年令と共に食への欲が、増していくように思う。
若い頃は、ただお腹を満たしてくれれば、それで十分だった。
だから、食堂に入りメニューを見てもこだわるものがなく、
注文を決めるのに一苦労した。
それが、少しずつ変化し、
今では、日々の最大の関心事が、三度の献立になってきたように思う。
だが、相も変わらず喰わず嫌いが治らず、
北の味覚の代表であるウニ・イクラ等々は、今も全くダメ。
しかし、その反動か、
大好きな食べ物と言えるものもいくつかある。
その一つが、納豆である。
納豆は、物心がついた頃、つまり3、4才の頃から食べていた。
朝食として出てきた最初の記憶に、納豆がある。
あの頃、毎朝、豆腐や納豆等は、
自転車の荷台に積んで売り歩く人がいた。
よく兄姉が、その自転車を止め、買い求めていた。
我が家では、朝の食卓に納豆は欠かせなかった。
熱々のご飯に納豆の朝食を、毎日食べていたと思う。
小、中、高校と進んでも、それは変わらず、
飽きるどころか、好きな食べ物になっていった。
大人になっても、朝食がパン食になった。
代わって夕食で納豆がでた。
それでも、納豆への思いは変わらなかった。
そんな訳で、徐々にではあったが、
私は、食べることだけでなく、
納豆を話題にすることにも、熱を帯びるようになった。
教職につき担任の頃は、ちょっとした時間の合間をぬって、
納豆について子供たちによく語った。
校長になってからは、時折、全校朝会で食についてと称して、
これまた納豆を取り上げ、話をした。
また、ある時は、同僚たちとの酒の席で熱弁を振るった。
ところが、その折々の私の語りは、ことごとく失敗。
納豆への私の熱い思いは、なかなか伝わらず、
周りはほとんど関心を示さなかった。
周りの冷めた空気の中、私には虚しさだけが残った。
それでも、好物・納豆について、書かずにはいられない。
1、納豆の起源
ご存じの方も多いかと思うが、
蒸したり煮たりした大豆を納豆菌で発酵させると、
あの独特のにおいと糸を引いた納豆ができる。
納豆菌は、稲わらに付着している。
だから、煮大豆を稲わらで包んでおくと納豆ができる。
さて、この食べ物の起源であるが、
中世期の農家では、日常食として食べられていたようである。
だが、発明者が誰なのか、それはいつ頃なのか等は、不明のようである。
秋田県横手市の「金沢公園」内に、『納豆発祥の地』という記念碑がある。
この碑には、以下の記述が刻まれている。
『由来・金沢の柵を含む横手盆地一帯を戦場とした
後三年の役(1083ー1087)は、
八幡太郎源義家と清原家衡・武衡との戦いで、
歴史に残る壮絶なものであった。
この戦の折、農民に煮豆を俵に詰めて供出させた所、
数日をへて香を放ち糸を引くようになった。
これに驚き食べてみたところ、意外においしかったので食用とした。
農民もこれを知り、自らも作り、後世に伝えたという。』
伝説的なエピソードである。
どうやら、源義家が兵糧として、農民に差し出させた『煮大豆』が、
わらでつくった俵に詰められていた。
それが自然発酵し、香りを放ちネバネバとした糸を引いた。
義家の率いる軍勢が、それを思い切って食べてみた。
すると意外なほど美味しかった。
これが、伝説的な『納豆の起源』らしい。
私は、この伝説を知るまで、
勝手に納豆の起源をこんなふうに妄想していた。
『収穫した大豆を、料理の下ごしらえとして煮た。
その鍋を移すとき、これまた収穫を終えて束ねてあった稲わらの上に、
煮大豆をこぼしてしまった。
それをそのまま放置しておいたら、
においを放ち、ネバネバとした納豆ができた。
それをつまみ食いしてみたら、美味しかった。』
どこにも根拠のない作り話である。
だが、伝説と同じように、
納豆は偶発的に誕生した食べ物と推測していた。
しかし、納豆誕生にどんなエピソードがあろうと、
発酵した煮大豆が、あのにおいを放ち、ネバネバと糸を引いている。
今でも、それを手にした西洋人は、こぞって顔をしかめる。
なのに、平安末期の頃の誰かであろうが、
はじめてその納豆を口にした人がいた。
その好奇心と探究心、勇気に、私はただただ驚く。
そして、感謝する。
すごい人がいたものだと、今も心が熱くなる。
ある資料に、
「日本人の多くにとっては納豆のにおいは独特であるが、
醤油・味噌・漬け物などの発酵食品のにおいに慣れているので、
そんなに違和感はなくむしろ食欲をそそる
においとして受け取られやすい。」
とあった。
だから中世の日本人は、納豆を口にできたのか?
私は、どうしてもそうは思えない。
2 納豆ご飯の食べ方
納豆は、よくかき混ぜ、
糸がたくさん引くほどうまくなると聞いた。
100回かき混ぜるのが、理想だとする説も耳にした。
その信憑性はともかく、私は納豆に大根おろしと、
適当に醤油を加えたのが好きだ。
人それぞれ、それぞれの工夫があるのだろうが、
刻みねぎ、シラス、生卵、カツオ節などを加えるのもいい。
私は、そんな一工夫した納豆を、熱々のご飯に混ぜて食べる。
まずは、お茶碗の真っ白なご飯の真ん中に、箸で穴を作る。
その穴に、ご飯の量に見合った納豆を入れる。
そして、穴の周りのご飯を納豆にかぶせてから、
箸を使ってよくかき混ぜる。
お茶碗のご飯と納豆が、均等に混じり合うまで混ぜる。
それが完成したら、ご飯茶わんを口まで持っていき、
ご飯と納豆が均等になったものを、口にかき入れる。
私は、これがどの人もしている、納豆ご飯の食べ方だと思っていた。
ところが、もう20年も前になるだろうか、
6年生と一緒に2泊3日の宿泊体験学習に行った時だ。
朝食で、珍しく納豆がでた。
一緒に楽しく食べていたら、私とは違う納豆ご飯の
食べ方をしている子が何人もいた。
「納豆は、いつもそうやって食べるの。」
と訊くと、どの子も当然といったようにうなずいた。
驚きだった。
私と違う納豆ご飯の食べ方は、二通りあった。
その一つは、お茶碗のご飯に、適量の納豆をのせる。
次に、一口程度のご飯とそれに見合った納豆を、
お茶碗の片隅で混ぜ合わせる。
そして、一口で食べる。
再び、一口程のご飯に、納豆を混ぜて食べる。
そのくり返し。
もう一つは、お茶碗には真っ白なご飯。
そして、別の器に溶いた納豆。
混ぜ合わせることなどはせず、
ご飯と納豆を交互に食べていく。
まさに、納豆はおかずの一品のようである。
後日知ったのだが、
納豆の大切な栄養成分は、熱に弱いのだとか。
つまりは、熱々のご飯に納豆を混ぜるより、
ご飯と納豆を別々に食べる方が望ましいのだとか。
しかし、長年の食習慣である。
私はやはり、私の食べ方がいい。
誰がどう言おうと、
美味しいと思う食べ方を、私は変えるつもりない。
北海道糖業道南製糖所(伊達市)
道南各地のビート根が運び込まれ砂糖に
若い頃は、ただお腹を満たしてくれれば、それで十分だった。
だから、食堂に入りメニューを見てもこだわるものがなく、
注文を決めるのに一苦労した。
それが、少しずつ変化し、
今では、日々の最大の関心事が、三度の献立になってきたように思う。
だが、相も変わらず喰わず嫌いが治らず、
北の味覚の代表であるウニ・イクラ等々は、今も全くダメ。
しかし、その反動か、
大好きな食べ物と言えるものもいくつかある。
その一つが、納豆である。
納豆は、物心がついた頃、つまり3、4才の頃から食べていた。
朝食として出てきた最初の記憶に、納豆がある。
あの頃、毎朝、豆腐や納豆等は、
自転車の荷台に積んで売り歩く人がいた。
よく兄姉が、その自転車を止め、買い求めていた。
我が家では、朝の食卓に納豆は欠かせなかった。
熱々のご飯に納豆の朝食を、毎日食べていたと思う。
小、中、高校と進んでも、それは変わらず、
飽きるどころか、好きな食べ物になっていった。
大人になっても、朝食がパン食になった。
代わって夕食で納豆がでた。
それでも、納豆への思いは変わらなかった。
そんな訳で、徐々にではあったが、
私は、食べることだけでなく、
納豆を話題にすることにも、熱を帯びるようになった。
教職につき担任の頃は、ちょっとした時間の合間をぬって、
納豆について子供たちによく語った。
校長になってからは、時折、全校朝会で食についてと称して、
これまた納豆を取り上げ、話をした。
また、ある時は、同僚たちとの酒の席で熱弁を振るった。
ところが、その折々の私の語りは、ことごとく失敗。
納豆への私の熱い思いは、なかなか伝わらず、
周りはほとんど関心を示さなかった。
周りの冷めた空気の中、私には虚しさだけが残った。
それでも、好物・納豆について、書かずにはいられない。
1、納豆の起源
ご存じの方も多いかと思うが、
蒸したり煮たりした大豆を納豆菌で発酵させると、
あの独特のにおいと糸を引いた納豆ができる。
納豆菌は、稲わらに付着している。
だから、煮大豆を稲わらで包んでおくと納豆ができる。
さて、この食べ物の起源であるが、
中世期の農家では、日常食として食べられていたようである。
だが、発明者が誰なのか、それはいつ頃なのか等は、不明のようである。
秋田県横手市の「金沢公園」内に、『納豆発祥の地』という記念碑がある。
この碑には、以下の記述が刻まれている。
『由来・金沢の柵を含む横手盆地一帯を戦場とした
後三年の役(1083ー1087)は、
八幡太郎源義家と清原家衡・武衡との戦いで、
歴史に残る壮絶なものであった。
この戦の折、農民に煮豆を俵に詰めて供出させた所、
数日をへて香を放ち糸を引くようになった。
これに驚き食べてみたところ、意外においしかったので食用とした。
農民もこれを知り、自らも作り、後世に伝えたという。』
伝説的なエピソードである。
どうやら、源義家が兵糧として、農民に差し出させた『煮大豆』が、
わらでつくった俵に詰められていた。
それが自然発酵し、香りを放ちネバネバとした糸を引いた。
義家の率いる軍勢が、それを思い切って食べてみた。
すると意外なほど美味しかった。
これが、伝説的な『納豆の起源』らしい。
私は、この伝説を知るまで、
勝手に納豆の起源をこんなふうに妄想していた。
『収穫した大豆を、料理の下ごしらえとして煮た。
その鍋を移すとき、これまた収穫を終えて束ねてあった稲わらの上に、
煮大豆をこぼしてしまった。
それをそのまま放置しておいたら、
においを放ち、ネバネバとした納豆ができた。
それをつまみ食いしてみたら、美味しかった。』
どこにも根拠のない作り話である。
だが、伝説と同じように、
納豆は偶発的に誕生した食べ物と推測していた。
しかし、納豆誕生にどんなエピソードがあろうと、
発酵した煮大豆が、あのにおいを放ち、ネバネバと糸を引いている。
今でも、それを手にした西洋人は、こぞって顔をしかめる。
なのに、平安末期の頃の誰かであろうが、
はじめてその納豆を口にした人がいた。
その好奇心と探究心、勇気に、私はただただ驚く。
そして、感謝する。
すごい人がいたものだと、今も心が熱くなる。
ある資料に、
「日本人の多くにとっては納豆のにおいは独特であるが、
醤油・味噌・漬け物などの発酵食品のにおいに慣れているので、
そんなに違和感はなくむしろ食欲をそそる
においとして受け取られやすい。」
とあった。
だから中世の日本人は、納豆を口にできたのか?
私は、どうしてもそうは思えない。
2 納豆ご飯の食べ方
納豆は、よくかき混ぜ、
糸がたくさん引くほどうまくなると聞いた。
100回かき混ぜるのが、理想だとする説も耳にした。
その信憑性はともかく、私は納豆に大根おろしと、
適当に醤油を加えたのが好きだ。
人それぞれ、それぞれの工夫があるのだろうが、
刻みねぎ、シラス、生卵、カツオ節などを加えるのもいい。
私は、そんな一工夫した納豆を、熱々のご飯に混ぜて食べる。
まずは、お茶碗の真っ白なご飯の真ん中に、箸で穴を作る。
その穴に、ご飯の量に見合った納豆を入れる。
そして、穴の周りのご飯を納豆にかぶせてから、
箸を使ってよくかき混ぜる。
お茶碗のご飯と納豆が、均等に混じり合うまで混ぜる。
それが完成したら、ご飯茶わんを口まで持っていき、
ご飯と納豆が均等になったものを、口にかき入れる。
私は、これがどの人もしている、納豆ご飯の食べ方だと思っていた。
ところが、もう20年も前になるだろうか、
6年生と一緒に2泊3日の宿泊体験学習に行った時だ。
朝食で、珍しく納豆がでた。
一緒に楽しく食べていたら、私とは違う納豆ご飯の
食べ方をしている子が何人もいた。
「納豆は、いつもそうやって食べるの。」
と訊くと、どの子も当然といったようにうなずいた。
驚きだった。
私と違う納豆ご飯の食べ方は、二通りあった。
その一つは、お茶碗のご飯に、適量の納豆をのせる。
次に、一口程度のご飯とそれに見合った納豆を、
お茶碗の片隅で混ぜ合わせる。
そして、一口で食べる。
再び、一口程のご飯に、納豆を混ぜて食べる。
そのくり返し。
もう一つは、お茶碗には真っ白なご飯。
そして、別の器に溶いた納豆。
混ぜ合わせることなどはせず、
ご飯と納豆を交互に食べていく。
まさに、納豆はおかずの一品のようである。
後日知ったのだが、
納豆の大切な栄養成分は、熱に弱いのだとか。
つまりは、熱々のご飯に納豆を混ぜるより、
ご飯と納豆を別々に食べる方が望ましいのだとか。
しかし、長年の食習慣である。
私はやはり、私の食べ方がいい。
誰がどう言おうと、
美味しいと思う食べ方を、私は変えるつもりない。
北海道糖業道南製糖所(伊達市)
道南各地のビート根が運び込まれ砂糖に