ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

10 周 年 !!

2024-07-13 11:32:44 | 北の湘南・伊達
 年齢と共に、同じ事をくり返し口にするようになるらしい。
言いながら、これは以前にも言ったことがある。
 ふと、そう思うことが増えてきた。

 これから記すことも、ここで何度綴ったことか。
まあ、10年の節目であるから、
それを承知で、再び・・・。

 還暦から4年目、『人生をリセット』とか、
『東京を卒業』とか、粋がって伊達に移住してきた。
 2012年の6月のことであった。
全てが新鮮で、毎日が充実していた。

 ところが、2年目の春だ。
右手に異変がおきた。
 診断は「尺骨神経損傷」だった。

 5月の連休明けに、手術を受けた。
結果は、期待ほどのものではなかった。

 移住してから始めたランニングは少しずつできたが、
クラブをしっかり握れず、
大好きなゴルフができなくなった。

 左手で箸を使う日々が続いた。
右手で大好きなラーメンを食べたいと、
麻痺の残る手に箸を持たせて、リハビリに努めた。

 いつまでもしびれと痛みが続いた。
やがて血圧が異常に高くなった。
 処方されていた4種類の漢方薬を止めたら、
数日して、血圧は正常値を示すようになった。

 医療への不信感、いっこうに改善しない右手、
不自由な暮らしの継続に、イライラ感は増した。

 まだ当地には、友人も知人もいなかった。
そのイライラをぶつけるのは家内だけだった。
 申し訳なかった。
だから、2階の自室で過ごす時間を増やした。

 時間をつぶすために、PCを覗いた。
そこで、色々な方のブログに出会った。
 こんな表現の場、こんな情報交換の機会があることに驚き、
惹かれていった。

 左手だけで入力することになるが、
ブログ開設に興味が湧いた。
 手術から2ヶ月が過ぎていた。
ブログ『ジューンべリーに忘れ物』を開設した。
 2014年7月7日であった。

 ジューンベリーは、庭にある唯一の樹木である。
シンボルツリーにと、造園業者さんがこの木を選び植えてくれた。

 伊達での今とその光景を、『ジューンベリー』にした。
そして、ここに至るまでの一歩一歩を『忘れ物』に例えた。
 その2つを重ねたところに、
今の私の居場所があるように思え、ブログの表題にした。

 あれから丸10年の歳月が過ぎた。
「忘れ物」のままになっている退職までの道道を、
思いつくままブログに刻んだ。
 私を知る校長先生たちがそれを読み、
先生方に役立つと印刷して配っていた。
 想像しなかった反響に胸が躍った。

 一方、「ジューン」の意である6月には特別の想いがあった。
その名のついた「ジューンベリー」のもとで過ごす日常を、
そのまま記した。
 そのブログを通し、伊達での暮らしぶりを知った友人が、
そんな日々を内容に講演する機会の設定に尽力してくれた。 
 講演後も、同様のテーマでの依頼があった。

 また、6年前になるが、私の講演を聴いた「楽書きの会」主宰の方から、
同人にとお誘いを受けた。
 以来、年に何回も地元紙へ執筆したエッセイが、
掲載されるようになった。
 そして、今ではそれを読んで下さる方と知り合いにまでなった。
 
 10年を迎え、今後が気になる。
きっと,これからも変わらないスタンスで、
読んでいる人がいると信じ、
同様の想いを綴っていくことになるだろう。
 素敵なライフワークを見つけたものである。

 さて、全くの偶然だが、
10周年の記念を祝うかのように、
7月6日(土)室蘭民報の
文化欄『大手門』に再び随筆が載った。

 今回も、いくつかのお褒めの言葉を頂いた。
なかでもその日の早朝、兄から電話があった。

 「おはよう。
今、新聞読んだよ。
 今までで一番良かった。
家族みんなで過ごしたあの頃を思い出したよ。
 大変だったけど、いい時代だったんだな。
ありがとう。
 嬉しかったよ!」。

 兄は、言いたいことを言い終えると
すぐに電話を切った。
 ジワッとこみ上げるものがあった。

  *     *     *     *     *

         ご褒美だって

 昭和30年に戻る。
まだ戦後が色濃く残っている時代だったが、
製鉄所のある街はどこの家庭もある程度の暮らしをしていた。
 なので、1年生の多くは赤や黒の皮のランドセルだった。
ところが、私のそれは薄茶色の厚い布製で、
しかもそこには男の子と女の子が手をつないでいる絵があった。
 子供なりにも、他とは違って貧しい暮らしなことは知っていた。
だから、そのランドセルを前にしても何も言わなかった。
 ただ「これで学校へ行くのか!」と少しも嬉しくなかった。  

 ところが、こんなことがあった。
入学間近の日だった。
 近所のおばさんが、私を洋服屋へ連れて行った。
母が仲よくしていたおばさんだった。
 洋服屋に入るなり、小学生がかぶる学生帽の売場へ行った。
当時は、黒のその帽子をかぶる男の子が多かった。
 店の方と一緒に、私の頭に学生帽をかぶせ、
大きさの品定めをした。
 「少し大きいけど、これでいい?」。
おばさんは私を見た。
 突然のことに私は戸惑った。
頭の学生帽を両手でさわりながら、
「これ、どうするの?」
 「小学校へかぶっていきなさい。
買ってあげる。」
 おばさんは明るく言った。
私はますます戸惑った。
 親以外から何かを買ってもらったことなどなかった。
嬉しい顔もできないまま、押し黙った。
 おばさんはさらに明るく、
「遠慮しなくていいの。
 毎日毎日長いこと保育所に通ったでしょ。
えらかったよね。
 この帽子は、そのご褒美!」。
私は、3才の秋から保育所通いをしていた。
 それを、おばさんは知っていて、
ご褒美だと言った。

 夕食の後、家族みんなに学生帽を見せながら、
おばさんがそう言ったと胸を張った。
 母は、新聞紙を細く折りたたみ帽子の内側にはめ、
目を真っ赤にしながら私の頭にかぶせた。
 帽子の隙間がなくなり、丁度よくなった。
1年生になると毎日、その帽子をかぶって通学した。
 他の子と違うランドセルは気になったが、
それより学生帽が私を元気にしてくれた。




   オオハナウドの上で仲良く      
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D I A R Y 5月

2024-06-01 16:56:08 | 北の湘南・伊達
  5月 某日 ①
 庭のシンボルツリー・ジューンベリーが、
満開になったのは、連休の最中だった。
 1週間も経たない内に、
愛車の屋根やフロントガラスに白い花びらが降った。
 その後は、柔らかな新緑で枝先まで被われている。

 ご近所の庭には、赤いシャクナゲが咲き、
色とりどりの芝桜が日差しを受けて鮮やか。
 今年も、つい散歩の足が止まってしまった。

 中旬になると、自宅横の『嘉右衛門坂通り』は、
真っ白なツツジが沿道に連なる。
 目を奪われないように気をつけながら、
毎年ハンドルを握る。

 それも、薄茶に変色し、
今は、その道の街路樹に寄り添うように、
6月のルピナスやアヤメの蕾が膨らみ、
開花の時を迎えている。

 こうして、時を止めず季節は確実に移り行く。
「バラも間もなく香るだろう」
 そう想うだけで、また気持ちが弾む。
 
 だが、先週、歴史の杜公園の野草園に、
「恋の花」と歌われた黒百合が、咲き乱れていた。
 一気に咲いた黒色の花に、癒やされるどころか、
不気味さを感じたのは,私だけだろうか。
 どうしても、この花は馴染めない。

 
 5月 某日 ②
 昨年11月下旬に、大きな手術をした姉が、
連休前に一事帰宅した。
 そして先日、再び横浜の娘の所へと戻っていった。

 しばらく術後の経過を見てから、
もう1度手術が必要かどうかを判断するのだとか・・。
 80歳を過ぎた高齢者であるが、
まだまだ長生きしたいとチャレンジしたこと。
 無事、健康を取り戻すよう、願うばかりである。

 さて、再度新千歳空港まで送る道々、
姉と交わした会話が心に残った。

 半年間、横浜暮らしを体験し、その感想を姉は口にした。
「年寄りにとっては、田舎暮らしより、
都会暮らしのほうがいいと、私は思ったわ」。
 「へえぇ! 意外だなあ。
どうして、そう思ったの?」

 「だって、こっちにいたら、
月に1回の病院通いだって、
バスの本数が少ないから、1日がかりでしょう。
 何か欲しい物があって、買い物をと思っても、
店は少ないし遠いしで、なかなか手に入らないでしょう。
 だから、できないことが多いよね。
本当に、不便! こっちは!
 でも、都会はサッと出かけられて、
簡単に病院へも買い物にも行ける。
 便利で快適だとつくづく思ったの」

 姉は明るく、一気に言い切った。
確かに、利便性で言うと姉の主張通りである。
 異論はない。
だが、私は言った。

 「それは、ある程度財源が
豊かな人だから言えることじゃないか。
 年金だけで暮らす人にとっては、
都会暮らしは辛いもののようだよ」。

 姉は、無言だった。
私は続けた。 
 「退職した映画好きの先生の話だけど、
なかなか映画も見れなくなったって・・・。
 だって、確かに映画館はシニア料金だけど、
駅まで車で行っても駐車料金は取られワ。
 都心まで往復すると電車賃も安くないワ。
それに昼食まで考えたら、大変な出費になるって」。

 「確かに、そうかも・・。
でもね、運転のできない私は、
ここに居たら、目の前のコンビニだけの生活よ。
 車があって、運転してどこにでも行ける人は、
まだ違うのかも・・。
 ここでは何もできないわよ」
姉の想いは確かに否定できない。
 
 今、私は多少不便さを感じながらも、
車がある。
 運転ができる。
都会暮らしよりずっといいと思っているが・・・。
 さて、これから先の正解は、
・・・・分からない。

  5月 某日 ③
 昨年度、自治会長を受けると同時に、
某協議会の副会長になった。
 今年度は、その協議会の役員改選期であった。  

 どこの組織も同じで役員の引き受け手がいない。
会長が私を訪ねてきた。
 「会長をやってほしい」と言う。

 お断りするには、
「引き続き副会長ならできます」
と、言うしかなかった。

 そして、今後も同じ会長、副会長、事務局長の体制となった。
そこで、今年度初の三役会議を行った。

 検討事項が終った後、
多少時間があったので、初めて3人で雑談になった。

 まず会長の年齢を聞いて驚いた。
彼は今年89歳になると言う。
 自治会長は15年も務めているとか・・。

 続いて、事務局長のNさんにもビックリ。
私とさほど変わらない年齢だが、
会長と同じ自治会で、
これまた15年も総務として会長を支えていると言う。

 「誰も引き受け手がなく、
気がつくとこんなにも長くなってしまったよ」
 2人は口を揃えてそう言う。

 そして、
「私もNさんも、病気もちだけども、
頼られているうちはと思ってね」と。

 私は、わずか自治会長2年目のひよっこだと思った。
2人の前で、「大変な役を受けてしまって・・」などと、
軽々しく言えない。
 それよりも、 1つとしてぼやくことなく、
淡々と今を語る2人。
 見習いたいと思った。
 

  

 庭の『ブルースター』 ~例年に増して華やか 
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ドカ雪が 降った後

2024-01-27 11:59:20 | 北の湘南・伊達
 新年を迎えても、当地は暖冬だった。
とにかく雪がない。
 降っても、うっすら雪化粧程度で、
その雪も数日でとけてしまっていた。

 ところが成人の日の朝だ。
珍しく目覚めが早かった。

 カーテンの隙間から漏れる明るさに、
違和感が。
 日の出には、まだ2時間以上もあるのに、
ほんのりと外が明るいのだ。
 「もしや」と起き上がり、カーテン越しに外を覗いてみた。

 新雪が防犯灯の光を受け、周囲を明るくしていた。
止めてある愛車を見た。
 やや離れているが、車の屋根に雪が、
30センチも積もっているように見えた。
 全く気づかない深夜の積雪であった。

 「まだ冬休み、その上今日は休日だ!」
登校する子ども達はいない。
 通勤の人もいないだろう。
「急ぐことはない!
 朝食を済ませてから雪かきにしよう!」
再びベッドへ戻った。
 
 朝食後、身支度を整え、いよいよ雪かき。
玄関の扉を押す。
 思いっきり力を入れ、ようやく外に開いた。

 玄関先まで雪が積もっていた。
「珍しい!」
 12年前の大雪以来のことだった。 

 これは大変な雪かきになる。
長時間を覚悟した。
 ペースダウンして、体力を考えながら、
大雪に挑まなければならないと決めた。

 いつものように、家内とはエリアを分け、
黙々と作業を始めた。

 お向かいさんも左隣りさんも、
同じような時間から、雪かきを始める。
 みんな、いつもよりゆっくりとした調子で、
雪を集め、移動させていた。


  ⑴ 雪かきの最中
 
 ① 雪かきを始めて、やや時間が経ってから、
右隣りのご主人が出てきた。
 私に挨拶をし「随分降りましたね」と、
車へ向かった。

 雪かきではなかった。
この積雪の中、お出かけするようだ。
 エンジン音がして、しばらくすると
車はバックで駐車場から出ようとした。

 それは無茶なことだった。
車道までの数メートルを進まないうちに、
車は雪に阻まれ、車輪が空回りを始めた。 
 車体が雪の上に乗り上げたのだ。

 そのまま見過ごす訳にいかなかった。
雪かきを中断し、
スコップを持って、近くから数人が集まってきた。

 車道までの積もった雪を除け、車両下の雪もかいた。
15分程度で、
車は圧雪された車道まで出ることができた。

 ご主人は、これから登別のスキー場へ行くと言い、
「冬休み中は、スキー教室があるので」
と、言い残して出発した。
 無事に、着くことを願った。

 しばらくして、奥さんが雪かきを始めた。
まだまだ作業途中の私に、
ご主人の車脱出のお礼を述べた後、こう言った。
 「スキー場の辺りは、
全然雪が降らなかったって、
主人から連絡がきました」。

 私は、信じられない思いで、
「そうですか!
 そう遠くない所なのに、天気って違うんですね」。

  ② その直後だ。
3軒程離れたご近所の奥さんが、
我が家の脇にあるゴミステーションまで来た。

 雪かきする私たちとは大違い。
軽装だった。
 長靴でもなく、エプロンに厚手のカーデガン姿で、
片手に大きなゴミ袋を提げていた。

 私たちの雪かきの様子に驚きながら、
収納ボックスにゴミ袋を置いた。
 そして、私に近寄り言った。

 「こんなに積もっているって気がつかなくて・・。
今、外に出てビックリしました。 
 少し前に、洞爺湖にいる娘から電話が来て、
今朝は50センチ以上も積もってるって言うんです。
 だから私、こっちは大丈夫!
そう遠くない所なのに、天気って違うんだね。
 雪かき頑張ってって言ってしまいました」。

 「今、同じセリフを言ったばかり」
と思いつつ、私は言った。
 「とんだ思い違いでしたね。
電話して伊達も凄いことになっているって、
言い直さなくちゃダメですね」。

 奥さんは、「そうしますね」と転びそうになりながら、
戻っていた。


  ⑵ 数日後の電話

 ①1本目は、
自治会役員を長年されていた先輩からだった。

 「会長さん、頼みがあって電話したんだ。
雪かきのことなんだけどさ、
こんなにいっぺんに降ると、
どこの家も雪の捨て場に困るんだ。
 でも、車道に捨てるのはダメだよ。
そう思わないかい!?」

 私が同意すると、先輩は続けた。
「だから、来月の自治会だよりにさ、
車道に雪を捨てるなって、
会長名の入った文章を載せてくれないかね。
 そうでもしないと、直らないわ」。

 先輩の思いも理解できた。
しかし、どこにも捨て場がなく、
仕方なく歩道と車道の間に雪山を作る家もある。
 よく吟味して、自治会だよりに載せなくてはならない。
  
 「お気持ちはよく分かりました。
どのように自治会だよりに載せたらいいか、
よく考えてみます。
 貴重なご意見、ありがとうございます」
と、答えるだけにとどめた。
 さてさて、どんな内容でどう呼びかけたらいいものか。
頭を悩ませることになってしまった。

 ② ドカ雪の翌日から気温が緩んだ。
徐々に雪が解けた。
 それによって、朝夕は路面がアイスバーンになった。
そんな朝に、2本目の電話があった。

 「私、○班のKと申します。
ツカハラさん助けてください!」。
 Aさんは90歳前後の高齢で、
一人暮らし女性だった。
 自治会の用件で、
何度かご自宅を訪ねたことがあった。
 すぐに顔が浮かんだ。

 「Kさん、どうしました?」
「実は、今朝、ツルツルすべる道でしたが、
ゴミを投げにいったんです。
 途中まで行くと、ご近所のAさんが来てくれて、
そのゴミを持って行ってくれたんです。

 ところがAさん、ゴミを置く所のそばで、
滑って転んだんです。
 腕を痛くしたみたいだったんですが、
私、Aさんの電話番号も知らないし、
骨を折ったんじゃないかと心配で、
ツカハラさんどうしたらいいでしょうか?」
 
 「わかりました。
私がAさんに電話してみます。
 携帯番号も知ってますから、
Kさんのご心配を伝えておきますね」

 Kさんが恐縮しながら電話を切った後、
Aさんに電話し、そこまでの経過を伝えた。
 転んだ腕は少し痛むが、仕事には影響ないと言う。
それよりも、
Aさんはお婆ちゃんに心配をさせてしまったと、
転んだことをしきりに悔やんでいた。

 電話をしながら、私だけがほっこりとしていた。




     湖畔にて 新雪に頬ずり
          ※ 次回のブログ更新予定は2月10日(土)です。
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晴れたり曇ったり その11 <2話>

2024-01-06 12:21:00 | 北の湘南・伊達
 ① 元日と2日は、昨年同様兄と一緒に自宅で過ごした。
その切っ掛けは、2つある。

 1つは、義姉が高齢者施設へ入所し、
兄が1人で正月を過ごすことになったこと。
 もう1つは、姉が勤める温泉旅館が、
高級おせちを販売している。
 その3人用3段重で高価なものを、
姉がプレゼントしてくれたこと。

 だから、3人でそのおせちを囲みながら、
正月の2日間を過ごそうというのだ。

 大晦日、兄の飲食店は、
年越し用のお刺身セットやオートブルの予約販売で、
終日大忙しだった。
 なので、元日は午後に兄を迎えに行った。

 そして、お茶とお菓子、みかんなどを前に、
テレビを見ながらくつろいでいた時、
2度の『緊急地震速報』があった。

 元日早々の悲惨な映像に唖然とした。
きっと甚大な被害があっただろうと思いつつ、
次の大津波警報に怯えた。

 新年を迎えた日の惨状である。
自然災害の非情さが骨の随まで浸みた。
 そして、人間の非力さを改めて痛感させられた。

 「新年祝いの膳どころじゃないなあ」
と言いながらだが、
頂いた高級おせちを食べない訳にはいかなかった。
  
 テレビからくり返される倒壊家屋の映像や、
津波情報を気にしながら、ビールとお茶で、
並んだ一の重、二の重、三の重に箸を向けた。

 特別な料理だけに、昨年の味は忘れてなかった。
それに比べ、今年のは昨年以上に格段の美味しさだった。
 兄も家内も、同じ感想だった。
高級旅館のおごらない謙虚な努力に脱帽した。

 そして、そんな味を姉に伝えようと、
電話をすることに。
 姉は40日前に、娘が勤務する首都圏の病院で、
9時間に及ぶ大手術をした。
 経過は順調で、退院後は娘のマンションで療養していた。
てっきり正月はそこに居るものと思っていた。

 ところが電話に出た姉は、関西にいた。
息子のところで年越しをしたと言う。
 全く予想していなかった。

 「調子いいよ。
大丈夫、娘も息子も看護師だから・・。
 心配いらないの」
そして、姉は、
「私はいい子どもに恵まれて幸せだわ」
と、元気に言った。

 さほど無茶をしている訳でもないと分り、安堵した。
それにしても、その回復力には驚かされた。
 「私、ずっと旅館で働いていたから、
年齢以上に体力があったみたい」
 驚きのあまり、おせち料理の美味しさを
伝え損なうところだった。

 午前中、伊達神社へ初詣に行った。 
隣で若い2人がおみくじを引いていた。
 凶と大吉だった。 
私の元旦の心もようも同じ・・・。 

 ② 現職の頃、朝は和食が多かった。
しかし、今は生野菜とトースト、それに卵料理などである。
 だから、トースターは朝の必需品だ。 
  
 2年前になる。
長年愛用していたトースターが、
スイッチを入れても作動しなくなった。
 修理より新しい物にしようと家電量販店へ行った。

 パンを焼くことと、
時々餅を焼くことだけの家電である。
 20種程が並んでいる中に、
特価セールになっていたものがあった。
 機能など吟味もせずにメーカー品だったので、それを購入した。

 パンを焼くのは私の担当である。 
翌朝から、新しいトースターを使った。
 快適だったのは 、1ヶ月程だった。
1度に2枚を焼くのだが、
左右で焼け方が違うようになった。

 「やはり特価品だったか」と思いながらも使い続けた。
ところが、3ヶ月目で片側のパンが全く焼けなくなった。
 特価でも1年保証がついていた。
早速、修理に出した。

 1ヶ月前だが、そのトースターが再び故障した。
今度は、網が外れてパンが載せられないのだ。
 修理保証は終わっていた。
その上、相変わらず左右の焼きは均等ではなくなっていた。
 思い切って、再び新しい物を購入することにした。

 2年ぶりに同じ量販店のトースター売り場へ行った。
同じような顔ぶれのトースターが並んでいた。
 今度はしっかりと吟味して購入しようと決めた。

 価格も多様だが、各機種セールの言葉も多彩だった。
パンと餅を焼くだけなのに、どれがいいか迷った。

 そこで、この売り場担当の店員さんを呼んだ。
店員さんは、それぞれの特徴を要約し、親身に教えてくれた。
 でも、私にはどれが最適か決められなかった。
まして、2年しかもたないトースターを選び、失敗していた。

 そこで、決断した。
店員さんのキャリアに頼った。
 私は訊いた。
「もし、貴方が買い換えるとしたら、どれにします?」
 そんな問いかけは珍しかったようで、
彼は一瞬驚いた顔をした。

 しばらく並んでいた棚を見渡し、
「高価な方ですが、最近発売になったこれですね。
私ならこれにします」
 「これが1番いいですか」
念を押した。

 「いえ、もっと性能のいいものはあります。
1番いいのなら・・」
 彼は、慌てて他を勧めようとした。
「いや、貴方が1番買いたいと思うのはこれですよね」
 彼は、真顔で「ハイ」と答えた。

 あれから、あの店員さんが指名したトースターで、
毎朝パンを焼いている。
 同じパンなのに、美味しさの違いに驚いている。

 その道に精通した人の確かさは、
兄の魚の目利きでよく知ってはいた。
 どうやらそれは、兄だけではないと思った。

 そして、再び同様のことを実感する場面があった。
大晦日のことだ。
 数日前に、私が選んだしめ縄飾りを玄関外に提げた。
イメージしていたのとは違い、貧相だった。

 がっかりした。
お正月を飾る玄関である。
 どうにかして素敵な感じに挽回したかった。
  
 そこで、当地で一軒だけの生花店へ急いだ。
玄関内に正月らしいアレンジフラワーを置こうと、
思いついたのだ。
 それでイメチェンを図ろうとした。

 案の定、店内にはそれらしいアレンジメントが、
手頃な価格でいくつも並んでいた。
 純和風と洋風があった。 
どちらも、どれも、お正月の玄関に相応しかった。
 決めかねた。
今年はしめ縄飾りで失敗していた。
 それもあって、
迷った。

 そこで店員さんに訊いた。
「あなたなら、ご自宅でどれを飾りますか」
 彼女は、一瞬驚きの表情を見せた。

 少し間を置いてから、
「私なら、これでしょうか」
 彼女が指し示したのは、私なら選びそうにない、
薄い色合いの洋ランがメインのものだった。
 他のものとはひと味趣が違った。
その素敵さに納得した。


 

   洞爺湖畔 静かな時間 冬    
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DATE 語 録 (4)

2023-09-23 09:36:16 | 北の湘南・伊達
 伊達に移住して12年目を迎えている。
この間、数々の出会い、エピソードがあった。
 それを思い出すまま、語録として綴る。
前回は、昨年の10月末に記した。
 今回は、4回目である。

 6.「私 むすめです」
 年に1回、社会福祉協議会が主催する
『お楽しみ昼食会』がある。
 コロナで中断していたが、4年ぶりに開催された。

 この昼食会は、75歳以上で1人暮らしの方が対象だ。
食事を取りながら、ピアノに合わせた歌入りゲームをしたり、
カラオケをしたりして2時間余りを過ごす。

 自治会長だからと、協議会の役員になっている私は、
この会の受付を頼まれた。
 開会の30分以上も前から、
私より年上の方々が、次々と受付をとおり会場の席に着いた。
 案の定、開会10分前には全員が揃った。

 受付や会場案内係の役員も、
参加者と同席し、一緒に会食する。
 各円卓は、指定席になっていた。
私の席のテーブルには、10人が座っていた。
 
 着席するとすぐ、
真向かいの男性と女性の会話が耳に飛び込んできた。

 男性は受付で渡した座席名簿を手に持ち、
隣の女性に話かけた。
 「Y田さんって、O山さんの隣のY田さんですか?」
「そうです。O山さんの隣のY田です」。
 「確か・・・、Y田さんのご主人はもう10年以上も前に、
・・亡くなりましたよね」。
 「そうです、そうです」。

 私より10歳以上も年長と思える男性の、
腑に落ちない表情は、さらに続いた。
 「でも、それに・・・奥さん・・も・・、
あれ! 私の勘違い・・!」。

 女性は、ハッと表情を明るくし応じた。
 「そうですよ。
だから、私、むすめです。
 誰もいない家になったので、
私、独り身なので、
3年前からあの家に住んでいるんです」。

 「そうですか。Y田さんのむすめさんですか。
そういうことか。なるほど」。
 謎が解けた男性の声は急に明るくなった。
やや恥ずかしそうに女性は続けた。
 「そう言っても、私も今年で75ですけど・・ね」。
「いやいや、そんなのは構わん、構わん」。
 
 私だけでなく、同席した方々も謎が解け、
安堵した顔になっていた。
 
 
 7.「100円の追加で」
 当地も人口減少が進んでいる。
その余波の1つが、各種店舗の閉店である。
 よく利用していたカジュアル衣料の店も、
2年ほど前に、突然店じまいをした。
 
 なので、このごろ、衣類を購入する時は伊達市内を諦め、
主には室蘭、時には苫小牧まで足を伸ばすことにしている。

 さて、そこで困ることがある。
ズボンの裾上げである。
 店によっては、1時間ほどの待ちで仕上げてくれるが、
多くの場合、数日後の仕上がりとなる。
 再度の来店を求められるのだ。
これが難儀なことである。

 そこで、多少費用がかかっても、
裾上げは市内の洋服リフォーム店にお願いすることにした。

 さて、その店だが、これも数少なくなった。
やっと探し当て、買い求めたズボンを2本持って、
初めてお店へ行った時だ。

 手慣れた店員さんが応対してくれた。
裾上げを依頼すると、
注文が多いので、数日かかるとの返事だった。

 他の店を探すのも手間なので、
数日を待つことを了解した。

 すると、「お急ぎの場合は、追加料金がかかりますけど、
それでよければできますよ」と言う。
 「追加料金って、いくらですか」。
いちおう参考までにと、訊いてみた。

 その回答にビックリした。
「100円の追加で、仕上がりは明日の夕方です」。 
 即答した。
「明日の夕方でお願いします。追加料金を払いますので」。
 



『かや』(岩手県以南に分布)の樹下 かやの実だらけ!
                ~だて歴史の杜にて
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