年齢と共に、同じ事をくり返し口にするようになるらしい。
言いながら、これは以前にも言ったことがある。
ふと、そう思うことが増えてきた。
これから記すことも、ここで何度綴ったことか。
まあ、10年の節目であるから、
それを承知で、再び・・・。
還暦から4年目、『人生をリセット』とか、
『東京を卒業』とか、粋がって伊達に移住してきた。
2012年の6月のことであった。
全てが新鮮で、毎日が充実していた。
ところが、2年目の春だ。
右手に異変がおきた。
診断は「尺骨神経損傷」だった。
5月の連休明けに、手術を受けた。
結果は、期待ほどのものではなかった。
移住してから始めたランニングは少しずつできたが、
クラブをしっかり握れず、
大好きなゴルフができなくなった。
左手で箸を使う日々が続いた。
右手で大好きなラーメンを食べたいと、
麻痺の残る手に箸を持たせて、リハビリに努めた。
いつまでもしびれと痛みが続いた。
やがて血圧が異常に高くなった。
処方されていた4種類の漢方薬を止めたら、
数日して、血圧は正常値を示すようになった。
医療への不信感、いっこうに改善しない右手、
不自由な暮らしの継続に、イライラ感は増した。
まだ当地には、友人も知人もいなかった。
そのイライラをぶつけるのは家内だけだった。
申し訳なかった。
だから、2階の自室で過ごす時間を増やした。
時間をつぶすために、PCを覗いた。
そこで、色々な方のブログに出会った。
こんな表現の場、こんな情報交換の機会があることに驚き、
惹かれていった。
左手だけで入力することになるが、
ブログ開設に興味が湧いた。
手術から2ヶ月が過ぎていた。
ブログ『ジューンべリーに忘れ物』を開設した。
2014年7月7日であった。
ジューンベリーは、庭にある唯一の樹木である。
シンボルツリーにと、造園業者さんがこの木を選び植えてくれた。
伊達での今とその光景を、『ジューンベリー』にした。
そして、ここに至るまでの一歩一歩を『忘れ物』に例えた。
その2つを重ねたところに、
今の私の居場所があるように思え、ブログの表題にした。
あれから丸10年の歳月が過ぎた。
「忘れ物」のままになっている退職までの道道を、
思いつくままブログに刻んだ。
私を知る校長先生たちがそれを読み、
先生方に役立つと印刷して配っていた。
想像しなかった反響に胸が躍った。
一方、「ジューン」の意である6月には特別の想いがあった。
その名のついた「ジューンベリー」のもとで過ごす日常を、
そのまま記した。
そのブログを通し、伊達での暮らしぶりを知った友人が、
そんな日々を内容に講演する機会の設定に尽力してくれた。
講演後も、同様のテーマでの依頼があった。
また、6年前になるが、私の講演を聴いた「楽書きの会」主宰の方から、
同人にとお誘いを受けた。
以来、年に何回も地元紙へ執筆したエッセイが、
掲載されるようになった。
そして、今ではそれを読んで下さる方と知り合いにまでなった。
10年を迎え、今後が気になる。
きっと,これからも変わらないスタンスで、
読んでいる人がいると信じ、
同様の想いを綴っていくことになるだろう。
素敵なライフワークを見つけたものである。
さて、全くの偶然だが、
10周年の記念を祝うかのように、
7月6日(土)室蘭民報の
文化欄『大手門』に再び随筆が載った。
今回も、いくつかのお褒めの言葉を頂いた。
なかでもその日の早朝、兄から電話があった。
「おはよう。
今、新聞読んだよ。
今までで一番良かった。
家族みんなで過ごしたあの頃を思い出したよ。
大変だったけど、いい時代だったんだな。
ありがとう。
嬉しかったよ!」。
兄は、言いたいことを言い終えると
すぐに電話を切った。
ジワッとこみ上げるものがあった。
* * * * *
ご褒美だって
昭和30年に戻る。
まだ戦後が色濃く残っている時代だったが、
製鉄所のある街はどこの家庭もある程度の暮らしをしていた。
なので、1年生の多くは赤や黒の皮のランドセルだった。
ところが、私のそれは薄茶色の厚い布製で、
しかもそこには男の子と女の子が手をつないでいる絵があった。
子供なりにも、他とは違って貧しい暮らしなことは知っていた。
だから、そのランドセルを前にしても何も言わなかった。
ただ「これで学校へ行くのか!」と少しも嬉しくなかった。
ところが、こんなことがあった。
入学間近の日だった。
近所のおばさんが、私を洋服屋へ連れて行った。
母が仲よくしていたおばさんだった。
洋服屋に入るなり、小学生がかぶる学生帽の売場へ行った。
当時は、黒のその帽子をかぶる男の子が多かった。
店の方と一緒に、私の頭に学生帽をかぶせ、
大きさの品定めをした。
「少し大きいけど、これでいい?」。
おばさんは私を見た。
突然のことに私は戸惑った。
頭の学生帽を両手でさわりながら、
「これ、どうするの?」
「小学校へかぶっていきなさい。
買ってあげる。」
おばさんは明るく言った。
私はますます戸惑った。
親以外から何かを買ってもらったことなどなかった。
嬉しい顔もできないまま、押し黙った。
おばさんはさらに明るく、
「遠慮しなくていいの。
毎日毎日長いこと保育所に通ったでしょ。
えらかったよね。
この帽子は、そのご褒美!」。
私は、3才の秋から保育所通いをしていた。
それを、おばさんは知っていて、
ご褒美だと言った。
夕食の後、家族みんなに学生帽を見せながら、
おばさんがそう言ったと胸を張った。
母は、新聞紙を細く折りたたみ帽子の内側にはめ、
目を真っ赤にしながら私の頭にかぶせた。
帽子の隙間がなくなり、丁度よくなった。
1年生になると毎日、その帽子をかぶって通学した。
他の子と違うランドセルは気になったが、
それより学生帽が私を元気にしてくれた。
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オオハナウドの上で仲良く
言いながら、これは以前にも言ったことがある。
ふと、そう思うことが増えてきた。
これから記すことも、ここで何度綴ったことか。
まあ、10年の節目であるから、
それを承知で、再び・・・。
還暦から4年目、『人生をリセット』とか、
『東京を卒業』とか、粋がって伊達に移住してきた。
2012年の6月のことであった。
全てが新鮮で、毎日が充実していた。
ところが、2年目の春だ。
右手に異変がおきた。
診断は「尺骨神経損傷」だった。
5月の連休明けに、手術を受けた。
結果は、期待ほどのものではなかった。
移住してから始めたランニングは少しずつできたが、
クラブをしっかり握れず、
大好きなゴルフができなくなった。
左手で箸を使う日々が続いた。
右手で大好きなラーメンを食べたいと、
麻痺の残る手に箸を持たせて、リハビリに努めた。
いつまでもしびれと痛みが続いた。
やがて血圧が異常に高くなった。
処方されていた4種類の漢方薬を止めたら、
数日して、血圧は正常値を示すようになった。
医療への不信感、いっこうに改善しない右手、
不自由な暮らしの継続に、イライラ感は増した。
まだ当地には、友人も知人もいなかった。
そのイライラをぶつけるのは家内だけだった。
申し訳なかった。
だから、2階の自室で過ごす時間を増やした。
時間をつぶすために、PCを覗いた。
そこで、色々な方のブログに出会った。
こんな表現の場、こんな情報交換の機会があることに驚き、
惹かれていった。
左手だけで入力することになるが、
ブログ開設に興味が湧いた。
手術から2ヶ月が過ぎていた。
ブログ『ジューンべリーに忘れ物』を開設した。
2014年7月7日であった。
ジューンベリーは、庭にある唯一の樹木である。
シンボルツリーにと、造園業者さんがこの木を選び植えてくれた。
伊達での今とその光景を、『ジューンベリー』にした。
そして、ここに至るまでの一歩一歩を『忘れ物』に例えた。
その2つを重ねたところに、
今の私の居場所があるように思え、ブログの表題にした。
あれから丸10年の歳月が過ぎた。
「忘れ物」のままになっている退職までの道道を、
思いつくままブログに刻んだ。
私を知る校長先生たちがそれを読み、
先生方に役立つと印刷して配っていた。
想像しなかった反響に胸が躍った。
一方、「ジューン」の意である6月には特別の想いがあった。
その名のついた「ジューンベリー」のもとで過ごす日常を、
そのまま記した。
そのブログを通し、伊達での暮らしぶりを知った友人が、
そんな日々を内容に講演する機会の設定に尽力してくれた。
講演後も、同様のテーマでの依頼があった。
また、6年前になるが、私の講演を聴いた「楽書きの会」主宰の方から、
同人にとお誘いを受けた。
以来、年に何回も地元紙へ執筆したエッセイが、
掲載されるようになった。
そして、今ではそれを読んで下さる方と知り合いにまでなった。
10年を迎え、今後が気になる。
きっと,これからも変わらないスタンスで、
読んでいる人がいると信じ、
同様の想いを綴っていくことになるだろう。
素敵なライフワークを見つけたものである。
さて、全くの偶然だが、
10周年の記念を祝うかのように、
7月6日(土)室蘭民報の
文化欄『大手門』に再び随筆が載った。
今回も、いくつかのお褒めの言葉を頂いた。
なかでもその日の早朝、兄から電話があった。
「おはよう。
今、新聞読んだよ。
今までで一番良かった。
家族みんなで過ごしたあの頃を思い出したよ。
大変だったけど、いい時代だったんだな。
ありがとう。
嬉しかったよ!」。
兄は、言いたいことを言い終えると
すぐに電話を切った。
ジワッとこみ上げるものがあった。
* * * * *
ご褒美だって
昭和30年に戻る。
まだ戦後が色濃く残っている時代だったが、
製鉄所のある街はどこの家庭もある程度の暮らしをしていた。
なので、1年生の多くは赤や黒の皮のランドセルだった。
ところが、私のそれは薄茶色の厚い布製で、
しかもそこには男の子と女の子が手をつないでいる絵があった。
子供なりにも、他とは違って貧しい暮らしなことは知っていた。
だから、そのランドセルを前にしても何も言わなかった。
ただ「これで学校へ行くのか!」と少しも嬉しくなかった。
ところが、こんなことがあった。
入学間近の日だった。
近所のおばさんが、私を洋服屋へ連れて行った。
母が仲よくしていたおばさんだった。
洋服屋に入るなり、小学生がかぶる学生帽の売場へ行った。
当時は、黒のその帽子をかぶる男の子が多かった。
店の方と一緒に、私の頭に学生帽をかぶせ、
大きさの品定めをした。
「少し大きいけど、これでいい?」。
おばさんは私を見た。
突然のことに私は戸惑った。
頭の学生帽を両手でさわりながら、
「これ、どうするの?」
「小学校へかぶっていきなさい。
買ってあげる。」
おばさんは明るく言った。
私はますます戸惑った。
親以外から何かを買ってもらったことなどなかった。
嬉しい顔もできないまま、押し黙った。
おばさんはさらに明るく、
「遠慮しなくていいの。
毎日毎日長いこと保育所に通ったでしょ。
えらかったよね。
この帽子は、そのご褒美!」。
私は、3才の秋から保育所通いをしていた。
それを、おばさんは知っていて、
ご褒美だと言った。
夕食の後、家族みんなに学生帽を見せながら、
おばさんがそう言ったと胸を張った。
母は、新聞紙を細く折りたたみ帽子の内側にはめ、
目を真っ赤にしながら私の頭にかぶせた。
帽子の隙間がなくなり、丁度よくなった。
1年生になると毎日、その帽子をかぶって通学した。
他の子と違うランドセルは気になったが、
それより学生帽が私を元気にしてくれた。
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オオハナウドの上で仲良く