ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

シリーズ『届けたかったこと』   (3)

2016-03-18 22:07:19 | 教育
 週1回、わずか5分間、
それが、全校児童と教職員に対して許された、
私のプレゼンテーションの時間だった。

 言語による表現力は、
①コミニュケーション力、②プレゼンテーション力、③ディベート力に
大別されると言われている。
 教師には、この全ての言語表現力が求められているが、
とりわけ多数を対象に、
一方的に何かを伝達する力(プレゼンテーション力)は、
教師の指導力として欠くことのできないものである。

 全校朝会等での校長講話は、
子どもにとって教育的な役割を持ったものであるが、
一方、教職員にとっては、
子どもへのプレゼン力を培う、生きた貴重な研修の場である。

 私は、子どもに話す内容を吟味すると共に、
教職員には、話し声の質、抑揚、速さ、間合い、
そして話の構成、時にはドラマ性など、話術を十分意識して、
子ども達が聞く、壇上に立った。

 余談だが、「子どもが話を聞かない。」
と言う教師のなげきを耳にするが、
それは、「子どもが聞きたくなるような魅力ある内容、
あるいは話し方でないから」ではなかろうか。

 さて、講話の内容である。
その基本は、子どもの知的好奇心を揺り動かすなど、
学習をはじめとする、様々な意欲を喚起するものでありたいと思う。

 子ども一人一人、その子の持つ関心事には違いがある。
自然現象、社会事象、史実、文学、化学、メカニック、人間関係等々、
興味はその子によって多種多彩である。
 だからこそ、朝会での話題は、多岐にわたっていいと私は思っている。

 ある話題が、その子の関心事を直接刺激することもあるだろう。
またある子には、今まで全く興味の無いことだったが、
突然関心をもつことになる場合もあるのではなかろうか。

 あらゆる可能性を信じて、
子ども一人一人の興味関心を目ざめさせること、
その子の関心事の視野を広げてあげること等、
私は、そんな想いを強く持ちながら、5分間を使った。

 今回は、その折々の季節感を意識した話題を記す。


   5 「おはぎ」と「ぼたもち」

 昨日は、秋分の日でお休みでしたね。
お彼岸の中日と言って、
家族でお墓に行かれたお家もあったのではないでしょうか。
 中にはおはぎを作って食べたお友達も、
いるのではないかな。

 実は、私は30才前に父を亡くしました。
だから、私の家には小さな仏壇があります。
 なので、毎年、この時期にはおはぎを作ります。

 そう、二人の息子が小さかった頃は、
ママと一緒におはぎ作っていました。

 炊いた餅米を少しつぶしてから丸め、
小豆で作った甘いあんこを、その丸めた上にぬりつけます。
その後、形を整えて「おはぎ」の出来上がりです。

 出来上がった時には、両手はあんこで黒くなります。
その黒い手をかざして、二人の小さな息子は、
「ママ、きたないね。」と、よく言っていました。
 私は、「きたないね。」と言いながら、
甘くて美味しいおばぎを作っているのがおかしくて、
近くで笑っているだけでした。

 そんな息子達もすっかり大人になりました。
今では毎年くり返されていた、
もう何十年も前のお彼岸のことが、懐かしく思い出されます。

 さて、この「おはぎ」ですが、「ぼたもち」とも言いますね。
「おはぎ」と「ぼたもち」、
特に違いはなく、どちらの言い方でもいいそうです。

 ところが、「いやおはぎとぼたもちは違う。」
と、言う人もいます。どう違うのでしょうか。

 実は、こんな違いがあるんだそうです。
「おはぎ」と言う時の『はぎ』は、
秋に咲く花「萩」のことなんです。
 だから、秋に食べるのが、「おはぎ」なんです。

 そして、「ぼたもち」は、
春に咲く花「牡丹」からついた名前で、
春に食べるのが、「ぼたもち」なのだそうです。

 その上、「おはぎ」と「ぼたもち」は、
食べる季節の違いだけではないのです。
 「おはぎ」はつぶあん、
「ぼたもち」はこしあんで作るものなんだとか。

 それは、どちらも小豆のあんこなのですが、
秋に収穫したばかりの小豆は、皮がまだ柔らかいので、
つぶあんが美味しいのです。
 それにくらべ、冬を越した小豆は皮が固くなります。
だから、春の「ぼたもち」は、こしあんにして作るのです。
 
 今、世界中で、日本食がブームになっています。
単に美味しいと言うだけではなく、
きめ細やかな調理法が注目されているんです。
 「おはぎ」と「ぼたもち」の違いにも、
それに通じるものがあるような気がします。

 お話を終わります。


   6 鬼は ウチ !?

 2月3日は節分です。
年に1回、豆まきをするお家が多いかと思います。
 家の中と外に豆をまきながら、
「福は内、鬼は外」
と、大きな声を張り上げるのが、豆まきのやり方ですね。

 ところが、 
「鬼がかわいそう。あっちの家でもこっちの家でも、
豆をまかれて追い出され、
鬼は、さぞかし痛い思いをしていることだろう。
寂しいことだろう。きっとどこにも行くところがないのだろう。
それじゃ、私の家にいらっしゃい。」
と、肩をすぼめて逃げ迷う鬼を哀れに思う人がいるのです。

 聞くところによりますと、
「鬼は内、鬼は内」
と、鬼たちを手厚くもてなす旧い家があるのだそうです。
山形市や、東京では小平市、
そして、その他の土地にもあるようです。

 だいぶ以前に耳にしたことですが、こんな家もあるそうです。

 そこの家では、節分の夜、「鬼の宿」と言う札をかけ、
お赤飯をたき、酒を供えて、姿のない鬼を待つのだそうです。

 夜になり、家々から追い出された姿のない鬼は、
やがてその家に集まってきます。
 鬼たちは、たんまりとご馳走を食べ、お酒を飲んで、
いい気分になって寝てしまいます。

 真夜中、この家の人たちは、これまたお酒のかかった赤飯を
「三方」という物に盛り、
姿の見えない鬼たちを、村のはずれの四辻まで
送って行くのだそうです。

 今もそんな行事が続いているのかどうかは、定かではありません。
でも、鬼と言えども、哀れに思って、
もてなす人がいることを知り、私はとても嬉しく思いました。

 「福は内、鬼は外」と言って、嫌なものを、ずるいものを
追い出すこと、捨ててしまうこと、
 それはそれでいいことに違いありません。
しかし、それだけはなく、
その後のことを想う人がいるって、素晴らしいことではないでしょうか。

 お話を終わります。 





  雪が消えた『秋蒔き小麦』の畑
コメント
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