ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

会場探し 天と地

2019-08-24 18:12:04 | 教育
 今も顧問の1人でいる東京都小学校児童文化研究会が、
発足から60年の節目を迎えた。

 来年3月に、現職やOB、関係者などが一同に会し、
都内で『60周年記念祝賀会』を計画していると、
知らせが届いた。
 大変嬉しく思うと同時に、当時の思い出が蘇った

 私は、平成17.18年度、この研究会の会長を務めた。
会長に就いてから最大の悩み事は、
『東京都小学校連合学芸会』の会場探しだった。

 この『都連合学芸会』は、確か今年で55回になる。
東京都教育委員会の後援を頂き、
東京都小学校児童文化研究会が主催してきた。

 当時は、2日間にわたって行っていた。
都内の各地から名乗りを上げた小学校が、劇を発表し合った。
 学芸会は校内で行うのが常だ。
ところが、普段は全く交流のない子ども同士が集まり、
演技を披露し合う。
 それは、貴重な経験として、
それぞれの子どもの財産となるのだ。
  
 さて、この学芸会の会場の件である。
長年にわたり渋谷区にあった「東京都児童会館」が使われてきた。

 ここの1階には立派なホールがあった。
本格的な広いステージがあり、舞台装置や照明も整っており、
技術スタッフも常駐していた。
 学校の体育館での学芸会とは違い、本格的な演劇環境なのだ。

 「この舞台で、演じさせたい。」
若い頃、私も何度かチャレンジを試みた。
 しかし、区内の連合学芸会での推薦が得られず、
断念をくり返した。

 つまり、子ども達と一緒に取り組む学芸会の、
素晴らしさを知る教師にとって、
『東京都小学校連合学芸会』が行われる「東京都児童会館」の舞台は、
一度は子ども達と一緒に行きたい場所だった。

 ところが、この会館の老朽化が進んだ。
数年後の閉館が、確かな情報として伝わってきた。
 「都連合学芸会の継続、そのために別の会場を探す。」
それは、会長をはじめ役員の大きな課題になった。

 演劇環境の整ったステージと、千席規模のホール。
都内各地からの交通の利便性、そして使用経費が条件だった。

 「東京都児童会館」と同様の会場はなかなか見つからなかった。
会長としての2年間、奔走した会場探しだ。
 その日々から落胆を重ねたエピソードを記す。

 それは、無謀な挑戦とも言えた。
しかし、「ダメでもともと」だ。
 そんな覚悟で、真っ先に電話したのは、
東京都が保有する立派な劇場だった。

 オーケストラの演奏会が行われる大ホールと、
ピアノ演奏などの小ホールがあった。
 私は、その小ホールにねらいをつけた。
都が運営していた。
 経費での特典も期待できた。

 電話口に出た担当者は、
「会ってお話を伺います。」
と、言ってくれた。
 数日後、役員数人とその事務室に出向いた。

 都連合学芸会の意義、歴史、規模、
子ども達や保護者の声、そして予算等をありのままに、
私は、熱く語った。
 そして、
「全都の子ども達が目指す学芸会の新しい場所、
目標の舞台をここにしたい。
 この劇場は、うってつけなんです。」
と、結んだ。

 応対してくれた職員は、2人とも私より一回りは若かった。
メモを取り、1つ1つうなずきながら話を聞いてくれた。
 一緒に行った役員が補足説明をし、約束の1時間が過ぎた。

 「ここは、東京都の施設です。
都民のものですから、東京都規模の学芸会のような使われ方は、
理にかなっていると思います。
 是非、使えるように、上の者とも相談し、
後日回答させてもらいます。」

 現実味のある反応に、うかれた。
東京都児童会館よりもずっとずっと新しい。
 その上ネームバリューもある会場だった。
新たなステータス・シンボルとして、期待が膨らんだ。
 いい返事がくると信じた。

 あのステージで、両手を広げ、
胸を張って演じる子どもの姿を思い浮かべた。

 ところがだった。
使用申請には問題はない。
 ただし、同日に他団体からも
使用申請があった場合には抽選になる。
 だから使用できない場合がある。
優先使用は適用できないと言うのだ。

 さらに、使用経費の特典は一部だけで、
照明機材の使用料等は対象にならない。
 他にも、様々な制約が知らされた。
全ては、条例がらみのことで、
それが足かせなのだとのことだった。

 「私たちも、是非お使い頂きたいと思って、
検討を重ね、頑張ってみたんですが・・。」
 担当者の無念そうな声が、受話器に残った。
膨らんでいたものが、一気に消えた。
 希望が、天から地に落ちた。

 それでも、懲りずに次に挑戦する一手を考えた。
都が運営する会場は、諦めた。
 ならば、民間の劇団がもつ劇場に照準を合わせた。

 某劇団が所有する複数の劇場の1つを、
勝手に候補に上げた。
 くり返す、「ダメでもともと」なのだ。

 小さな可能性に期待し、
心落ち着けて受話器を握った。
 電話にでたその劇団の担当者に、
依頼内容を伝え、面会を申し込んだ。
 事務的に、検討し後日回答する旨の返事だった。

 数日を経て、電話があった。
先日の担当者より上の立場の方からだった。
 丁寧な言葉遣いが印象に残った。

 「劇場使用のご依頼の件で、
会ってお話をしたいと伺いました。
 私どもも学芸会について、
話し合いの場を希望しておりました。
 是非、よろしくお願いします。
お待ちしております。」

 予想以上の好反応に心が高ぶった。
その劇団は、劇場がある近隣小学校を無料で観劇に招待した。
 子ども達へのそんな厚意を示す劇団である。
好条件での使用が、現実になるのではないか。
 そんな思いを勝手に描いた。

 そして、いよいよ劇団の応接室にお邪魔した。
私も役員たちも明るい表情で、
複数の劇団スタッフの方と挨拶を交わした。
 高価な茶菓が用意され、手ぶらでの訪問を恥じた。

 私から切り出した劇場使用の依頼について、
熱心に耳を傾けてくれた。
 しかし、回答は簡潔だった。

 「ご依頼はよくわかりました。
ですが、私どもの劇場は、今までも今後も、
他の劇団や団体の使用を認めることはありません。
 劇団の専用劇場としてのみありますので・・。」
 丁寧に頭まで下げられた。
 
 その明快さに言葉がなかった。
「わかりました。」
 それ以外、誰も何も言えなかった。

 若干の間があった。
そして、劇団スタッフは切り出した。
 「私どもが皆さんにお会いしたかったのは、
お願いがあってのことでございます。」

 一言ひとこと、言葉を選んでの話し方だった。
私は、次第に重たい気持ちになった。

 劇団は、数多くのミュージカルを公演していた。
子どもにも大人にも、人気あるものが多かった。

 確かにそれらのミュージカルをベースにしたものを、
子ども達が演じていた。
 それは都連合学芸会の舞台でも各学校でもしばしばあった。

 「私どものミュージカルの著作権は、私どもの劇団にあります。
学校であっても、それを尊重しなければいけないのではないでしょうか。」

 性急に対応してほしいと言った態度ではなかった。
研究会でも、改善策を考えて欲しいと言うのだ。
 
 意気揚々向かった場だった。
しかし、帰り道は誰一人、言葉を交わさなかった。
 会場探しが、それ以上の難しい課題に直面したのだ。

 応接室を後にした時、すでに退勤時間が過ぎていた。
役員の1人が言った。
 「いっぱい飲もうか。」
しかし、誰も賛同せず、そのまま散会となった。





 大きくなってきたイガグリ
       ※次回のブログ更新予定は 9月7日(土)です   
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子どもらに すくわれ

2019-07-26 12:33:04 | 教育
 車で出掛けた朝のことだ。
小学校近くの交差点で、登校時の子ども達に出会った。

 赤信号で、停車している私の横の歩道を、
次々と学校に向っていった。
 どんな会話をしているのか、
ランドセル姿に笑顔がいっぱいだった。

 その明るい表情を、いつまでも見ていたかった。
それだけのことだ。
 なのに、今日がずっといい日になるように思えた。
ウキウキした気持ちになっている私がいた。

 あらためて思った。
「子どもと共にいる毎日って素敵だった。」
 教師としての月日、その幸運が蘇った。

 そうだった。
もう随分と過去のことになってしまった。
 40年もの長い時を、小学校と言う場で、
子どもと一緒に過ごした。

 思うように授業が進まず、イライラした時もあった。
荒れた学級を引き受け、
一時たりとも気が抜けない日々もあった。
 子どもの涙に、私の至らなさを教えられたこともあった。

 しかし、いつだって私を励まし、勇気づけ、
助けてくれたのは、あの子どもらしい明るい姿だった。
 校長職に就いてからの記憶をたぐってみた。


 ▼ 校長として最初に着任した学校では、
今までに経験したことのないことが、次々とあった。
 その驚きで、精神バランスが崩れかけた時もあった。

 初めて、その学校を訪ねた日、
真っ先に気づいたのは、
正面玄関に並ぶ児童用下駄箱の老朽化だった。

 戦後まもなくの物かと思うほど、
粗末で使い古されていた。

 校長になりたての私は張りきっていた。
「これを最初の仕事にしよう。」
 そう思い、教育委員会へ要望をした。
当然、『新規児童用下駄箱の購入』であった。

 数日を置いて、教育委員会の担当者がやって来た。
その反応の早さに驚いた。

 「私らも、下駄箱の古さを気にかけていました。
学校からの要望を待っていたところでした。」
 そんな回答だったので、その後は順調に進んだ。

 約1ヶ月足らずで、正面玄関の広さにあわせた、
オリジナルの全校児童数分の下駄箱が、
運び込まれることになった。

 その前日の職員朝会だ。
私は、少し胸を張って、
新しい下駄箱に替わることを先生方に伝えた。

 ところが、その反応は予想外だった。
強い口調の質問が次々と私に向けられた。
 「いつ、誰が決めたんですか。」
「職員会議の了解がないまま進めたのは、
約束違反ではないでしょうか。」
 「校長1人で決めるなんて、
それはできないことだと思うが・・。」
 
 古い下駄箱を新しくする。
そこに、どんな難しい問題があるのか、
私には考えが及ばなかった。
 
 やがて分かった。
一部の先生から上履き不要という意見が出ていたのだ。
 継続検討になっていた。
そんな経過があったことを知らなかった。

 その先生方は、校内も土足のままでいいと言う。
それで、学校内が汚れることはないと主張した。
 だから、上履きも下駄箱も要らないと言うのだ。

 私は、学校内で上履きを使用するのは、
当たり前のことと思っていた。
 なので、なんのためらいもなく下駄箱を新しくしようとした。

 今さら、後戻りできなかった。
厳しい批判を浴びながらも、
翌朝までに正面玄関の児童用下駄箱は、新しい物に入れ替わった。

 そして、その朝だ。
登校してきた子ども達が、正面玄関を入った。
 自分の上履きが、新品の下駄箱にあった。
明るい歓声が玄関のあちこちで、こだました。

 「先生、新しい下駄箱だよ。」
そう叫びながら廊下を走り、
教室へ向かう子どもが何人も現れた。

 その日の放課後、今度は何人もの担任が、
新しい下駄箱に児童氏名の札を貼っていた。

 その後、先生方から、
新しい下駄箱への批判めいた意見を聞くことはなかった。
 朝の子ども達の歓声が、大きな力になったに違いない。 
   
 
 ▼ 給食を終えた昼休みに、
校庭の真ん中で、その事故は起きた。
 すぐに校長室の私にも連絡がきた。 

 沢山の子ども達が、その子を囲んでいた。
私は、子どもをかき分け、その子に近寄った。

 6年生の男子だった。
青ざめが顔で、痛みにじっと耐えていた。
 「そのまま、動かないで!」。
いつも穏やかな表情の養護教諭が、
張り詰めた声でくり返していた。

 状況が全て飲み込めた訳ではなかったが、
大怪我らしいと分かった。
「救急車を呼びましょう」。
 私は、即決した。
「でも、校庭の中までは・・」
 「構いません。それよりも動かさない方が・・」

 しばらくして、救急車がその子の間近まで近寄り、
大きな病院へ搬送した。

 右足大腿骨の骨折と分かり、緊急手術が行われた。
絶対安静でベットから動けない日が、1ヶ月以上も続くことになった。

 校庭に出てすぐ、男子数人で鬼ごっこが始まった。
鬼に追いかけられ、全力で逃げ、向きを変えた。
 その時、足が滑り、転倒した。

 何人もの子が、その時の様子をそう話した。
怪我した本人も、同じように言った。

 当初、私もその怪我の大きさと状況に開きがあり、
鵜呑みにできなかった。
 一緒に遊んでいた子だけでなく、
その時校庭にいた他の子たちにも尋ねた。
 同じ説明ばかりだった。

 しかし、両親は、そんな説明に納得しなかった。
「校庭で転んだ。それだけで、
あんな大怪我をするもんなんですか。」

 みんなで口裏を合わせている。
そんな不信感まで臭わせる場面もあった。
 両親の思いも理解できた。
 
 私は、毎日病院へお見舞いに行き、
付き添う両親に、同じ説明をくり返すことしかできなかった。

 そして、
「もうその説明はいいです。信じられないんです。
お見舞いも遠慮してください。」
 遂に、そうまで言われた。

 私は沈んだ。
ついついため息をつくことが多くなった。
 両親の理解を得るための方法がなかった。

 そんなある朝だ。
いつものように、校門前で登校する子ども達を迎えた。

 すると、確か3年生の女子だったと思う。
「校長先生、これ上げる。」
 両手で差し出したのは、1枚の真っ赤に色づいた落ち葉だった。
「家の前にあった桜の葉っぱ。キレイだがら。」
 「そう、ありがとう。」

 明るい顔を私にむけた後、
一緒だった子と校舎へ向かった。
 その後姿から、2人の会話が小さく聞こえた。

 「喜んでいたね。よかったね。」
「だって、元気になってほしいもん。」

 涙を、必死でこらえた。
私は見られていた。
 小さな温かい心に、大きく励まされた。

 数日後、両親そろって来校した。 
そして、「校庭のどこで転んだのか。」
事故のあった場所での、詳しい説明を求めた。
 精一杯それに応じ、校長の責務に務めた。

 翌日、電話があった。
「十分に納得できました。
救急車の要請など適切な対応をして頂き、
ありがとうございました。」

 安堵とともに、
机上に置いた、あの真っ赤な一葉を見た。
 
 

   

 北海道で『アジサイ』は夏の花
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学校の事件簿 <3>

2019-01-26 21:19:06 | 教育
 ひと冬に1,2度の大雪が降った。
そうは言っても、20センチ弱だ。
 道内の豪雪地帯に比べれば、大ごととは言えない。

 それでも、我が家では雪かきに、
いつもの3倍近い時間を要した。
 玄関から通りまでの通路、駐車場、
そして通りの歩道と車道の一部、
さらに隣接するゴミ置き場の雪を、花壇へ積み上げる。

 積み上げた雪は、冬期間ほどんど解けることはない。 
好天の日に、時々その山を崩し雪融けを促すこともあるが、
山積みの雪は、高くなるばかり。
 これ以上大雪にならないことを願うだけだ。

 そんな冬の一大事の、雪かきだが、
どこの家々でも、欠かすことができない。
 共働きや子育て真っ最中の家庭も、
その忙しさの合間を縫って、取り組む。
 北国ならではだが、
その作業風景に連帯感を覚えるのは、私だけではないだろう。

 さて、雪かきとは全く無関係だが、本題に入りたい。
1年以上も前になる。
 このブログで『学校の事件簿』<1>と<2>として、
20年も前、教頭時代の出来事を4つ程記した。
 今回は、その続編だ。
教頭時代と校長時代から1ずつ、学校にまつわるちょっとした出来事だ。


 ⑤
 教頭職を2つの学校で、計6年間務めた。
批判めいた、迷惑めいた声が時折聞こえたが、
そんな声を無視し、
毎朝、校舎の廊下側窓を全て開けて回った。
 そして、帰りにはその窓が閉じているか確認して歩いた。

 教頭の職務の1つは、学校施設の管理だ。
そのため、校内巡視を欠くことはできない。
 私は、出勤と退勤時の校内点検のついでに、
廊下窓の開閉をしていた。
 それが、その日の学校の始まりと終わりの合図と、
勝手に決めていた。

 その朝は、快晴だった。
窓を開けると、晩秋の心地いい風が廊下に流れてきた。
 3階からは、周辺住宅の屋根が一望できた。
ちょっと立ち止まって、青い空と瓦屋根を見た。

 その時、2階の窓から煙が漏れている家が目に止まった。
学校からはそう遠くない。
 住宅が密集している一角だった。
気になったが、そのまま校内巡視を続け、職員室に戻った。

 すでに校長先生と数人の教員が出勤していた。
遠くからサイレンが聞こえてきた。
 ふと気になり、校長室へ行った。
「先ほど3階の窓から煙の出ている家を見たのですが・・。」

 すかさず校長先生が言った。
「念のために、見に行ってきてください。」
 教頭にとって校長先生の指示は絶対だ。

 見に行くって、何をどう見てくるのか。
もし本当の火事なら、どうしたらいいのか。
 腑に落ちないまま、
廊下の窓から見た家の方向へ、自転車を走らせた。

 路地を抜け、窓から煙が出ている家に着いた。
周りには人の気配がなく、静かだった。
 知らない表札だったが、インターホンを押してみた。
何度押しても反応がない。

 意を決して、玄関扉を開けた。
「きな臭い!」。
 煙の匂いがする。
「すみません。大丈夫ですか。」 
 
 すぐに、2階から女性の声が叫んだ。
「今、火、消してます。」
 玄関脇に階段がある。
そこから、何かを叩きつける物音が聞こえた。
 
 私は動転した。
「エッ、矢っ張り、火事。」
 サイレンが徐々に大きくなっていた。
どうやら今この場にいるのは、私と2階の女性だけのようだ。

 私は、ネクタイにスーツ姿だった。
このまま2階へ上がり、火消しに加わるべきなのだろうか。
 それより、大声を張り上げ、
近くに助けを求めるべきなのだろうか。
 このまま学校に戻り、校長先生に報告すべき・・・。
 
 一瞬、その場でぼう然とした。
でも、次に意を決した。
 2階へ上がろうとした。

 その時だ。
もの凄い勢いで階段を降りてくる足音がした。
 「もうダメです。逃げます。」
女性は、私に体当たりでもするように、
玄関から素足で逃げ出した。

 私も玄関を跳びだし、外へ出た。
もの凄い煙が、2階の窓から出ていた。
 近所の方々も路地に出てきていた。

 すぐに消防車が到着した。
凄い速さで放水を始めた。
 大火にならずに済みそうだった。
ほっとしたが、胸の鼓動はすぐには収まらなかった。

 学校へ急ぐことを忘れ、
自転車を引きながら戻った。
 「もし2階へ駆け上がっていたら、
どうなっていたのだろう。」
 青ざめた顔のまま、校長先生に状況を報告した。


 ⑥
 春先、よく樹の芽時と言うが、この季節は、不審者情報が多い。
学校からは、しばしば保護者宛に注意喚起の印刷物を出す。
 今は、印刷物より一斉メール配信になっているようだ。
そんな情報も、その季節が過ぎると少なくなっていった。
 不思議だった。

 ところが、校長職に就いていたある年、
記憶では秋になってからだった。

 保護者から、不審者情報が相次いだ。
「夕方、塾からの帰り、後ろからついてくる人がいた。」
 「マンションの入り口までついてきて、通り過ぎていった。」
「近づいてきて、何か言った。」
 そんな情報だった。

 そんな知らせを受けるたびに、
子供にも保護者にも注意を促した。
 学級指導と印刷物が頻繁になった。
大きな被害に至らないことを願いながらも、
その内に収まるだろうと期待していた。

 しかし、1ヶ月が過ぎても、不審者の出現が続いた。
電話依頼だけではと思い、
警察まで出向いてパトロール強化をお願いした。

 その後も、たびたび保護者から不安の声が届いた。
加えて、不審者の行動も徐々にエスカレートしているように思えた。
 「マンションの中までついてきた。」
「一緒にエレベーターに乗り込もうとした。」

 大きな事件を予感し、私は自分の無策ぶりに苛立った。
何かしなければと悩んだ。
 突然、思いついた。
「防犯ベルだ。」

 今でこそ、小学生の登下校時に防犯ベルは、
必要アイテムになっている。
 だが、当時はまだ全く普及していなかった。

 私は、防犯ベルの斡旋に乗り出した。
「不審者から子供を守るため、
防犯ベルの携帯を」と、保護者に呼びかけた。
 そのために、学校が希望者への一括購入をすることとした。

 予想以上の反響があった。
約7割の子供が購入した。
 私は、登下校時だけでなく、塾や習い事をはじめ、
あらゆる外出時に携帯するよう呼びかけた。

 数日が過ぎた。
夕暮れが早くなっていた。
 6時を少し回った頃だったろうか。
警察から私に電話がきた。
 「今しがた、不審者を1人、逮捕しました。」

 その日、不審な行動をする者がいたので、
警察が尾行を続けていた。
 一瞬、その姿を見失った時、
マンションの入り口付近から、防犯ベルの音が鳴った。
 
 駆けつけると、不審者が本校児童を、
強引にエレベーターに引き込もうとしているところだった。
 警察は、その場で不審者を取り押さえたと言う。

 その夜のうちに、その児童と保護者が学校へ来てくれた。
その時の様子を話してくれた。
 警察からのと変わりなかった。
大事に至らず、胸をなで下ろした。

 その不審者が、情報のあった不審の全てかどうかはわからない。
しかし、それ以降、そんなことは一切聞こえてこなくなった。

 蛇足だが、その2年後、
区教委より区内の全児童へ防犯ベルが貸与されるようになった。





   この樹木が緑になるのはまだまだ先 
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続 ・ 宿泊学習の『危機』

2018-08-04 16:05:42 | 教育
 梅雨がないはずなのに、
『蝦夷梅雨』などと言う耳慣れない言葉を聞き、
北海道での気候変動を感じた。
 だが、2週間程前から、本格的な夏がやってきた。

 伊達も「暑い!」。
と言っても、30度を越える日はまだない。
 「35度だ!」「40度だ!」と、
危険な猛暑が続く各地の皆さんには、
申し訳ない思いでいる。

 さて、全国的に夏休みである。
この休みを利用して、東京都内の小学校では、
5,6年生の『林間学校』『臨海学園』等々と呼ばれる、
宿泊学習が行われているだろう。

 この時期は、避暑地である長野県、栃木県や、
房総、湘南方面の海水浴場での2泊3日が多い。

 今年3月のブロク「宿泊学習での『危機』」で書いたが、
『学校内の日常とは違う3日間である。
 思いがけない出来事に遭遇することも、珍しくなかった。
「危機」とは、やや大袈裟だが、そんな出来事』が、しばしばあった。

 夏休み中の宿泊学習ではないが、続編を2つ記そうと思う。


  その3

 校長として着任してまもなく、5月末だったと思う。
6年生の宿泊学習があった。

 前年度末には、
宿泊先から3日間のスケジュールの大枠が決まっていた。
 私は、事後承認のような形で、
それを確認するだけだった。

 だが、一つだけ反旗を振った。
それは、その3日間を終えた翌日のことだ。

 計画では、宿泊体験から戻った次の日、
6年生の登校は2時間遅れになっていた。

 理由は、「3日間の宿泊で子供が疲れている」と言うのだ。
私は、納得しなかった。

 今までの経験から、確かに翌日の子供には疲労感からか、
覇気が薄れていた。
 だからと言って、登校を2時間遅らせることが、
その改善になるとは思えなかった。

 疲労の残る子ども達であっても、
それに応じた内容や進め方など、
学習を工夫すれば、それでいいだけなのだ。

 職員会議で話し合った。
そして、私は、若干強引に、翌日の通常登校を指示した。
 6年担任をはじめ、教職員は渋々それに応じた。

 ところが、このことが、意外な展開をみせた。

 宿泊学習から戻った翌朝、
6年生も他学年と一緒に通常通り登校した。

 しかしなのだ。
各学級で朝の出欠を確認した。
 6年担任がそろって、校長室に駆け込んできた。

 6年生の2学級とも、
半数近い子が登校していないのである。

 連絡のあった欠席や遅刻の理由は
『体調が悪いので、病院へ行きます。』
 『おきられないようなので、様子をみてから・・。』
『昨日、戻ってから、元気がなく・・。』等々だった。

 6年担任は、そんな状況を報告しながら、
「だから、2時間遅れの登校がよかったんです。」
 ありありとそう言いたげな表情をした。

 出欠の報告を受け、私も若干反省するしかなかった。 
それにしても、体力のない6年生に、
若干違和感を抱いた。

 10時を回った頃だったろうか。
養護教諭が、緊張した表情で校長室にやって来た。
 「保健所から緊急連絡がありました。」 

 本校の6年生児童に集団食中毒の疑いがあると言うのだ。
学校近隣の内科医院から、
「食中毒とみられる同じ症状の6年生が来院している」。
 保健所にそんな通報があったのだ。

 いずれも症状は軽く、回復傾向にあるとのことだった。
しかし、集団食中毒の疑いがある。
 時間を待たず、保健所からの『聞き取り班』がやって来た。

 当然、3日間の宿泊学習の食事が疑われた。
調査は、すぐにその宿舎に及んだ。
 結果は、調査を待つしかなかった。

 予想もしない展開に、私はその対応に奔走した。
そうしながら、
今日の6年生の欠席や遅刻の原因が、
「2時間遅れではなく、通常登校に変更したこと」とは、
無関係なことに安堵した。

 1週間後、臨時保護者会を行った。
区教委と保健所から、
集団食中毒の疑いに対する調査報告があった。

 宿泊先からは食中毒の原因と思われるものは、
特定できなかった。
 また、食中毒の感染経路も明確にならなかった。
ただ、6年生の児童に、
集団食中毒と同様の症状が見られたと言うのだ。

 出席した保護者も私も釈然としなかった。
しかし、その後の6年生は何事もなかったかのように、
全員元気に過ごした。

 なので、その出来事はそれで終止符が打たれた。


  その4
 
 その年、同伴した6年生は、1組も2組も際だって仲が良かった。
初日も2日目も、明るい声、笑い声が絶えなかった。
 集団行動もしっかりとしており、
いつも集合時間の5分前には全員がそろった。

 校長として引率していても、
余分な気配り、目配りの必要がなかった。
 私も、自然に子供の輪に入り、
楽しいやり取りを続けていた。

 ところが、最終日、3日目の朝だった。
予定の時間に、宿舎の食堂で朝食を終えた。

 全員で、その後片付けを始めて間もなくだった。
男子の明るい声が、私に言った。

 「先生、僕のヨーグルト、賞味期限、切れていたよ。」
とっさに私は、訊いた。
 「どうした?」
「ウン、食べたよ。平気!平気!」

 「みんな、もう一度、席に着いて・・。
自分の席に、座って下さい。」
 私は、声を張り上げた。

 しっかりした子ども達だ。
後片付けの手を止め、すぐに朝食の時の席に座った。
 私は、訳を説明した。

 賞味期限切れと知りながら、
ヨーグルトを食べた子は、男子1人だけだった。
 他の子は、そんなことを気にも止めず、
確認などしないまま食べていた。
 それは、至極当然のことだと思う。

 班ごとに囲んだテーブル席の上には、
片付け途中のヨーグルトカップが重ねられていた。
 手分けして、そのカップの賞味期限を確認した。

 その男子がいた班のテーブルにあった12個のカップから、
6個の賞味期限切れが見つかった。
 しかし、それを誰が食べたかは、すでに不明だった。

 「きっと大丈夫だ思うけど・・。」
子ども達にそう言いつつ、
『区立の宿泊施設で、賞味期限切れを提供するなんて・・』
驚きと共に、怒りがこみ上げていた。

 食堂の調理さんの答えは、
「気づかなかった」をくり返すだけだった。

 私は、時間を待って、宿舎から区教委へ電話連絡を入れた。
1つは、賞味期限切れのヨーグルトを食べた場合の、
健康被害について調べ、その対処法を知らせてほしいこと。
 もう1つは、本日夕方、帰校するまでに、
事実を保護者に伝え、謝罪する手立てを整えてほしいこと。
 その2つを要望した。

 その後、子ども達と一緒に3日目の見学や体験学習を、
予定通り進めた。
 その間、腹痛や体調不良を訴える子は現れなかった。

 行く先々で、区教委からの電話が入った。
大きな健康被害は考えにくい。
 しかし、発熱や下痢の体調不良も考えられる。
そんな回答があった。

 そして、私からの強い要望を受け、
帰校後出迎えにきた保護者に、
その場で、宿舎の管理者にあたる区教委から、
事実経過の報告、そして謝罪をすることになった。

 帰校すると、その準備が整っていた。
下校する子どもには、
事実と予想される健康被害、謝罪が記された印刷物が渡された。

 子ども達と保護者が下校すると、間髪を入れず、
私は、区教委の幹部と担当職員を連れ、
期限切れを食べた男子と、
その可能性のある子供の家庭を訪問した。

 そして、一軒一軒、丁寧に説明とお詫びをした。
そんな対応に、保護者は恐縮していた。
 12軒目を終えた時には、夜も深まっていた。

 翌日、子ども達は全員笑顔で登校した。
誰一人、体調不良はいなかった。
 安堵した。

 それでも、私は区教委に原因究明を強く求め続けた。 

 



  この色の 紫陽花に 目がいく 

 ≪ 次回の更新は 8月17日の予定 ≫
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研究授業が育てる

2018-05-12 21:26:44 | 教育
 教職を離れて、7年になる。
学校の有り様もかなり変わったようだ。

 教室にタブレットが持ち込まれ、
授業で活用している事例が、ニュースになっていた。
 私の想像を越えており、その授業をイメージできなかった。
もう、老兵が立ち入るすき間は、とうになくなっていると感じた。

 だが、「IT」や「AI」の物凄い発達に伴い、
教育活動も、多様に姿を変える必要があることは理解できる。
 それはそれで、時代のニーズなのだ。
的確に迅速に対応してほしいと願っている。

 よく言われることだが、教育は『不易と流行』である。
タブレット導入のように時代に応じること、『流行』と、
いつの時代でも変わらないこと、『不易』の両者があって教育なのである。
 教育内容にも方法にも、『不易と流行』は求められる。

 そのため、教員には常に研修が必要になる。
今回は、その研修の根幹にある研究授業について触れる。

 念を押すことになるが、
教員は誰でも、日々の教育実践と合わせて、
研修を心がけ、それに時間をさく。

 研修の中心は、授業改善である。
研究課題が何であっても、その課題を達成する手段は、
授業以外にない。
 それは、医療の課題解決が、
治療方法(新薬開発を含む)以外にないのと同じである。

 教員に成り立ての頃、授業の基本すら理解していなかった。
同期や同学年の先生たちの授業を見て、
私自身の未熟さを痛感した。

 同僚や先輩に尻を叩かれ、研究授業をすることになった。
授業前に何度も授業検討会を開いてもらった。
 その度に、指導案を書き直した。

 緊張のあまり、眠れないまま研究授業の日を迎えた。
不安は的中した。最初の発問でつまづいた。
 思いのほか、時間ばかりが流れた。
予定していた計画の半分も進まなかった。

 研究協議会では、冷たい視線を感じた。
それより、情けない気持ちと子ども達への申し訳なさで、
胸がいっぱいになった。

 それから、何度研究授業を行っただろう。
いつもいつも進んで授業者になった訳ではない。
 
 最初の研究授業の傷は深かった。
でも、無駄でなかった。
 あの失敗を、毎日の授業で意識した。
以来、最初の発問だけは、工夫した。
 研究授業の機会があったからこその収穫だった。

 そんな貴重な経験があったので、不安だらけだったが、
研究授業の機会があると、
「頑張ります」と受けるようになった。

 1,2年に1度は、先生方に授業を見てもらった。
1年に2回、違う教科で研究授業を行ったこともあった。

 その都度、収穫よりも課題が明確になり、肩を落とした。
でも、翌日からの授業で、クリアすべきことが分かり、
新たな意欲が生まれた。

 いつからか、徐々にだが、授業展開の引き出しが増えた。
研究授業の賜物と思えた。
 その成果を、毎日の授業で活用できるようになっていった。

 もうベテランと言われる年令の頃だ。
難しい説明文で、国語の研究授業をすることになった。
 指導書や参考書をあてにせず、
教材の分析から指導計画、展開まで、
授業つくりのすべてを、オリジナルで実践した。

 その頃には、学級集団の雰囲気、各教科の授業への取り組み方、
そして、国語への興味関心など、
研究授業のその時間だけでなく、日頃の指導の重要性に気づいていた。
 そこにも力を入れ、実践を重ねた。

 その日、授業と協議会を終え、私は初めて充実感を覚えた。
「ここまでできるようになった。」
 そんな実感がようやく持てた。

 授業は奥が深い。まだまだ課題のある授業ではあった。
それでも、いい授業の入り口にまではたどり着いた気がした。
 嬉しかった。

 校長になってから、この経験をよく若い先生方に語った。
そして、チャンスを逃さず、
進んで研究授業をするよう助言した。
 「それが、教員としてのあなたを育てる」と強調した。

 さて、ここから先は、校長としての私を、
深く反省するくだりになる。

 校長としての私は、
校内研究にさほどエネルギーを傾けなかった。
 近隣の多くの学校同様、校内で研究テーマを設定し、
研究授業を軸に研修を進めた。

 しかし、年間の研究授業の回数は、
低・中・高学年各1回の3回だった。
 せめて各学年1回の6回が望ましいと思いつつも、
私はそれを言葉にしなかった。
 それは、多忙を極める先生方への私なりの配慮だった。

 学校を去って多くの月日が過ぎた。そして今、思う。
「なぜ、そんな気の遣い方をしたのだろう。」

 確かに、研究授業をするには、それまでに準備が多い。
・授業つくりの課題をしっかりと受け止めること
・授業のねらいを、いつも以上に深く理解すること
・授業展開の細部まで吟味し、指導の工夫に知恵をしぼること   
・子ども達の意欲や関心に適した学習方法を探ること
・学級を親和的な雰囲気で学習する場にすること
など、教材研究や学級経営に特別な取り組みを求められる。

 私は、研究授業に費やす事前の大変さにばかり目がいった。
「そのご苦労を先生方に強いるのは・・・」とためらった。

 しかし、それは軽率な判断だった。
げんに私のキャリアは、その研究授業を通して育てられた。 
 私の経験には、1度たりとも無駄な研究授業はなかった。

 ならば、「研究授業は、大きなエネルギーを使うが、、
教育課題や自らの資質向上のためには欠かせないものだ」
と、しっかりと説くべきだった。
 そして、各先生方に、研究授業の機会を数多く提供すべきだった。

 私は、先生方にとって貴重な研究授業のチャンスを、
奪ってしまった校長だった。
 悔いが残る。

 今、働き方改革が政治の焦点になっている。
教員の長時間労働もその対象だろう。
 9時過ぎまで職員室の明かりが消えない。
それが当たり前な教育現場は是非解消して欲しい。

 だからとばかり、校内研究を軽く扱い、
研究授業の機会をねじ曲げることだけは、
考えないで頂きたい。
 
  


   庭のジューンベリーが 華やか 
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