ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

老いてからを どうする

2017-06-02 17:02:22 | 思い
 まもなく70歳になる時、母は父に逝かれた。
その後は、鮮魚店を引き継いだ兄夫婦と一緒に、
暮らし始めた。

 70歳代前半は、首都圏に住む私の家に、
毎年春先の2ヶ月間程滞在し、
2人の息子の世話や家事をしてもらった。

 その後は、次第に老いを感じるようになり、
遠出もままならず、時々好きな庭いじりをしながら、
のんびりと兄宅で日々を過ごした。

 とは言うものの、まだまだ体は動いた。
早朝から夜遅くまで、
自宅から車で30分程の店で働く兄夫婦に変わって、
朝夕の食事の支度だけは、母の仕事だった。

 週1日の休日以外は、毎日続けた。
献立は兄夫婦が決め、
店からその食材は持ってきてくれた。

 母は、買い物などの手間が不要で、
外出することもなかった。

 慌ただしく朝食を済ませて、2人が出かけた後、
1人で朝食を摂り、後片付けをした。
 昼食は、その辺りの残り物を、これまた1人で食べた。

 そして、夕方、今度は夕食の準備。
その全てを食卓に並べ、2人の帰りを待った。
 何度も、先に食べていいと言われたが、
母はそうしなかった。

 きっと、「夕食だけは1人じゃなく」、
食べたかったのだろう。

 待ちに待った午後10時近く、
帰宅した2人と一緒に食卓を囲んだ。
 しかし、疲れ切っている2人は、母との会話まで余裕がなく、
入浴後すぐに布団につくのが、日課だった。

 近所には、親しくしてくれる同年代の方が2,3人いた。
だが、茶飲み友だちとは言え、
歳とともにその機会が少なくなっていった。
 次第に人とのふれあいが減り、会話がなくなっていった。

 いつからか、兄たちが頼んだ夕食の献立が、
時々違った。
 煮魚が焼魚に、油炒めが煮物になったりした。
味付けに首を傾げることも、増えていったと言う。

 それらを指摘すると、
「いつも言われた通りにしているよ。」の答えが返ってきた。
 ついには、朝食の洗い物がそのままの日が増えた。
明らかに、母に変化が出始めた。
 兄は悩んだ。

 ある日、母は毎日がつまらないと言いだした。
母なりに考えたのだろう。
 「同じ年頃の人がいる老人ホームに入りたい。
話し相手がほしいの。」
 真顔で、そう言った

 父が亡くなった時の家族会議で、
兄は「俺が最期まで見る。」と、母との同居をみんなに約束した。

 「なのに、老人ホームに預けるのは、
その約束に反することになるべ。」
 生真面目な兄は、そう言い張った。
しかし、「本人がそれを望むのだから・・」。

 私をはじめ、親族の声に押され、
兄は地元の老人ホームに母を預けた。
 兄はその時の心境をこう言った。

 「みんなに言われて、入所させたけど、
姥捨て山に連れて行ったみたいで、辛かったよ。」

 ところが、その母は、兄や私たちの予想に反し、
大変身をとげた。

 入所した老人ホームでは、毎日のように様々な催し物があった。
それまでの日常に比べ、変化に富んだ毎日だった。
 日課もしっかりと決まっていた。
時には、それに遅れた。
 すると、入浴の機会さえ逃すことにもなった。

 母は、ホームの流れに従おうと、懸命になった。
日々、若干の緊張感があった。

 その上、ちぎり絵など、
「人生で初めて!」にチャレンジする機会も訪れた。

 大相撲の星取り予想に、ホームのみんなで一喜一憂した。
星取り予想の的中率一番の人には、
ホームからトロフィーのプレゼントがあった。
 母も一度頂いたと大喜びした。

 長期休みを利用して、私もその老人ホームを訪ねた。
久しぶりに私と顔を合わせた母の開口一番は、
「毎日忙しくて、楽しいよ。」だった。
 姥捨て山などとは、全く無縁だと思った。
母の言葉に、ずっと心が温かかった。

 白髪が多くなった髪の毛を染めたい。
毎日、新聞を読みたい。
 そして、若い頃夢中になった歴史小説を読んでみたいと、
言いだした。

 こうして母は見事に復活した。
96歳までの長寿を生き、静かに旅立った。

 もう10年以上も前のことだが、
私は、母から老いてからの道を、教えてもらった気がしている。

 しかし、まだまだ先と思いつつも、
私にも老いの道が、徐々に現実味を帯びてくる。
 その覚悟と共に、様々な迷いも生まれる。

 つい先日、こんなことがあった。

 ご近所におられた方が、
『サービス付き高齢者向け住宅』に転居された。
 「80を越えたら、こういう所で暮らそうと決めていたの。
いい所がみつかったから・・・。」
 数年前、ご主人に先立たれた彼女は、
そう言い残していった。

 先日、そこでの暮らしにも慣れた頃だろうと、
訪ねてみた。
 1人住まいと2人住まいがある共同住宅である。
1人用の彼女の部屋は、思いのほか手狭に感じたが、
しっかりとプライバシーは守られているようだった。

 毎日3食を共にする食堂は、明るく開放感があった。
高齢者には、食事は最大の楽しみである。
 ここに集まり、みんなでワイワイ言いながらの、
楽しい食事風景が想像でき、嬉しくなった。

 その時だ。「でもね。」
彼女は、一緒にここで食事をする男性のことを、
話し始めた。

 彼はすでに90歳を越え、独り身だった。
食堂へは毎回いち早く顔を出し、
一番端のお気に入りの席を陣取った。

 自分から話しかけようとはしなかったが、
周りの人の声かけには、
いつも穏やかな明るい表情で応じた。
 身のこなしにも、服装にもセンスがあった。
食事は、少量だが、美味しそうに残さず食べた。

 その彼が、週に一度だけ、
暗い顔で席に着く日がある。
 朝と夕の献立が洋風の日が、毎週1回はある。
彼は、その献立が苦手だった。
 その日は、ほとんどの料理に手が伸びないのだ。

 いつものお盆を持って、厨房のカウンターに並ぶ。
その日、朝はトーストにサラダなど、
夕方はハンバーグやスパゲティーが出てくる。

 彼は、それらを持って、お気に入りの席に着く。
そして、そのメニューを見て、
毎週、大きなため息をつくのだ。

 「少しでも食べたら。」
周りに促され、ほんの少量を口に運ぶが、
まったく箸が進まない。
 再び、大きなため息の時間が続く。

 別メニューなど、ここでは許されない。
他の食べ物を食堂に持ち込むことも禁じられている。

 だから、毎週1回、彼は必ず満たされない食事の時間を、
ここで過ごし、これからも過ごす。

 それが、ある90歳を越えた男性の食生活の一端である。
私は、その話に胸が詰まった。
 やるせない想いで、いっぱいになった。

 彼がここまでどんな人生を歩んできたのか。
なぜ、この住まいにいるのか。
 それを知ることはできない。

 たとえ、どんな歩みであっても、人生の終末である。
毎週必ずやってくる、辛い食事の時間。

 彼のわがままが招いたことと、言えるだろう。
しかし、それではどうしても納得できない私がいた。
 そのわがままを受け入れてやりたいと思いつつ、
私は帰路に着いた。

 老いてからの道の一例であろう。
私が彼なら、どうするのだろう。
 毎週、ため息をつきながら過ごすのか。
答えが見つからないまま、迷い道に入ってしまった。





  我が家の庭 『タイツリソウ』
コメント (1)
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