が、
米国大統領だということだ。』

 そして、最後にこう強調する。
『不可解なのは、万が一の時、
…被害想定すら政府が示さないことだ。
どこかひとごとのような奇妙な危機意識が広がっている。
間違っても核戦争が起きることなく、来年の年末を迎えたい。
切にそう願う。』


 ※ 誰しも、読後の重たさは半端でないだろう。
私も同じだ。
 第一線のジャーナリストが、『切にそう願う』と書くまで、
危機は迫っている。
 
 昨年9月15日朝7時過ぎ、Jアラートが鳴った。
ジョギング中のスマホも鳴った。
 逃げるところも、隠れるところもない。
そのまま走り続けた。
 でも、「まるで戦時中の空襲警報みたい・・!」
不快と不安を強くした。

 政府からは、北朝鮮への抗議声明はあったものの、
国民をこんな国際情勢下に置いていることの政治責任や、
謝罪の弁など一切ない。

 『天声人語』にあった
『自分がしなくても誰かが』と言った『責任感の拡散』、
『どこかひとごとのような奇妙な危機意識』の言葉が、
胸に刺さる。

 せめて、『自分がしなくても』や『ひとごと』にするのは、
止めにしたい。心にきざんだ。


   *   *   *   *   *   *


 ◎引用したコラムを添付する。

 ① 27日『折々のことば』
いまは「ためになる」とか「役に立つ」以外のものは
存在しちゃいけないような風潮があるけれど、
私はそれがどうにも不快なんです
中野 翠
  落語のいいところは、損得と関係なしに
「存在を楽しく許している」ところ。
  ものごとには表と裏、底と天井、
 さらには抜け穴すらあって、
 それを覗かせながら笑いに転化させる落語は、
 心の機微の分かるオトナになるための格好の教材。
  損得より大事な物差しがあることを教えてくれると
 コラムニストは言う。  『この世は落語』から。


 ② 28日『天声人語』
 福沢諭吉は毎朝の食事の後、
幼い子どもたちを書斎に呼び、教訓を書いて渡していた。
ある日の教えは、桃太郎についてだった。
「もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、
たからをとりにゆくといへり、けしかならぬことならうや」

▼鬼ヶ島にある宝は、鬼の所有物である。
それを理由もなく取り上げるとすれば、
むしろ桃太郎は盗人ともいうべき悪者であると福沢は書いた。
子どもたちはどんな顔をしただろう。
英雄のはずの桃太郎が、もしかしたら強盗殺人犯かもしれないのだ

▼まるで福沢の発想を前に進めたかのようである。
桃太郎の故郷を任ずる岡山県で、
鬼の側から考える授業があると
先日の本紙夕刊(東京本社版など)が伝えている

▼退治された鬼に、もしも子どもがいたらどうだろう。
「鬼太郎」というキャラクターを作り、中学生に投げかける。
それでも桃太郎は退治をしたのかどうか、議論が発展する。
そもそも鬼退治を思い立ったのは
「鬼を悪者と決めつけてしまったから」
という意見も出たという

▼相手の側に立ってみれば、見える風景ががらりと変わる。
ものごとの複雑さも分かる。
今年引退した最年長棋士、加藤一二三さんも、
それを肝に銘じていたのかもしれない。
対局中に相手の側に回り込み、盤面を眺めることがよくあった

▼自分にとって正義でも、
別の人からすれば理不尽な振るまいかもしれない。
忘れてはいけない視点であろう。
身近な人との関係でも、そして歴史や国際関係を考えるときも。


 ③ 29日『折々のことば』

年だからもう転べないのです 矢部さんはいいわね
まだまだ何度でも転べて
                矢部太郎の大家さん
  お笑いコンビ・カラテカのボケ役は、
 おっとり上品な物腰の大家さんと仲良し。
  手をつないで散歩に出た時、
 年老いた彼女が覚束ない足どりを詫びてこう言った。

  年がいくと悔いがあってももうやり直せない。
 やり直しできるのは若者の特権。
  なのに、一度躓いて無能との烙印を押されればそこで終わり。
 やり直しを許してくれない社会はむごい。
               矢部の漫画『大家さんと僕』から。

 ④ 29日『天声人語』
 社会心理学の本を読んでいて
「責任感の拡散」という言葉を目にした。
衆人環視のなかで、誰からも止められないまま犯罪が行われる。
通報すらなされずに。
そんな事態が時折起きるのを説明する概念である

▼どうも人間は、
「自分がしなくても誰かが手を貸すだろう」
と考えがちな生き物らしい。
人が大勢いるのに誰も何もしないのではなく、
人が大勢いるから何もしない、という見方である
(岡本浩一著『社会心理学ショート・ショート』)

▼そんな心理が働いたのかもしれない。
今月11日、新幹線のぞみの台車が破断寸前にまで陥った。
車内にいた乗務員や保守点検担当者ら11人全員が、
音やにおいなどの異常を感じていたが、
停止の判断に至らなかった

▼東京の司令員ともやり取りしていたが、
お互いに判断を譲り合った。
車内の担当者は、どの駅で停止すべきか
東京が決めてくれると考えた。
東京側は、必要なら車内から
はっきり意思表示があるだろうと思っていた。
連絡の聞き漏らしもあり、そのまま3時間走り続けた

▼野球で言えば、みすみすポテンヒットを許すようなものだ。
大声を出し、迷ったら自分が前に出て球を捕る。
そんな当たり前のことができなかった。
もしも脱線していたらと思うと背筋が寒くなる

▼国鉄時代には下駄代わりの気軽な交通手段として
「下駄電」と呼ばれる電車があった。
旅行、出張、そして帰省の足として、
新幹線も今や下駄電なみの身近さだろう。
無責任体制の同乗はご免こうむりたい。


 ⑤ 30日『天声人語』
 「君たち、何があっても、戦争だけはしてはいけない」。
多くの大臣を経験した故・宮沢喜一さんが折にふれ、
部下の役員たちに語っていた言葉である。
20年ほど前に耳にした時には、ぴんと来なかった。
平和を当たり前だと思っていたからだろう。
いまは違う。

▼起きるはずがないと思っても、戦争は起きる。
宮沢さんは、そう言いたかったのだろう。
言葉の重みを感じるのは、
この1年、戦争の2文字がちらつくようになったからだ。
北朝鮮が核とミサイルの開発を進め、挑発を続けている

▼現在の危機は、長い年月の結果である。
不幸なのは「小さなロケットマン」などと
挑発をし返すような人物が、
米国大統領だということだ。
外交を担う国務省幹部の任命も遅れ、
機能の低下が危ぶまれている

▼先月の紙面で、
元米国国防長官ウィリアム・ペリーさんが
もどかしそうに語った。
「私が驚くのは、
実に多くの人が戦争がもたらす甚大な結果に
目を向けていないことです」。
もしも核戦争になれば、韓国は朝鮮戦争の10倍、
日本も第2次大戦並みの犠牲者が出るかもしれない。
だからもっと真剣に外交を、との訴えである

▼「国難」なる言葉で北朝鮮を前面に出した選挙があった。
不可解なのは、万が一の時、
人間の肉体がどれだけ破壊される危険があるのか、
被害想定すら政府が示さないことだ。
どこかひとごとのような奇妙な危機意識が広がっている

▼間違っても核戦争が起きることなく、来年の年末を迎えたい。
切にそう願う。





   三が日もフル操業 製糖工場
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それよりも もっと寂しい今に

2017-10-20 22:38:06 | 時事
 ずっと続いているが、毎年年賀状には、
自作の詩を添えている。
 その中から、30年前、1987年の『今 わたし』を転記する。

      今 わたし

  鉄鋼・造船の不況に喘ぐ街からも
  これが最後と閉山に涙する町からも
  久しぶりの筆跡
  なつかしい口調
  定まりの言葉の中に
  やすらぎを載せ
  私はひととき
  故郷に思いをはせる

  決まって三交替のサイレンが鳴り
  工場から
  掃き出されるように
  吸い込まれるように
  人々が忙しく動き出す鉄の町

  一日中鉄索がガチガチガーガーと
  石炭を山積み
  川には真っ黒い水があふれる産炭地

  家族が卓袱台に集い
  一本の電線につり下がった電球の下で
  皿に盛られたおかずを競う時が
  ここにも あそこにも
  それは
  カルチャー ファッション グルメとは
  無縁の時代

  そして 私は 今
  コンクリートの林と
  鉄の扉の玄関と
  窓辺にはサザンカが
  赤く咲き乱れる季節に


 ▼ この詩に沿いながら、最初に私と家内の、
10歳前後の暮らしぶりから振り返ってみる。

 私が過ごした鉄の町は、いつもどこかから工場音がしていた。
特に、一日に3回鳴り響くサイレンがその象徴だった。

 その合図と共に、大きな工場につながる道路は、
製鉄所の専用バスと工員さんであふれた。
 その光景は、子どもながらに、町が生き物のように思えた。
 
 広い製鉄所の中に、5本の高い煙突が立つ工場があった。
小学生の頃、そこが見える小高い丘で写生をした。
 私は、その工場と一緒に、
そこへ向かう工員さん達や専用バスを沢山描いた。

 「人もバスも見えないよ。見たとおり描きなさい。」
先生に注意されても、私は消さなかった。

 余談が過ぎた。
しかし、当時鉄の町は、工場にも働く人たちにも力強さがあった。
 小さいながらも、きっと、
それを絵にしたかったのではなかろうか。

 さて、家内はどうだったのだろうか。
いくつもの炭鉱がある町で彼女は育った。

 掘り出された石炭は貨物列車がある駅に集められた。
その集積方法は、トロッコだの、トラックだの様々だった。

 その1つに、山奥の炭鉱から駅の集積場まで、
高い鉄索を等間隔に立て、ケーブルを張る。
 そこに大きなバケツをつるし、
山積みした石炭を運ぶ方法があった。

 家内の家の近くに、そのケーブルがあった。
いつも鉄索とケーブルがすれる音がしていた。
 時に、石炭の真っ黒い水滴が、洗濯物を汚した。
でも、それに腹を立てる人は少なかった。

 それより、時々そのケーブルのバケツに、
石炭ではなく、炭鉱夫が乗っていることがあった。
 「危険きわまりない行為だ。」

 それに驚き怒るどころか、
子ども達はバケツに乗る炭鉱夫を見ると、
みんな遊びをやめ、それぞれ、空に向かって大声で叫んだ。
「テッサクーの、おーじさーん!」 

 すると、危険きわまりないおじさんは、
下の子ども達に大きく手をふってくれるのだ。
 子ども達は、それが嬉しかった。

 今度は、子ども達も大きく手を振り、再び叫ぶのだ。
「テッサクーの、おーじさーん。オーーイ!」
 そのおじさんが、頭上から見えなくなるまで子ども達は、
声を張り上げ、手を振り続けた。
 家内も、そんな子の1人だった。

 山に囲まれた小さな盆地。
あの頃、この町で子ども達を笑顔にした微笑ましい風景である。


 ▼ それから30年が過ぎ、『今 わたし』を記した年。
その年から、バブルと呼ばれる時代がはじまった。
 当初、私にその実感は全くなかった。

 それよりも私の故郷は、
『鉄鋼・造船の不況に喘いでいた』。
 そして、家内の実家がある産炭地は、
『これが最後と閉山に涙』していた。
 そのことに私の心は痛んだ。

 だが、一方で、カルチャーだとか、
ファッション、グルメなど、使い慣れない言葉が、
テレビや新聞、雑誌を賑わしていた。
 それまでとは違う時代の始まりを、
あの痛みと同時に予感していた。

 当時、私は首都圏の新築分譲団地で暮らしていた。
整然と並んだ5階建ての団地群は、
まるで『コンクリートの林』のように見えた。

 そんな無機質な住居を補うように、
団地内の芝生の敷地には、四季折々の草花が植えられた。
 そこに咲く花が、つかの間の時間を、私たちに提供してくれた。
特に、北国育ちの私には、冬の真っ赤な山茶花には、
つい心が奪われた。

 確かに、暮らしには、
様々な新しさ、豊かさが加わっていた。
 10歳のそれとは、明らかに違う。
そんなライフスタイルが定着していった。


 ▼ そして、今である。
驚くことに、6人に1人の子どもが、貧困の中にいると聞く。
 そして、都会と地方の2極化が、進んでいる。

 『今や、地方は疲弊の道を突き進んでいる。』
それを言い過ぎと否定できない現実を、随所に見る。 
 『地方の町は、寂れていくだけ。』
伊達に移り住み、私は、各地の町並みで、それを実感する。

 一見、時代の大きなうねりの中で、
暮らしは便利に変化し、豊かさを漂わせているように思う。

 しかし、1つの明かりの下に家族がそろい、
大皿に盛られたおかずを囲んだ夕食風景は、姿を消してしまった。
 今では、仕事や塾に追われ、スーパーの惣菜を並べ、
家族それぞれが、自分の時間帯で食事している。

 もしかすると、30年前のあの『不況に喘い』だまま、
『閉山に涙』したままが、続いているのではないだろうか。
 いや、それよりももっと寂しい今になっているのでは・・・。





エッ! 近くの畑でヒマワリが満開! ビックリ!
 
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立ち止まって

2016-04-08 22:04:37 | 時事
 もう名刺など要らないのに、
パソコンで簡単に作成できたからと、
持ち歩いている。
 しかし、さほど使う機会はない。

 その名刺にある私の肩書きは、元小学校長でも、
某研究会顧問でもなく、『素浪人』とした。
 本当は、『竹光さえ持てぬ情けない素浪人』としたかったが、
長過ぎたので、自ら却下した。

 さて、その『素浪人』の暮らしぶりだが、
2年前に右肘の手術をし、以来、好きなゴルフができず、
そのうっぷんもあって、
ジョギングとマラソン大会参加を楽しみに、日々を送っている。

 しかし、それだけでは飽き足らず、
その上、これ以上老け込まないうちにと言った思いもあって、
やれドライブだ、読書だ、創作だ、四季折々の散策だ、
温泉だ、美食だ、山登りだ等々と、
次から次と楽しみを作り、今をおう歌している。
 さらには、いつか再び、お役に立てる機会があれば、
何かの力にと、思ったりもしている。

 そんな私だが、周辺にあるつい見逃してしまいそうな、
ちょっとした出来事に、立ち止まってしまうことがある。
 心が揺り動かされたいくつかを、
手当たり次第、列記してみる。


 <1>
 若い頃から朝日新聞を愛読している。
その理由の1つが、『天声人語』である。
 毎朝、それに目を通すのが習慣だ。

 その鋭い視点に、深く教えられることは、今も変わらないが、
それに加え、最近、同じ一面にある『折々のことば』にも、
よく目が止まる。
 鷲田清一さんの哲学的な思考が、
私には、とても新鮮なものに感じられる。

 3月下旬、そのコラムにこんな一文があった。

『教育においてもっとも大切なことは、すべて
 を意識化してはならぬということ、またそん
 なことはできぬと諦めること
                 福田恆存
   教育は「信頼が支配する領域」。見張る
  かのように警戒や不信の目で子どもを見る
  人は、子どものみならず、子どもに対する
  自分の態度をも信じていない。つまり、人
  のあいだで最初に立ち上がり最後まで残る
  「自然発生的なもの」を信じていない。教
  育は計算してどうこうなるものではないと
  評論家は言う。「教育・その本質」から。』

 これは、子どもに限ったことではないと思った。
人として成長する本質と言えるのではなかろうか。

『信頼が支配する領域』
『警戒や不信の目で見る人は…自分の態度をも信じていない。』
『計算してどうこうなるものではない。』
 同感と感動である。
人を育てることの真理を見事に言い当てていると思う。
心が熱くなった。

 時々、若い先生をはじめとした声に、
表立ってはいないものの、
パワハラかと思える言動を見る。

 そんな管理職の机上に、
この新聞の切り抜きを置いておきたいものだ。

 
 <2>
 プロ野球の人気選手だった人が、
覚せい剤の所持と使用で逮捕された。
 野球選手を夢見て、練習に励む子ども達を思うと、
残念でならない。

 その覚せい剤について、こんな新聞記事があった。

 『覚せい剤の成分メタンフェタミンは1893年、
薬学者の長井永義が合成に成功した。
第2次世界大戦中、日本はメタンフェタミンを、
欧州では別の覚せい剤成分アンフェタミンを兵士に与え、
士気高揚や恐怖心克服、疲労回復などを図った。』

 改めて、戦争の残酷さや悲惨さ、非人間性を知った思いがした。
今では、使用そのものが犯罪とされる薬物が、
正々堂々と兵士に与えられていた事実。

 そのねらいは、士気の高揚。
つまりは、戦闘、殺りくのやる気を高めるため、
そして、人の命のやり取りや破壊への恐怖心を、
克服するために使われたのである。

 新聞記事にはこんな記述もあった。
『使った瞬間、脳がクリアになり
何でもできるという万能感に支配される』。

 きっと、兵士たちはそんなニセの高揚感を持たされ、
戦場に立たされたのだろう。
 こんな犯罪が他にあるだろうか。

 強い憤り、そのやり場がないままでいる。


 <3>
 2月のニュースだ。
 JR登別駅で、乗客の荷物を無料で運ぶ、
ポーターサービスの実証実験が、始まったとあった。

 これは、外国人旅行者から、
大きな荷物を持って、改札口と駅ホームを結ぶ階段の昇降が、
大変だという声を受けてのことらしい。

 確かに、エレベーターを設置すれば、それで済むことだが、
今のJR北海道にはその力がないように思う。
 そこで、旧国鉄時代、上野駅や青函連絡船で活躍していた、
赤帽さんにヒントを得たのか、
荷物運びの助っ人、つまりはポーターサービスとなったのだろう。

 新聞記事によると、実証実験初日は、
『市職員と委託業者の6人が10本の特急に合わせて実施。
うち5人は普段は公共施設の除雪などをしている60~80代だ』とのこと。

 それを利用した『中国から夫婦で訪れた30代女性は
「中国ではないサービスで優しいですね。
でも、ポーターがお年寄りで頼むのが恥ずかしい」
と話した』そうである。

 外国人旅行者は、旅行したその時、その国で出会った人や物、
気候、風景を通して日本を知り、
それが日本のイメージとなるのである。
 それは、私たちが海外にいった場合も同じである。

 さて、60~80代のポーターを見て、
外国人は、日本の労働環境をどう受け止めただろうか。
 高齢になっても、元気に働く人たちがいる国と思っただろうか。
 いや、『頼むのが恥ずかしい。』の声は、
決してそんな風には見えていないように思う。。

 そうだ。誰に対しても
「あるがまま」、「ありのまま」でいいんだ。
 でも、それにしても、ポーターの年令について、
心にすき間風が・・・。それは、私だけ。


 <4>
 温泉大好き人間ではないが、
近くに気軽に入れる温泉があるのは嬉しい。
 今は、月に1、2回、右手のリハビリを理由に、
日帰り温泉へ行く。

 さて、最近テレビでは旅番組が頻繁である。
中でも、地元北海道のよさを取り上げたものに、
目が行ってしまう。
 それを見て、「今度、是非に」などと、
一人刺激を受けたりもしている。

 もう2、3年前になるだろうか。
道南・函館方面を紹介するものがあった。
 いわゆる旅人が、
さほど名の通ったところでない小さな港町や、
農漁村を訪ね歩くものだった。

 私も一度だけ行ったことがあるが、
函館から恵山にむかう道からの海岸風景が、
海と空の青さが一つになり、ひときわ綺麗に映し出されていた。

 番組では、旅人がふと立ち寄った港町の、
しかも、その町の人だけの共同温泉浴場を紹介した。

 海岸べりにあって、7、8人がやっとの
海に向かって、半分露天のような浴場だった。

 旅人が尋ねると、地元の年寄りは、
「お風呂は1つだけだ。」と言う。

 「すると、混浴ですか。」
「そうだよ。1つだもの。」
「それじゃ、みなさんご一緒に。」
「そうさ。」

 ビックリ顔の旅人に、
「何もだ。だって、小さい頃から一緒だもの。」
表情一つ変えずに言った。
 「そうですか。そうですか。」
旅人は、そう応じるのが精一杯。

 私も、旅人と同じ心境だった。
そんな大らかさは、私のどこにもないと思った。

 あの真っ青な大海原のもとでの暮らし、
だからこそ育つ感情なのだろう。
 そう理解することに決めた。




水芭蕉が咲いた(だて歴史の杜公園・野草園)
 
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『真の平和への道筋』

2015-08-07 22:03:11 | 時事
 1945年7月15日、前日の空襲に続き室蘭市は、
アメリカ艦隊計13隻による艦砲射撃を受けた。
 午前9時30分から10時30分までの1時間に、
1トン砲弾860発が打ち込まれた。

 アメリカのねらいは、軍事工場であった製鉄所と製鋼所だった。
ところが、その社員が暮らす住宅地にまで砲弾は飛んできた。
 死者485人のうち439人が、一般市民だった。

 私は、戦後生まれであるが、家族は皆、その砲撃の渦中にいた。
まだ3歳にも満たない姉も、何故かその時の恐怖が脳裏にあると言う。

 私は、幼い頃からくり返し、
その日の地獄絵のような様相を、父から聞かされた。

 「爆撃が治まり、防空壕から出て真っ先に見たものは、
電線に宙づりになっていた血だらけの死体だった。
だが、それには頭も首も腕もなかった。」
 「隣の防空壕は、跡形もなく吹き飛び、
逃げ込んだはずの人は1人もいなかった。
ただ静まりかえり不気味だった。」

 小さな私の心は、そんな話を聞くたびに、
震えが止まらず、母にしがみついた。

 話の終わりに、両親は、口をそろえて
「あんなことは、二度と絶対にあってはならない。」と言った。

 私は、そんな両親からの体験談を通し、
戦争の恐怖を私自身に染みこませた。

 しかし、『戦争を知らない子供たち』ではないが、
今や『戦争を知らない初老』である。

 先日も、報道で知ったことであるが、
沖縄戦では、北海道出身の兵士が、
他県に比べて多数戦死しているとか。
 その訳を、ある学者が、
「沖縄人と北海道人の命を楯にしたのではなかろうか。
それは本土の人間とは違うと言った考えがあったように思う。」
と話していた。

 それを、簡単に鵜呑みにはできないが、
戦争の残虐性を改めて知らされた思いがした。
 真実ならばと、大きな憤りも感じた。
 そして、自己反省とともに、
戦争を知らない者として、70年前の惨劇を、
今後も機会ある毎に、心して学び続けなければと思った。

 過去、身近にこんな事があり、心に刻んだ。
 もう10年も前である。

 今も続いているだろうが、
私が着任した東京都内の小学校では、
東京大空襲や太平洋戦争開戦の日あたりに、
平和についての行事が組まれていた。

 当時、私が赴任していた学校でも、
『平和を考える集会』が計画されていた。
 担当の先生が、校長の私に相談を持ちかけてきた。

 私の学校は、東京大空襲で校舎が全焼し、
学校へと逃げ込んだ人々の多くが犠牲になった。
 担当者は、「その惨状を子供たちに伝えたい。」
「この地域で、空襲体験をした方に、その様子を全校児童に話してもらいたい。」
と言うのである。
 私は、その提案に賛成した。
担当者は、私に、語り手の依頼を託した。
私は、何のためらいもなく快諾した。

 早速、地域の有力者Mさん宅を訪ねた。
そして、集会の主旨と具体的な計画を説明し、語り手捜しをお願いした。
Mさんは、「学校のお力になれるなら。」と引き受けてくれた。

 それから半月、ヤキモキさせられたが、
集会の2日前、ようやく語り手が決まったと連絡があった。
 集会の日に、現れたのは顔馴染みのお店のご主人Sさんだった。

 下町特有の口調で、空襲の恐怖を全校児童に30分も話し続けてくれた。
「真っ黒な死体が、爆風で布きれのように、
いくつも転がっていった。」
「学校の玄関の床石には、焼けた死体の黒い跡が残り、
何年経っても目をそむけた。」
 体験者でなければ語れないことが、次から次へと続いた。

 翌日、お礼のため再びMさん宅を訪ねた。
 そこで教えて頂いたことが、今も強く心を捉えている。
Mさんは、私からの語り手依頼を受けると早速、
数人の町会役員に集まってもらった。
そこで、語り手の人選をした。しかし、その人選が難航した。
それは、私には思いも寄らないことだった。

 学校の周辺には、何人もの空襲体験者はいた。
しかし、
「Aさんは生きのびたものの、ご両親をなくしている。」
「Bさんもそうだ。」
「Cさんは、兄さんと妹さんを亡くした。」
「Dさんは、確かお祖母さんもお祖父さんも。」
「だから、きっと思い出したくはないだろう。」
「いや、思い出させるのは気の毒だ。」
「Eさんも、Fさんも、頼むわけにはいかない。」
 こんな会話が、次から次へと続き、人選は苦慮したのだと言う。
 そして、ようやく肉親には亡くなった方がいなくて、
空襲体験のあるSさんに頼むことができたのだった。
 
 それまで私は、悲惨な体験であっても、
それを後世に伝えようと言う使命感があれば、
語り手は誰でもできると思っていた。
 しかし、Mさん達の人選の苦慮から、
その体験から受けた苦しみの深さを教えられた。
そして、その傷みをそっと包む人々も知った。
 私は、本当の『戦争を知らない』と赤面し、唇を噛んだ。

 広島に原爆が投下され、70年。沢山の報道特集があった。
その中に、70年がたってはじめて体験を語った方がいた。
 長年閉ざしていた思いの深さと、
どうしても伝えたいと言う思いの強さが、
空襲体験の語り手探しに苦慮したMさん達と重なった。
 再び戦争という惨劇の重大な罪と苦悩をくり返してはいけないと思った。

 そうだ。昨日の平和記念式典での広島市長の平和宣言が心にある。
『武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みの実現に
忍耐強く取り組むことこそが重要だ。』
と、述べ、
『憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を
世界へ広めることが求められる。』
と訴えている。

 市長は式典後の記者会見で、こうも述べた。
「あえて『安保法制』という固有名詞を記述しなくても、
おのずと熟議してほしいという気持ちは伝えられる。」と。

 


    『秋桜』が 咲き始めた
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