高校2年の修学旅行は、東京そして新幹線で京都・大阪まで行った。
東京では、丸一日の自由行動があった。
級友4人で、それぞれ行きたい所を出し合い、そろってそこを回ることにした。
私は、上野公園以外の名所を知らなかったので、
「俺の行きたい場所は」と、真っ先に言った。
宿泊場所が近かったので、いの一番でそこへ行った。
忘れもしない。山手線を上野駅で降り、公園口改札を出て、
東京文化会館前を4人そろって通り過ぎようとしていた時だった。
男女二人の外国人に、突然話しかけられた。
その二人は私を見た。見上げるような大きな男の目と私の目が合った。
笑顔で私を見ながら、どうやら同じようなことをくり返し言っていた。
私は、すぐ舞い上がってしまった。私の周りだけ急に時間が止まってしまった。
きっと英語だったのだろうが、何も聞こえてこなかった。
青い目をした白人を、こんなにも近くで見るのは初めてだった。
私は、オドオドと級友に寄り添っていった。
級友の1人が、何やら言葉を交わし、笑顔で握手をした。
「ここは東京文化会館かって訊かれたから、そうだって言っておいたよ。」
明るい表情の彼とは反対に、私は、折角楽しみにしていた自由行動の日が、
沈んだ気分の一日になってしまった。
ちなみに、その日外国人に対応した級友は、後々新聞記者になり、
海外特派員として随分と活躍した。
それに比べ私は言えば、あの一件ですっかり外国人アレルギーになり、
英語をはじめ、外国の文化すべてに興味を失ってしまった。
だから、ちょうどバブル期の頃だろうか、
盛んに教員海外研修が行われ、私も度々お誘いを受けたのだが、
理由にもならない言い訳をして、ことごとくお断りをしていた。
ところが、教頭なって初めて着任したS小学校は、
当時、東京都K区で唯一の国際理解教育推進校であった。
K区等がお招きした外国からのお客様で、学校視察が計画される場合、
そんな時は、決まってS小学校がその要請を受け入れていた。
私が着任したその年度だけでも、6カ国の方々が来校された。
教頭は、その受け入れの窓口であった。
歓迎セレモニー、学校の概要説明、
学校施設や授業等の視察など、その対応の先頭に立った。
着任してまもなく、ウイーン市の一行5名が来校した。
K区の重職の方々も大勢随行された。
分刻みのスケジュールが事前に組まれ、
私はそれに沿って、その場を切り盛りした。
外国人アレルギーの私には、最も避けたい仕事だった。
しかし、それはできないことだった。
東京文化会館前のあの日の光景を思い出し、
オドオドしてしまう自分が、
20年の歳月が過ぎてもまだ、私の胸に歴然と生き残っていた。
私は、そんな胸の内を誰にも気づかれないよう、
何度も何度も深呼吸をした。
そして、精一杯の明るい顔を作った。
「外国から来た人は、その時出会った何人かの日本人を通して
日本を知ることになる。」
この言葉を、何度も思い出し、私を励まし続けた。
ところが、その日、私のアレルギーを軽減させてくれることがあった。
5名の方を授業参観へと案内した。
1年生から6年生までの全授業をご覧頂くのだが、
そのガイド役を私が務めた。
全く未経験のことであった。
足がわずかに震えていた。
私が先頭になり、すぐそばに若々しい女性の通訳さんがついてくれた。
まずは1年生の教室へと進んだ。
教室に入り、さっそく
「ここは1年生、7才の児童22名が学んでいます。」
すると、隣にいた通訳の女性が、
突然5名の方に向かってドイツ語で話し出した。
私の言葉がドイツ語になっていくことに驚いた。
そして、分かる訳もないのに、夢中でそのドイツ語に聞き耳を立てた。
通訳さんが、急に振り返り私を見た。
ハッとしたが、ガイドの続きを言うのだと気づいた。
しかし、今、何をどこまで話したのか思い出せなかった。
小声で、「私、何って言いました?」と、通訳さんに尋ねた。
怪訝そうな表情を浮かべながら、「年齢と人数です。」と、教えてくれた。
「今は、国語の時間で最も簡単なひらがな文字を学んでいます。」
と、何事もなかったように私はガイドを続けた。
すかさず、通訳さんがドイツ語で伝えた。
そのドイツ語に私は、また夢中で聞き耳を立てた。
再び、どこまでガイドしたのかを忘れ、通訳さんに尋ねた。
何度もそれを繰り返してしまった。
とうとう隣の通訳さんが、
可笑しさを堪えきれずに、笑い出してしまった。
私は、恥ずかしさと申し訳ない気持ちで、
次の教室に移動する廊下で、通訳さんに謝罪した。
通訳さんは、私の馬鹿げた言い訳を聞きながら、またまた笑い出してしまった。
その時、私達の様子を見ていたウイーンからのお客様の一人が、
明るく話しかけてきた。
「楽しそうな訳を教えてと、言ってます。」
通訳さんは少し困り顔だった。
私が取りつくろう言葉を見つけられずにいると、
通訳さんが、笑顔でその方に話し出した。
今度は、私が困り顔になった。
しかし、その方は、時折笑い声を交えながら、何やら通訳さんに言い、
明るい表情で、何度も私を見た。
「ありのままをお話ししましたところ、この方も同じで、
どんな日本語になるのかと、つい言ったことを忘れてしまうそうです。」
「外国の方とお話しすることに慣れてないので。」
と、伝えてもらうと、
「私も同じです。」と笑顔が返ってきた。
初めて、外国人と気持ちがつながった。
それが、外国人アレルギーから脱皮する第一歩になった。
お客様が学校を去られるとき、それぞれ握手をしながら別れを惜しんだ。
「私も同じです。」と笑顔を交わした方が、「ダンケシェーン」と私の手を握ってくれた。
私は、何もためらうことなく、「ダンケシェーン」と、明るく返すことができた。
昭和新山の隣に 真っ白な蝦夷富士(羊蹄山)が
東京では、丸一日の自由行動があった。
級友4人で、それぞれ行きたい所を出し合い、そろってそこを回ることにした。
私は、上野公園以外の名所を知らなかったので、
「俺の行きたい場所は」と、真っ先に言った。
宿泊場所が近かったので、いの一番でそこへ行った。
忘れもしない。山手線を上野駅で降り、公園口改札を出て、
東京文化会館前を4人そろって通り過ぎようとしていた時だった。
男女二人の外国人に、突然話しかけられた。
その二人は私を見た。見上げるような大きな男の目と私の目が合った。
笑顔で私を見ながら、どうやら同じようなことをくり返し言っていた。
私は、すぐ舞い上がってしまった。私の周りだけ急に時間が止まってしまった。
きっと英語だったのだろうが、何も聞こえてこなかった。
青い目をした白人を、こんなにも近くで見るのは初めてだった。
私は、オドオドと級友に寄り添っていった。
級友の1人が、何やら言葉を交わし、笑顔で握手をした。
「ここは東京文化会館かって訊かれたから、そうだって言っておいたよ。」
明るい表情の彼とは反対に、私は、折角楽しみにしていた自由行動の日が、
沈んだ気分の一日になってしまった。
ちなみに、その日外国人に対応した級友は、後々新聞記者になり、
海外特派員として随分と活躍した。
それに比べ私は言えば、あの一件ですっかり外国人アレルギーになり、
英語をはじめ、外国の文化すべてに興味を失ってしまった。
だから、ちょうどバブル期の頃だろうか、
盛んに教員海外研修が行われ、私も度々お誘いを受けたのだが、
理由にもならない言い訳をして、ことごとくお断りをしていた。
ところが、教頭なって初めて着任したS小学校は、
当時、東京都K区で唯一の国際理解教育推進校であった。
K区等がお招きした外国からのお客様で、学校視察が計画される場合、
そんな時は、決まってS小学校がその要請を受け入れていた。
私が着任したその年度だけでも、6カ国の方々が来校された。
教頭は、その受け入れの窓口であった。
歓迎セレモニー、学校の概要説明、
学校施設や授業等の視察など、その対応の先頭に立った。
着任してまもなく、ウイーン市の一行5名が来校した。
K区の重職の方々も大勢随行された。
分刻みのスケジュールが事前に組まれ、
私はそれに沿って、その場を切り盛りした。
外国人アレルギーの私には、最も避けたい仕事だった。
しかし、それはできないことだった。
東京文化会館前のあの日の光景を思い出し、
オドオドしてしまう自分が、
20年の歳月が過ぎてもまだ、私の胸に歴然と生き残っていた。
私は、そんな胸の内を誰にも気づかれないよう、
何度も何度も深呼吸をした。
そして、精一杯の明るい顔を作った。
「外国から来た人は、その時出会った何人かの日本人を通して
日本を知ることになる。」
この言葉を、何度も思い出し、私を励まし続けた。
ところが、その日、私のアレルギーを軽減させてくれることがあった。
5名の方を授業参観へと案内した。
1年生から6年生までの全授業をご覧頂くのだが、
そのガイド役を私が務めた。
全く未経験のことであった。
足がわずかに震えていた。
私が先頭になり、すぐそばに若々しい女性の通訳さんがついてくれた。
まずは1年生の教室へと進んだ。
教室に入り、さっそく
「ここは1年生、7才の児童22名が学んでいます。」
すると、隣にいた通訳の女性が、
突然5名の方に向かってドイツ語で話し出した。
私の言葉がドイツ語になっていくことに驚いた。
そして、分かる訳もないのに、夢中でそのドイツ語に聞き耳を立てた。
通訳さんが、急に振り返り私を見た。
ハッとしたが、ガイドの続きを言うのだと気づいた。
しかし、今、何をどこまで話したのか思い出せなかった。
小声で、「私、何って言いました?」と、通訳さんに尋ねた。
怪訝そうな表情を浮かべながら、「年齢と人数です。」と、教えてくれた。
「今は、国語の時間で最も簡単なひらがな文字を学んでいます。」
と、何事もなかったように私はガイドを続けた。
すかさず、通訳さんがドイツ語で伝えた。
そのドイツ語に私は、また夢中で聞き耳を立てた。
再び、どこまでガイドしたのかを忘れ、通訳さんに尋ねた。
何度もそれを繰り返してしまった。
とうとう隣の通訳さんが、
可笑しさを堪えきれずに、笑い出してしまった。
私は、恥ずかしさと申し訳ない気持ちで、
次の教室に移動する廊下で、通訳さんに謝罪した。
通訳さんは、私の馬鹿げた言い訳を聞きながら、またまた笑い出してしまった。
その時、私達の様子を見ていたウイーンからのお客様の一人が、
明るく話しかけてきた。
「楽しそうな訳を教えてと、言ってます。」
通訳さんは少し困り顔だった。
私が取りつくろう言葉を見つけられずにいると、
通訳さんが、笑顔でその方に話し出した。
今度は、私が困り顔になった。
しかし、その方は、時折笑い声を交えながら、何やら通訳さんに言い、
明るい表情で、何度も私を見た。
「ありのままをお話ししましたところ、この方も同じで、
どんな日本語になるのかと、つい言ったことを忘れてしまうそうです。」
「外国の方とお話しすることに慣れてないので。」
と、伝えてもらうと、
「私も同じです。」と笑顔が返ってきた。
初めて、外国人と気持ちがつながった。
それが、外国人アレルギーから脱皮する第一歩になった。
お客様が学校を去られるとき、それぞれ握手をしながら別れを惜しんだ。
「私も同じです。」と笑顔を交わした方が、「ダンケシェーン」と私の手を握ってくれた。
私は、何もためらうことなく、「ダンケシェーン」と、明るく返すことができた。
昭和新山の隣に 真っ白な蝦夷富士(羊蹄山)が